手稲は最高!

手稲在住30年、手稲って本当にいいなって常々思っています。時に触れ、折に付け思いついた事を、取り留めなく書いてみます。

手稲第二教場 詩吟  5名全員出席

2016-03-18 18:39:40 | 詩吟関係
 今日は教室も第三会議室が取れていてよかった。鈴木さん退会となりました。金曜日別の趣味に行くことになり、詩吟は福祉センターの方へ来るということです。それで会員数5名となり、今日は全員参加となりました。

 みんなとてもよく稽古をしてきてくれています、とくに初心の二人はとてもよく勉強てきてくれた感じでした。後半、交歓吟詠会の吟題を決めてもらい、その稽古をしてみました。みんなとてもいい吟題を選んだように感じました。その稽古の終わらせ、「海南行  細川頼之」をやって終わりました。

 高橋さんが復帰してくれて教室に張りが出たように思います。

 一昨日たまたま手稲駅アイクル広場を通りましたら、なんと「残響」のパネル展をしてるではありませんか。懐かしく一通り目を通してきました。「いの平」で田中先生とお会いしてその話を聞き、すごい感動を受け、私も胸像移転の賛助会員となって除幕式まても参加させていただきました、そして、ささやかでありますが随筆集を作り手元に今もあります。コミュニティセンターの文化祭で田中先生の講演会を開いてもらったこともありました。

 あの当時の感動を風化させたくないという思いが、此の展示会になっているのでしょう。札幌と鹿児島に「久成会」があって、毎年交流会が開催され、その折胸像の掃除をしていると聞いています。

 北海道は黒田清隆達薩摩藩の手で開拓が進められたのでしたが、村橋久成は政府のビール工場建設の計画に、適地は札幌だといって進言して、その設立を任され成功したのです。しかし、札幌ビール工場は民間に払い下げられるのです。北海道開拓の大きな力になるはずだったビール工場が、その力を発揮する前に払い下げになる。その底を流れている黒い霧に抗するには無力だった。職を辞することではその無念をはらすことのできなかった村橋は忽然と姿をくらまし数年後神戸で行路病者として行き倒れて見付けられるのです。

 北海道開拓に村橋のかかわったものは大変多く北海道開拓史に名を残さなければならない村橋が、札幌ビール工場の歴史にさへ名前が遺されていななかったのです。それを掘り起こしたのが田中先生で、「残響」という小説だったのです。
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