昨日の読売新聞の編集手帳というコラムを読んだ方も多いと思う。
阿久 悠さんの言葉が引用されていた「歌詞が聞き取れない、曲あって歌なき時代」と言うのだ。私はいまの若者たちが熱狂しているコンサートに行ったことがないのだけれど、よくテレビで何万もの観衆を集めてのンサートを目にする。また舞台を撥ね飛びながら歌うコンサートの場面なども目にする。私には歌っている言葉が全く伝わらない。時々聞き取れても日本語のように感じない。あの強烈なビートに乗って、舞台と会場が一つになるようなリズム感がたまらないのかもしれないが、どうも私には歌のように思えない。よく家内なんかに聞いている人たち歌詞が分かっているのだろうかと聞くことがあるけれど、若い人たちはちゃんと覚えている見たいという返事が来る。
わしはカラオケ大好き人間で、それも演歌でなきゃ歌えない人なのです。その曲を好きになるためには、今の私の心情に訴えてくる歌詞が必要だ。いまのハート゜ロックやポップスは好きになれない。
同じコラムに超党派の議員の「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が立ち上げられたと書いていた。私は詩吟を長いことやってきている。詩吟では日本語の美しさを大切にしている。その真逆が今のポップス世界なのだと思う。日本の伝統の中に浪曲というものがあるけれど、歌謡曲、演歌の底流に浪曲的な情趣があるように思ったりする。カラオケに出かけているが、若い人は来ていない。たまにポップスを歌う人が来ても一寸場違いな感じになる。今のカラオケもやがてポップスに占領されるようになるのだろうか。そうならないような運動を私たちもやらなきゃならないのかもしれない。
阿久 悠さんの言葉が引用されていた「歌詞が聞き取れない、曲あって歌なき時代」と言うのだ。私はいまの若者たちが熱狂しているコンサートに行ったことがないのだけれど、よくテレビで何万もの観衆を集めてのンサートを目にする。また舞台を撥ね飛びながら歌うコンサートの場面なども目にする。私には歌っている言葉が全く伝わらない。時々聞き取れても日本語のように感じない。あの強烈なビートに乗って、舞台と会場が一つになるようなリズム感がたまらないのかもしれないが、どうも私には歌のように思えない。よく家内なんかに聞いている人たち歌詞が分かっているのだろうかと聞くことがあるけれど、若い人たちはちゃんと覚えている見たいという返事が来る。
わしはカラオケ大好き人間で、それも演歌でなきゃ歌えない人なのです。その曲を好きになるためには、今の私の心情に訴えてくる歌詞が必要だ。いまのハート゜ロックやポップスは好きになれない。
同じコラムに超党派の議員の「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会」が立ち上げられたと書いていた。私は詩吟を長いことやってきている。詩吟では日本語の美しさを大切にしている。その真逆が今のポップス世界なのだと思う。日本の伝統の中に浪曲というものがあるけれど、歌謡曲、演歌の底流に浪曲的な情趣があるように思ったりする。カラオケに出かけているが、若い人は来ていない。たまにポップスを歌う人が来ても一寸場違いな感じになる。今のカラオケもやがてポップスに占領されるようになるのだろうか。そうならないような運動を私たちもやらなきゃならないのかもしれない。