川上未映子の『ヘヴン』という小説を読んでいた。
芥川賞作家だが、彼女の作品を読むのは初めてである。
長々と饒舌な会話体を用いる作家かと思っていたが、
この作品はそんな文体ではなく、読み易い。
共にいじめにあっている、中学生の男女が手紙で文通し合うという
話だが、地味なようでつい読ませられてしまう上手い作家である。
文中に<メールと手紙>の違いについて、
メールは発信内容が残るので、読み返し可能だが、出した手紙は、
通常は読み返せないという記述があって、ふと考えさせられた。
メールと手紙の違い。その距離にこそ時代の変貌層があるような
気がしたからである。それは、記録と記憶の違いにも置き換え得る。
文字や画像として記録することと、記録情報へのアクセスの容易さが
ある今日では、<過去>という生きられたはずの時間が、薄っぺらで、
懐かしさの実感に乏しくなっているような気がする。
記録媒体が限られていた頃、「歴史とは思い出」(小林秀雄)だったの
だろうが、過去が時間の経過や古びた様相を伴わず、現在にいつでも
再生可能なる記録情報でしかなくなると、我々の時間意識から歴史の
連続性や重層性がどんどんと失われていくのではなかろうか。
このような感覚・感性の変容は、私は、80年代初め頃から萌していた
ように思う。
そのことを文体で示した作家は、村上春樹だったと思う。
彼の初期作品の文体は、数行で文章がぶった切れた叙事詩のような句
だったり、何より彼には離人症(解離性障害)の傾向がはっきりあった。
つまり、現実に現実感やそこに自分が存在する臨場感を感じないような
人格の希薄傾向である。
これはハルキさん本人だけの問題ではなく、変貌しつつある時代・社会
環境の問題であったと思う。
「世界文学」ともなりつつあるムラカミ・ハルキは、
この問題を既に超えたものか、私にははっきりとは分からない。
川上未映子に話を振り戻すと、彼女は最初から世界を肯定して丸齧りに
していけるかの如きヒトのように感じる。
ハルキ世代が「否定」の屈折から世界肯定感覚へと弁証法的に進んだもの
とは異なる。
そのようなストレートな、カッコ良さが、川上未映子には、
そのルクスやら生き様にも滲み出ているようで、J文学というより、
インディーズ文化人、インディーズ文学と呼んだ方がぴったりする。
時代がいつも持つお仕着せからの、逸脱的な自立体たる、
各界のインディたちの活躍に期待してます。
芥川賞作家だが、彼女の作品を読むのは初めてである。
長々と饒舌な会話体を用いる作家かと思っていたが、
この作品はそんな文体ではなく、読み易い。
共にいじめにあっている、中学生の男女が手紙で文通し合うという
話だが、地味なようでつい読ませられてしまう上手い作家である。
文中に<メールと手紙>の違いについて、
メールは発信内容が残るので、読み返し可能だが、出した手紙は、
通常は読み返せないという記述があって、ふと考えさせられた。
メールと手紙の違い。その距離にこそ時代の変貌層があるような
気がしたからである。それは、記録と記憶の違いにも置き換え得る。
文字や画像として記録することと、記録情報へのアクセスの容易さが
ある今日では、<過去>という生きられたはずの時間が、薄っぺらで、
懐かしさの実感に乏しくなっているような気がする。
記録媒体が限られていた頃、「歴史とは思い出」(小林秀雄)だったの
だろうが、過去が時間の経過や古びた様相を伴わず、現在にいつでも
再生可能なる記録情報でしかなくなると、我々の時間意識から歴史の
連続性や重層性がどんどんと失われていくのではなかろうか。
このような感覚・感性の変容は、私は、80年代初め頃から萌していた
ように思う。
そのことを文体で示した作家は、村上春樹だったと思う。
彼の初期作品の文体は、数行で文章がぶった切れた叙事詩のような句
だったり、何より彼には離人症(解離性障害)の傾向がはっきりあった。
つまり、現実に現実感やそこに自分が存在する臨場感を感じないような
人格の希薄傾向である。
これはハルキさん本人だけの問題ではなく、変貌しつつある時代・社会
環境の問題であったと思う。
「世界文学」ともなりつつあるムラカミ・ハルキは、
この問題を既に超えたものか、私にははっきりとは分からない。
川上未映子に話を振り戻すと、彼女は最初から世界を肯定して丸齧りに
していけるかの如きヒトのように感じる。
ハルキ世代が「否定」の屈折から世界肯定感覚へと弁証法的に進んだもの
とは異なる。
そのようなストレートな、カッコ良さが、川上未映子には、
そのルクスやら生き様にも滲み出ているようで、J文学というより、
インディーズ文化人、インディーズ文学と呼んだ方がぴったりする。
時代がいつも持つお仕着せからの、逸脱的な自立体たる、
各界のインディたちの活躍に期待してます。