脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

バッグの形而上論。

2011年08月06日 09時14分27秒 | コギト
最近、ネットでロンシャンの黒革トートバッグを買った。
デザインが気に入ったのだが、どうも女モノだったようだ。
昔から思っているのだが、女モノはデザインが良くて、男モノになると
ボテッとしていて、洗練さに欠けるのは何故だろうか?

バッグでも服でも、女性性とは、装飾的付加性のことなのだろうか。
デザイン的で丸みを帯びたバッグが女性用とは、誰が決めたのだろう?
私はこのような、ファッション・アイテムの性別が嫌いである。
個人の勝手だろ! と言いたくなる。

ところで、女はバッグを、自分と一体に守るように抱きかかえる。
男は体とバッグは分離して持っているような、持ち方に性差を感じる。
女性は乳幼児を抱くように、男性は子供と手をつなぐかのように、
近しい外在物とつながる形式の差に、ジェンダーが現れている。

女性にとってバッグは、物を入れて運ぶ道具ではなく、衣服の延長で
あり、自分を飾るアクセサリーなのだろう。バッグを持っているので
はなく、その装飾性に縁取られ、例えばブランド品のバッグや衣類に、
自分を明け渡し、身を委ねているようなものだと思う。

これは、自己表現というよりは、ブランド品の装飾デザインのコード
に乗っかった、ただの自己演出である。
商品が提示するライフ・スタイルという<形>に飲み込まれて、
自己とは、何処に消えてしまうのだろうか?

いや、そんな無粋なものは不要なのかもしれない。
全てが足りている時代に、絶対的窮乏としての「必要」は存在しない。
「必要」を創作する下地は、ライフ・スタイルである。
現代の我々とは、商品(コード)の海の中で必然的に「自己」なるもの
を消失させるように、仕組まれているのだろう。


近頃、街中ではバッグを斜め掛けにした若者をよく見かける。
体に密着したボディーバッグというのもよく見る。
このようなバッグと体の一体性は、女性性のコードだったものが、
ユニ・セックスに移行している証しだと思う。

既に誰かが言ってるのだろうが、バッグは<服>に近付いている。
メガネ・時計・靴も、<服>である。
髪の毛・爪・脚さえ、身にまとうモノ、<着るもの>に近い。
携帯端末だって、やがて<着る>ものになっていくだろう。

さらに言えば、顔や体形だって、整形やダイエットを通じて<着るも
の>であり、学歴や肩書きだって、その感覚に近付いているかもしれ
ない。現代人は、商品化される事物は、金銭と引き換えに<着る>、
身にまとい、飽きれば着替えるという人生なのだ。

バッグも当然、持つものから、身にまとうモノに変化しつつある。
いや、それ以上に、<バッグ>という存在が、まるで若者たちの
小ぶりになった自己の姿かのように、逆照射されて映ってくる。

情報化社会の中で、自我の肥大化がある一方で、身体的な自己性と
いう内実は、どんどん貧弱化してきている。
男も女も、そんな小さく収まった「個」=自分自身を抱きかかえては、
自己完結した小さな安定を無難に守るように、ひたすらコードを生き
ている。街には、そんな出来合いの、予定調和な風景ばかり。

他人の視線にも、コードにも超然として、
もっと勝手に、自分の気分で、身体の自然な活力と欲求に沿って、
装うよりも身を晒すことには、今の時代、勇気が必要かもしれない。
オリジナルな自分の<かたち>が、素直に直裁に生きられれば、
そこに新しい自由が拓けていく気がするけど‥。






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