脳辺雑記帖 (Nohhen-zahts)

脳病と心筋梗塞を患っての独り暮し、Rondo-Nth の生活・世相雑記。気まぐれ更新ですが、気長にお付合い下さい。

精神障害という、運命と自由。

2017年05月28日 12時22分58秒 | 精神障害
まだ朝の5時だった。精神病の母親が何やら叫んでいるので起き出して
階下に行くと、頭がヘンなので救急車を呼んでくれという。どう変なの
か、痛いのかめまいがするのか等々訊くが、自分でも良く分からないら
しい。台所の床に寝そべって苦痛を訴えるので、119番に電話した。

私は着替えをして、眠くてボォとする頭で保険証・現金等持ち物を揃え
た。5分程で救急車来て、近隣の大学病院に搬送された。心電図と採血
をして貰うが、問題はなかった。本人も落ち着いて診察台に寝ている。
言葉もしっかりしている。結局、メンヘル系の患者の反応として判断さ
れ、会計に1万円を払い、7時頃タクシーで帰宅した。

救急車のお世話になるのは半年ぶりである。前回は昨年の12月だった。
家の階段を頭から滑り落ちる自殺企図で、顔から出血していたので救急
搬送し、顔面を13針縫ったのだった。つい最近も階段での自傷企図が
数回あり、未然に止めたばかりだったが、今日の「頭がヘン」もそれの
何らかの「変化態」「変容」というものなのかしれない。

何だか判らないが、頭の中で精神病の「虫」が騒ぐかのようだ。それを
根本から退治出来ないでいる。精神病者とは、そんな「虫」が頭に住み
ついているヒトビトである。「虫」が騒ぎ暴れる。それを本人も薬でも
どうしようも出来ない時がある。「虫」なら退治すれば良いが、脳機能
を掻き乱す不明で不可視の、何らかの因果の存在体なのである。

精神病は遺伝や生育環境、幼児体験等が原因であるにせよ、本人の運命
としか受け止めようがない代物に思える。そんな運命を持った親や子を
背負う他の家族にとっても、共に担うべき身内の運命なのだろうか。

本当は、運命に幸運も不運もないと思う。確かに人間にとっては、人間
の尺度や常識では不運なことはいくらでもある。しかし、神の眼差しや
永遠の相から見たら、どうなのかは誰にも判らない。そのような思念に
おいて見出される「あるがまま」こそが、生きるべき運命なのだと思う。

勿論我々は、運命の奴隷ではない。どんな運命をも前向きに捉えられる
柔軟な心をもつ自由がある。少しの運命の過酷なら、努力で克服もし得
る器量だってあるだろう。

我々は、(敢えて記せば、神の定めた)運命を(自分の)自由で生きる。
我々は、神の名において<運命>を、人間の名において、誰もが<自由>
な意思を生きる存在なのである。権力や法制度がそれを奪うことは、
人間を人間でない物に、意思のない国家部品にでも貶める行為である。
(但し、人間の名に値しない行為・言動には、自由ではない。)



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