大澤真幸氏の近著『社会学史』を読んでいた。社会学の通史的俯瞰に
好著であるだけでなく、マルクスやフロイドも含めた社会思想の通史
本としても、とても分かりやすく読み易い良書である。デリダやフー
コーの他に、ドゥルーズも出して欲しかったけど。
私の世代では、社会学者というと、デュルケム、ジンメル、M・ウェ
ーバー位しか習わなかった。パーソンズ、A・シュッツ、ゴフマンは
名前程度しか知らなかったが、とにかく各人の思想エッセンスを、身
近な事例に即して説明されていて好い本である。
(ルーマン等のシムテム理論はやや難しかったけど。)
この本の書評がしたい訳ではない。本書の最後の方、M・フーコーを
解説する途中に、ソクラテスの「汝自身を知れ」という、至極有名に
成り過ぎて陳腐化した言葉が出てきて、それ故却って、我が身を顧み
るに引っ掛かった。
この箇所は、本書の本筋とは余り関係はないのだが、本書によれば、
ソクラテスはアテナイの道行く人に、「自分にとって付属物であるよ
うなもの」を自分自身より優先させてはならない、と説いた。自分の
付属物とは、富(逆に言えば貧困)とか地位等々である。同様の思想は、
同時代の中国の老荘にもある。「汝自身を知れ」とは「自己への配慮」
をもち善き人であれという、そんな含蓄のメッセージであるという。
荘子は、自分が入り込んでいる器、外物に囚われるな、と言った。富
や地位や、名声やら肩書やら、スタイルや顔の外貌等々、全て「外物」
である。「汝自身」ではない付属物である。我々はどうしてもこれら
付属物に守られ、それを他者と比較しては安心したり羨んだり、誇示
したり驕ったりしがちである。しかしそれらは「汝自身」そのもので
はないのである。(そうなると、汝自身とは何なのか、難問であるが。)
社会学者の大澤氏の本を読んでいて、今何で、この箇所に引っ掛かっ
たかと言えば、生活状況が変化した自分自身を戒める必要からでもあ
るが、唐突だが、我が国の首相が主催する「桜を見る会」の件である。
この会の放漫な在り方、TV芸能人他有名人を呼んで場を作り、自分
の後援会・選挙民を飲食接待するかのような一連の宴を、毎年税金で
大規模に挙行しているという。「安倍印」が付けば、国有地も安くな
るは、税金で勝手は許されるは、名簿等の証拠書類はすぐ廃棄するは、
権力者への阿りと本人の驕りは、度を増してないかと、あきれ返る。
(というか、一方では増税をしておいて、国の代表がおおっぴらに税
金にたかる卑しさは、恥ずかしくないのか? 北朝鮮の代表のような
厚顔の人士ならともかく、こういうのは、税金ドロボーではなく、
税金コジキである。何となく全体が、名声等に群がるアリの光景だ。)
また文科大臣は、大学入試の民間試験導入で「身の丈で」という発言
をして地雷を踏んだ。だいたい庶民というものは、皆身の丈や身の程
を弁えて生きざるを得ず、言われなくともそう生きているものである。
本来の身の丈やら、汝自身が分からなくなっている非常識な面々、
良識や良心に照らす気がないヒトビトは、国会議員や財界人、著名人、
その他ある種の出世成功者等々、世のお偉いさんに多い気がする。
参考文献:大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書)
好著であるだけでなく、マルクスやフロイドも含めた社会思想の通史
本としても、とても分かりやすく読み易い良書である。デリダやフー
コーの他に、ドゥルーズも出して欲しかったけど。
私の世代では、社会学者というと、デュルケム、ジンメル、M・ウェ
ーバー位しか習わなかった。パーソンズ、A・シュッツ、ゴフマンは
名前程度しか知らなかったが、とにかく各人の思想エッセンスを、身
近な事例に即して説明されていて好い本である。
(ルーマン等のシムテム理論はやや難しかったけど。)
この本の書評がしたい訳ではない。本書の最後の方、M・フーコーを
解説する途中に、ソクラテスの「汝自身を知れ」という、至極有名に
成り過ぎて陳腐化した言葉が出てきて、それ故却って、我が身を顧み
るに引っ掛かった。
この箇所は、本書の本筋とは余り関係はないのだが、本書によれば、
ソクラテスはアテナイの道行く人に、「自分にとって付属物であるよ
うなもの」を自分自身より優先させてはならない、と説いた。自分の
付属物とは、富(逆に言えば貧困)とか地位等々である。同様の思想は、
同時代の中国の老荘にもある。「汝自身を知れ」とは「自己への配慮」
をもち善き人であれという、そんな含蓄のメッセージであるという。
荘子は、自分が入り込んでいる器、外物に囚われるな、と言った。富
や地位や、名声やら肩書やら、スタイルや顔の外貌等々、全て「外物」
である。「汝自身」ではない付属物である。我々はどうしてもこれら
付属物に守られ、それを他者と比較しては安心したり羨んだり、誇示
したり驕ったりしがちである。しかしそれらは「汝自身」そのもので
はないのである。(そうなると、汝自身とは何なのか、難問であるが。)
社会学者の大澤氏の本を読んでいて、今何で、この箇所に引っ掛かっ
たかと言えば、生活状況が変化した自分自身を戒める必要からでもあ
るが、唐突だが、我が国の首相が主催する「桜を見る会」の件である。
この会の放漫な在り方、TV芸能人他有名人を呼んで場を作り、自分
の後援会・選挙民を飲食接待するかのような一連の宴を、毎年税金で
大規模に挙行しているという。「安倍印」が付けば、国有地も安くな
るは、税金で勝手は許されるは、名簿等の証拠書類はすぐ廃棄するは、
権力者への阿りと本人の驕りは、度を増してないかと、あきれ返る。
(というか、一方では増税をしておいて、国の代表がおおっぴらに税
金にたかる卑しさは、恥ずかしくないのか? 北朝鮮の代表のような
厚顔の人士ならともかく、こういうのは、税金ドロボーではなく、
税金コジキである。何となく全体が、名声等に群がるアリの光景だ。)
また文科大臣は、大学入試の民間試験導入で「身の丈で」という発言
をして地雷を踏んだ。だいたい庶民というものは、皆身の丈や身の程
を弁えて生きざるを得ず、言われなくともそう生きているものである。
本来の身の丈やら、汝自身が分からなくなっている非常識な面々、
良識や良心に照らす気がないヒトビトは、国会議員や財界人、著名人、
その他ある種の出世成功者等々、世のお偉いさんに多い気がする。
参考文献:大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書)