統合失調症の患者は、しばしば「テレビが私を見ている」と、転倒した感覚を訴える。
私自身には、同じ感覚に陥った体験はないが、
私は、この感性は真実の一端を衝いていると思えるのである。
テレビとは、それを観ている側を領有しようと迫る装置である。
我々を、他有化してくる眼差しなのである。
人は、テレビとして切り取られ編集された、
映像情報に刺激や影響を受け、その世界に取り込まれる。
テレビは<見る>べき客体であるはずなのに、
特に精神病者の場合には、私という自己の不安定性故か、
テレビに<見られる>というような逆転が生じ、
その映し出される番組の世界像、現実相に領有され、心が左右されてしまうのだろう。
ネットもテレビも、物財であり情報媒体であるというよりは、
我々の日々を取り囲み、我々を操作してくる力であり、
抗い難い「自然な」、<環境>となっている。
我々は、生きている主体でありながら、
眼差される者としての客体に転倒させられているのである。
この主ー客の関係は、正常な場合にも相互に転倒を行き来している訳ではある。
が、「健常者」では「テレビが私を見ている」という感覚は出てこないものである。
統失者のこの類の言葉は、確かに異常ではあろうが、
異論も勿論あるであろうが、
私には、このような病者の感受性には、
一笑に附してしまえない事柄の本質を衝いてくる、
真実への純粋直観を感じるのである。
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私自身には、同じ感覚に陥った体験はないが、
私は、この感性は真実の一端を衝いていると思えるのである。
テレビとは、それを観ている側を領有しようと迫る装置である。
我々を、他有化してくる眼差しなのである。
人は、テレビとして切り取られ編集された、
映像情報に刺激や影響を受け、その世界に取り込まれる。
テレビは<見る>べき客体であるはずなのに、
特に精神病者の場合には、私という自己の不安定性故か、
テレビに<見られる>というような逆転が生じ、
その映し出される番組の世界像、現実相に領有され、心が左右されてしまうのだろう。
ネットもテレビも、物財であり情報媒体であるというよりは、
我々の日々を取り囲み、我々を操作してくる力であり、
抗い難い「自然な」、<環境>となっている。
我々は、生きている主体でありながら、
眼差される者としての客体に転倒させられているのである。
この主ー客の関係は、正常な場合にも相互に転倒を行き来している訳ではある。
が、「健常者」では「テレビが私を見ている」という感覚は出てこないものである。
統失者のこの類の言葉は、確かに異常ではあろうが、
異論も勿論あるであろうが、
私には、このような病者の感受性には、
一笑に附してしまえない事柄の本質を衝いてくる、
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