俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

ヘルメットと軍隊

2012-12-01 10:21:30 | Weblog
 この秋に大阪から伊勢に引っ越して以来、私の主要交通手段が自転車になった。田舎では自動車抜きの生活は難しいと言うが、モータリゼーションに賛成できない私としては多少の犠牲を払っても自転車による移動を選ばざるを得ない。
 自転車を常用するのは大学時代以来だが、当時は使っていなかったヘルメットを装着するようになった。ヘルメットを使うことが社会常識になっていることもあるが私の危機意識が変わったからだろう。事故はいつ起こるか分からないので被害を最小限にするためにヘルメットは必需品だ。
 しかしヘルメットを被りながらいつも思う、事故を起こさなければヘルメットは無駄になる、と。事故が起こった時にしか役に立たないヘルメットなど無用の長物ではないか、それよりも事故を起こさないための安全運転のほうがずっと大切なのではないか、とも思う。しかし事故は自分で起こすものとは限らない。全く無過失でも巻き込まれることがあり得る。だから掛け金掛け捨ての保険だと思って諦めている。
 戦争も似たようなものではないだろうか。進んで戦争を起こそうとしなくても攻められたら守らざるを得ない。現在、進んで戦争をしようとする野蛮な国は米・中・イスラエルなどほんの少しの国だけだろう。多くの国は攻められたら守る、あるいは攻められないための抑止力として軍隊を持っているのだろう。
 軍備を拡充するとすぐに「軍国主義の復活」とヒステリックに騒ぐ人が内外にいる。確かに軍備は高くつく。もしヘルメットや家の鍵のように全く攻撃的でない防衛が可能なら是非それを選びたいとは思うが、そんな便利な方法は今のところ無い。軍隊は保険のようなものだ。使わずに済むことが最も望ましいが、最悪の場合にはそれに頼らざるを得ない。
 

モンスター

2012-12-01 09:46:59 | Weblog
 怒りは本来「特定の誰か」に向かうものだ。ところが怒りを顕示できない場合が少なくない。上司などを含めた権力者に対する怒りは抑圧される。怒りをその都度発揮できる人は少ないから大半の怒りが抑圧される。抑圧された怒りは消えずに「ムシャクシャする」とか「イライラする」などの負の感情に変化する。この変質した怒りが捌け口を求める。それがヤツ当りだ。ヤツ当りは殆んどが抵抗できない人に向けられる。弱者に対するいじめであったり、飲食店や小売店の従業員、あるいは駅員やタクシーの運転手などに向けられる。
 認知症の老人を叱り付けた場合、老人は叱られた理由だけではなく叱られたという事実さえすぐに忘れてしまうが、叱られたことによる不快な感情だけが長く続くそうだ。認知症でない人も同じようなもので不快な感情は不快な経験から独立して長く残って捌け口を求める。
 こういう類の人に怒りをぶつけられたら始末に負えない。彼らは今起こったことに対して怒っているのではなく過去に起こったことに対して怒っているのだから、現在の誰かが彼らの不満を解消することは不可能だ。
 彼らは相手構わず怒りの捌け口を求める。その中でも学校を攻撃するモンスターペアレントと病院を攻撃するモンスターペイシェントは特に醜悪だ。
 飲食店などでの悪質なクレイマーもモンスターカスタマーと名付けられたが余り定着しなかった。日本人はこれらをモンスターとは認識しなかったからだ。モンスターではなくただの悪人と位置付けられた。
 どこが違うのか?
 教育と医療はサービス業ではないからだ。「福祉」や「仁術」などと言って聖職扱いしたい訳ではない。「拒絶できない」という特別な事情があるからだ。義務教育の生徒を退学にはできないし、因縁を付けられると分かっていても診療を拒否できない。飲食店ならタチの悪い客の入店を拒絶できるが病院は誰であろうと断れない。「暴力団員お断り」と掲示することは病院には認められていない。だから悪質なクレイマーが集まる。それがモンスターだ。小売・サービス業のクレイマーとはレベルが違う。