俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

朝日新聞の詭弁(2)

2013-06-09 09:44:06 | Weblog
 昨日(8日)の「朝日新聞の詭弁」について少し書き加えたい。「文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」という文章になぜ私が呆れ果てたのか。何でも良いから実際の言葉をこの文章に当て嵌めてみればこの文章がいかにナンセンスなのかがよく分かる。例えば「ネッシーが存在するという文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」となり、ネッシーの存在でさえ正当化できる代物だ。これはいかにももっともらしい文章によって読者を欺くレトリックに過ぎない。確信犯だろう。
 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を代入すればもっと凄いことになる。実在する可能性を認めるどころか、文書まで存在するのだから「実在した」ということにさえなりかねない。これは全く無意味な言葉遊びであって、文筆を仕事とする者が絶対にしてはならないことだ。言葉に対する冒涜だ。
 こんな詭弁を弄せざるを得なくなったところに朝日新聞の苦しい立場が表れている。吉田某によるデタラメを記事にしてそれが国際的な反響を呼んだ。ところがその記事が間違っていることが分かってしまった。今更、引くに引けない。社を上げて強制連行の証拠探しに励んだが何十年掛かってもそんな証拠は見つからなかった。優秀な朝日新聞のスタッフを総動員しても証拠が見つからなかったのだから諦めれば良かったと思うのだが、詭弁という邪道を彼らは選んだ。それが「強制連行は無かったという証拠を出せ」だ。元々無いものを証明するための証拠などあろう筈が無い。「ある」と主張する側に証明責任があるという論理の鉄則まで無視して強弁を続けているからいよいよ無理に無理を重ねることになってしまった。遂には論理まで否定して、得意の文章力で煙に巻くという戦略を選ばざるを得なくなったようだ。イソップ寓話の狼少年よりも哀れだ。
 教訓:誤りに気付いたら素直に謝りましょう。