俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

同時遍在

2013-06-12 10:19:11 | Weblog
 アリバイは「不在証明」と訳されるがこれは誤訳だ。ラテン語での意味は「他の場所に」であり、「そこにいなかった」という意味ではなく「他の場所にいた」という意味だ。実際、推理小説でのアリバイ崩しの多くは「他の場所にいた」という偽装を暴くことによって成立している。
 今では防犯ビデオがあるので「不在証明」も可能になったが、本来、不在を証明することは難しい。その時他の場所にいた、ということがその場所にはいなかったということの証拠になっている。これは同時遍在が神以外には不可能だという共通認識に基いている。
 神ならざる人は同時に複数の場所に存在することはできない。と言うことは、同時に複数の場所に現れ得るのは神だからだ、ということになる。
 AKB48は同時遍在が可能だ。それはチームA・チームK・チームBがそれぞれ別々に活動できるからだ。チームAであれチームKであれチームBであれ、どれもAKB48の一部だ。だから同時遍在と言える。
 AKB48に関して「神」という言葉がよく使われる。「神7」とか「神曲」とか「神公演」とか「神推し」とかが頻繁に使われる。これを大袈裟な言葉だと批判する人がファンの中にもいるようだが、「同時遍在できる」という神にしかできないことをするのだからこの言葉も許されよう。
 そう考えるとGodは誤りで実はGodsであって、それぞれがあちこちに現れるから同時遍在が可能なのだろう。

「ある」と「無い」

2013-06-12 09:52:44 | Weblog
 社会に蔓延する虚妄の多くは「無い」ものを「ある」と思い誤ることが原因だ。これは証明責任に対する無理解のせいであり、「ある」と主張する側に証明責任があるということを小中学生の時点で常識として教えておくべきだろう。
 一番分かり易い例は神・幽霊・ネッシー・雪男などだ。所謂オカルトの類であり、「無いと証明されていないのだから存在を否定できない」という無茶な理屈だ。オウムも同じ手を使っていたことを最近知った。「空中浮遊が超能力でできないことを証明せよ」と機関誌で開き直っていた。勿論「証明不可能」と言いたいだけだ。
 冤罪も同じ構造だ。犯人でないなら「犯人である」という証拠などある筈が無い。それでも犯人にされてしまうのは検察が余りにも上手く物語を作りそれに沿って集めた状況証拠に裁判官が騙されるからだ。「無い」ものを「ある」と思い込むことは有害だ。
 痴漢の冤罪の場合は事情が違う。幾ら女性を守るためとは言え、これは酷い法律だ。証拠が無くても有罪にされるのだから冤罪だらけになる。冤罪を免れる方法が無いのだから、言い掛かりを付けられた時点で運が悪かったと諦めるしか無い。
 朝日新聞による強制連行説も同じトリックだ。先日(7日)の記事では「文書の不在は、そのまま事実の不在を意味しない」(8日付け「朝日新聞の詭弁」のコメント欄参照)と書いていたが、この本音は「たとえ『無い』ということが明らかになっても『ある』ということを否定させない」という意思表示だろう。ここまで来ればオウム以下のオカルトのレベルだ。しかしこのことは「文書が存在しない」つまり「証拠は見つからなかった」と朝日新聞として認めざるを得なくなったということなのだと思うのだがどうだろうか。単刀直入に尋ねたい、強制連行の証拠となる文書はあるのか?