俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

楽しい認知症

2013-06-10 10:13:28 | Weblog
 幸・不幸の判断は主観的なものだ。人が羨むような境遇でも本人が不幸と感じていれば不幸であり、北朝鮮の人民のような境遇でも本人が幸福と感じていれば幸福だ。これらを偽りの幸・不幸と否定する訳には行かない。脳科学者の中には、幸・不幸を決めるのは脳内のセロトニンの量だと極論する人までいる。
 軽度の認知症の老人は知力の低下を自覚して苦しむが、重度の認知症になれば何の悩みも無くなって幸せそのものらしい。泥酔した人がこの世を極楽と感じるようなものだろうか。
 カントは晩年、認知症を患ったらしい。窓から首を出して「空中電気を測定する」と言っては周囲の人を「あの天才が何と痛ましい姿になったのか」と嘆かせたらしいが、本人は幸福感で一杯だっただろう。
 何という映画だったか思い出せないが、治療された狂人が「何の権利があって私を苦し過ぎる現実に引き戻したのか」と激怒するシーンがあった。狂うことによって現実から逃れていた人にとっては、正気に戻ることは地獄へ連れ戻されることを意味するのかも知れない。
 健康な人なら動くことを禁じられたら苦痛だが、あちこちが痛む老人にとっては動くことこそ苦痛だ。元気だからこそ死ぬことが辛いのであって、生きることが苦しければ死を受け入れ易くなる。認知症は老いの苦しみから解放される僥倖なのかも知れない。老醜や衰えは正気の人には耐え難いが認知症になれば苦しまずに済む。

冤罪

2013-06-10 09:47:47 | Weblog
 状況証拠を積み重ねて有罪判決を下すべきではない。裁判の原則は「疑わしきは罰せず」あるいは「疑わしきは被告人の利益に」の筈だがこの原則が守られていない。だから冤罪事件が生まれる。
 人は事実をそのまま知覚することはできない。自分というフィルターを通して初めて外界を認知する。だから好き・嫌いが露骨に反映される。古くから「アバタもエクボ」と言う。好きであればアバタでさえエクボに見える。その逆に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とも言う。嫌いであれば当の本人だけではなくその周辺の物まで悪意を持って見てしまう。
 偏見の塊である人間に客観的な判断は難しい。だからこそ「疑わしきは罰せず」が大原則として必要になる。確かな証拠が無ければ有罪判決を下すべきではない。増してや死刑判決など言語道断だ。
 イギリスで死刑が廃止されるきっかけとなった事件をご存知だろうか。妻と娘を殺したとして1950年にエバンスという男が絞首刑になった。ところがそれから3年後に真犯人が見つかった。妻と娘を殺された被害者の筈のエバンス氏が国の誤審によって殺されたということだからこんな無茶苦茶な話は無い。1969年になってようやくイギリスは死刑を廃止した。
 疑わしい死刑囚は日本にも少なからずいる。名張毒葡萄酒事件の奥西勝死刑囚がその一人だ。1972年に最高裁が上告を棄却して以来41年間を死刑囚として暮らし現在87歳だ。法務大臣が死刑執行を認めないから記録的長寿の死刑囚となっている。
 和歌山砒素カレー事件の林真須美死刑囚も疑わしい。ワイドショーなどで放映されたふてぶてしい態度から私も彼女を疑っていたが、判決を読んで驚いた。総て状況証拠に過ぎず決定的な証拠は何1つ無い。大原則に戻るべきではないだろうか。「人には人を裁く権利は無い」などと馬鹿げたことを言う気は無いが、冤罪は犯罪であり誤った有罪判決を下した裁判官は犯罪者だ。