幸・不幸の判断は主観的なものだ。人が羨むような境遇でも本人が不幸と感じていれば不幸であり、北朝鮮の人民のような境遇でも本人が幸福と感じていれば幸福だ。これらを偽りの幸・不幸と否定する訳には行かない。脳科学者の中には、幸・不幸を決めるのは脳内のセロトニンの量だと極論する人までいる。
軽度の認知症の老人は知力の低下を自覚して苦しむが、重度の認知症になれば何の悩みも無くなって幸せそのものらしい。泥酔した人がこの世を極楽と感じるようなものだろうか。
カントは晩年、認知症を患ったらしい。窓から首を出して「空中電気を測定する」と言っては周囲の人を「あの天才が何と痛ましい姿になったのか」と嘆かせたらしいが、本人は幸福感で一杯だっただろう。
何という映画だったか思い出せないが、治療された狂人が「何の権利があって私を苦し過ぎる現実に引き戻したのか」と激怒するシーンがあった。狂うことによって現実から逃れていた人にとっては、正気に戻ることは地獄へ連れ戻されることを意味するのかも知れない。
健康な人なら動くことを禁じられたら苦痛だが、あちこちが痛む老人にとっては動くことこそ苦痛だ。元気だからこそ死ぬことが辛いのであって、生きることが苦しければ死を受け入れ易くなる。認知症は老いの苦しみから解放される僥倖なのかも知れない。老醜や衰えは正気の人には耐え難いが認知症になれば苦しまずに済む。
軽度の認知症の老人は知力の低下を自覚して苦しむが、重度の認知症になれば何の悩みも無くなって幸せそのものらしい。泥酔した人がこの世を極楽と感じるようなものだろうか。
カントは晩年、認知症を患ったらしい。窓から首を出して「空中電気を測定する」と言っては周囲の人を「あの天才が何と痛ましい姿になったのか」と嘆かせたらしいが、本人は幸福感で一杯だっただろう。
何という映画だったか思い出せないが、治療された狂人が「何の権利があって私を苦し過ぎる現実に引き戻したのか」と激怒するシーンがあった。狂うことによって現実から逃れていた人にとっては、正気に戻ることは地獄へ連れ戻されることを意味するのかも知れない。
健康な人なら動くことを禁じられたら苦痛だが、あちこちが痛む老人にとっては動くことこそ苦痛だ。元気だからこそ死ぬことが辛いのであって、生きることが苦しければ死を受け入れ易くなる。認知症は老いの苦しみから解放される僥倖なのかも知れない。老醜や衰えは正気の人には耐え難いが認知症になれば苦しまずに済む。