俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

物質電送機

2013-06-30 09:21:16 | Weblog
 職場にファクシミリが導入された時、変な感じがした。ファックスしても原稿が手元に残ることに違和感を覚えた。それまでにゼロックス(乾式複写機)には馴染んでいたにも関わらず「送った」のに原稿が残っていることが不思議で仕方が無かった。情報だけを電送するほうが物質を電送するよりも易しいことは理解できるのだが腑に落ちなかった。これは決して私だけのことではない。こんな漫画があった。
 新人OLがファックスを命じられた。しばらくして彼女の上司のところに送付先からクレームの電話が入った。「同じ文書が延々と送られている。」ファクシミリの所へ行くと新人OLがファックスし続けていた。彼女は言った。「何度送っても戻って来ちゃうんです。」
 これが人間の感性なのだろう。送ったら手元には無くなる、譲ったら自分の物ではなくなる、そう感じるものだ。送ったにも関わらず手元に残っているから違和感を感じたのだ。
 怒りも発散すれば解消する。これは決して八つ当たりの奨励ではない。私の場合、マスコミや政治に怒ったら文章にしてブログに載せる。そうすれば怒りは電送される。
 もしかしたらラブレターにも同じような効能があるのかも知れない。精一杯思いを込めて手紙を書けば、その結果はどうであれ、満足感が得られる。これもカタルシスの一種だろうか。

首狩族

2013-06-30 08:57:36 | Weblog
 マスコミは首狩族ではないか、と時々思う。ペンや電波というナマクラ刀で首を切り落とすことが彼らのやり方だ。
 医療事故があれば医師、いじめがあれば教師、企業の不祥事があれば経営者という具合に、彼らは狩る相手を探し続けている。首を狩れば大喜びをする。それは彼らが首狩族だからだ。
 しかし彼らが首を狩ることによって社会は良くなっているのだろうか。何も改善されない。それどころか医療崩壊や教師の質の低下といった形で事態を更に悪化させていることさえある。首狩りが自己目的化しているのではないか?本来の目的を忘れて首狩りの快感に酔っているのではないか?
 犯罪なら多くの場合、個人または組織による悪意や作為がある。その場合なら当事者を咎めることは正当だ。これは一罰百戒にもなる。しかし多くの問題においては悪意も作為も無い。そんな当事者の責任追及をして何になるのだろうか。問われるべきなのは個人の責任ではなく社会の仕組みだろう。マスコミのせいで社会全体が犯人探しで問題が解決すると思い違いをしている。
 例えばプロ野球の「飛ぶボール」の問題についてマスコミは加藤コミッショナーの首を狩れば満足するだろう。しかしそれでは統一球とはいかにあるべきかという肝心の問題が放置されてしまう。
 あるいは「ロンパリ」と発言した芸能人が吊るし上げに会っている。私はこれがなぜ差別発言なのか分からないし、いつから放送禁止用語に指定されたのかも知らない。こんなくだらない業界内での揉め事に放送時間を割くべきだとは思えない。
 悪人を見付けてそれをやっつけるという勧善懲悪は分かり易い。しかしそんな「正義の味方」の物語は今時の小学生でさえ喜ばない。
 マスコミは首を狩る度に「ペンの勝利だ」と自画自賛するが、トカゲの尻尾を何本切っても根本的解決にはならない。野蛮な首狩りごっこなどやめて問題の本質を追求すべきだ。中世のような魔女狩りに終始するのではなく真因を問題化すべきだ。