俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

証明責任

2013-05-16 10:44:26 | Weblog
 「ある」か「ない」かが問われる時、「ある」と主張する側に証明責任がある。このことを理解していない人が多いから妙な議論になる。
 ネッシーであれ雪男であれ宇宙人であれ、「ない」と証明することは不可能に近い。常に「現時点では確認されていない」としか言えない。これが帰納法の弱点だ。では存在すると言えるのか、いや存在しない。存在すると証明されていないからだ。
 こんな例を考えれば明白になる。「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)は存在するか?」誰も存在を確認していないのだから存在しないと断言できる。
 「ない」と証明することは困難だが「ある」は簡単に証明できる。クニマスやニホンカワウソが棲息していると証明するためにはたった1例を見付けるだけで充分だ。
 「ある」と主張する側による「ないことを証明せよ」という主張は詭弁に過ぎない。こんな詭弁に騙される人の知的レベルはかなり低いと思われる。彼らはきっとネッシーも雪男も宇宙人も八岐大蛇も実在するかも知れないと思っているのだろう。
 従軍慰安婦の強制連行については「あった」という証拠は無い。これまでに証拠として調べられた資料は総て捏造だった。従って「なかった」と判定して良い。
 敦賀原発の活断層の存在証明ならどうだろうか。これはあるとも無いとも証明できない。「活断層」の定義が勝手に変更されつつあるからだ。現時点で「ある」と判定できても活断層の定義が変更されたら忽ち「無い」ということに変わる。


安心

2013-05-14 10:01:32 | Weblog
 1万円札を5,000円で売っていたら誰でも買うだろうが、そんな馬鹿なことをする人はいない。ところが4,500円を1万円で買っている愚かな人がいる。宝くじだ。宝くじの配当率はたった45%で世界一配当率が悪いギャンブルだ。なぜこんな詐欺紛いの事業が成り立っているのだろうか。愚民政策の賜物だろう。
 平均的知的レベルが決して低くない日本人だが、こと確率に関しては野蛮人のレベルでしかない。「リスクは0でなければ安心できない」と主張する人を狂人とも阿呆とも非難しない不可解な社会だ。こんな人はリスクのあるものをリスク0と思い込んで勝手に安心しているだけであり、リスク0という盲信をブチ壊しておかなければまともな議論にはならない。リスク0などあり得ない。世界一頑丈な建物であろうとも隕石の直撃を受けたら一溜りもない。
 リスク0という幻想を持つ人に限って騙される。「絶対に儲かる」と言われて馬鹿な投資をする。もし絶対儲かる投資があるならそれを独り占めにして他人には知らせないと思うのだがそんなことにさえ気付かない。
 社会は不確実だから常に確率あるいは期待値に基づいて一番マシな選択肢を選ぶ必要がある。「確率」は○×式から最も懸け離れた概念だ。○も×も存在せず、△だけの世界だ。△をどう評価するかは、極論すれば自己責任だ。国やマスコミに安全かどうかの判断を丸投げしてその言いなりになって安心している人には不安だろうが、元々不確実なものを人の言いなりになって安心していただけのことだ。小学生じゃあるまいし、道路の横断が安全かどうかぐらいのことは自分で判断すべきだ。

歴史認識

2013-05-14 09:33:15 | Weblog
 歴史は戦勝者が決めるものであり、敗者はでっち上げられた歴史を受け入れざるを得ない。このことは中国史を学べばよく分かる。
 中国の王朝興亡史は呆れるほどワンパターンだ。「徳」を失った残虐な皇帝が悪政の限りを尽くして、虐げられた農民の苦しみに呼応して立ち上がった救国の士が新しい王朝を築く。つまり実際には天候不順による飢饉であろうとも、最後の皇帝の極悪非道が原因だったと捏造して下克上を正当化する。これが易姓革命だ。
 個人の喧嘩でさえどちらにも言い分があるように、戦争にも双方にそれなりの事情がある。敗者の言い分を抹殺して勝者の理屈だけを一方的に正しいと後付けするのが世界の戦後史だ。だから戦勝国の屁理屈は承認されねばならない。そうしなければ戦後秩序が崩壊するからだ。
 昨日(13日)の橋下市長の歴史解釈をほぼ全面的に支持する。流石に元弁護士らしく事実と虚構を正確に分別している。但し1つだけ不満がある。インドネシアでオランダ人を強制的に慰安婦にしたことが無視されている。多分、橋下市長はこの恥ずかしい歴史を知らないのだろう。これを穏便に解決したオランダと、ありもしない強制連行をいつまでも騒ぎ続ける韓国との違いは一体何なのだろうか?
 政治家であり公人である橋下氏が言いたくても言えなかったために歯切れが悪かった部分を私はこう修正する。「イエローモンキーの分際で生意気にも白人様の猿真似をして侵略や植民地支配をしたことについて我々日本人は痛切に反省せねばならない。」これが敗戦国だから公言を許されない歴史認識だろう。

アダムとイブ

2013-05-12 09:44:04 | Weblog
 アダムとイブの神話はデタラメだ。何を今更、と言われそうだが、医学的にこのことは証明されている。アダムからイブが作られたのではなく、イブからアダムが作られているからだ。
 初期の胎児は総て女だ。ワレメがある。男性ホルモンを浴びた胎児が男に変わる。このことの証拠は総ての男に残されている。男性性器にはペニスにも睾丸にも継ぎ目がある。これはワレメが繋ぎ合わされたからだ。
 本来、人体には継ぎ目は無い。継ぎ目があるのは頭蓋骨と男性性器だけだ。
 頭蓋骨の継ぎ目は男女共にある。もし継ぎ目が無ければ出産が困難になるし脳の成長もできないからだ。男性性器の継ぎ目はこんな合理的な理由ではなく、当初形態が総て女だからだ。
 かつてシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。」と書いたが(「第二の性」)、男こそ作られた性だ。
 人間の基本形態が女であることの意味は大きい。改造車に故障が多いのと同じように男の体は欠陥品になり易い。男の平均寿命が短いのは当然のことだ。
 オスが存在するのは遺伝子を混ぜる有性生殖を行うためだ。組み合わせるためには多様であって違いが分かり易いほうが都合が良い。だから男には出来損ないも多く、女が選び易いように顕著な差が現れている。女が選ぶ側であり、男が選ばれる側であることが「生物学的には正しい」。

オカルト

2013-05-12 09:21:42 | Weblog
 私はオカルトが嫌いだ。宗教も占いも拒絶する。しかしその一方で「科学信仰」も否定する。それは彼らが現在の科学を唯一無二の科学と信じているからだ。
 100年前ならテレビもパソコンも携帯電話もオカルト扱いされただろう。それは当時の科学のレベルでは理解できないからだ。今では常識となっているプレートテクトニクス説も50年前にはオカルト扱いをされていた。
 見えないものが見えたり聞こえないものが聞こえたりすることは充分にあり得る。老人になると高い音が聞こえにくくなるし、赤色光と赤外線の中間の光を知覚できる人もいるだろう。
 誤解を恐れずに言えばUFOは存在する。但しこれはunidentified flying object(未確認飛行物体)が存在するという意味だ。総ての飛行物体が確認可能な訳ではないからだ。だからと言って宇宙人がいるなどと言うつもりは無い。
 血液型と性格の相関性について触れると必ずヒステリックな反応をする人が現れる。彼らは「差別だ」と主張する。これは男女の脳の違いを認めない人と似ている。問題とすべきなのはそれが事実かどうかであって、事実であればそれは差別ではなくただの区別だ。
 一部の感染症や生活習慣病と血液型との相関性は医学的にも確認されている。病気と性格との相関性もある。それならかなり薄まるとはいえ、血液型と性格の相関性もあるだろう。
 アメリカでの調査だが、身長と収入には相関性があるらしい。これは長身者が優遇され勝ちだという事実を報告しているだけであって「長身者が優れている」という価値判断ではない。血液型と性格の相関性を頭から否定する人は事実と価値を混同している。
 万有引力の法則が存在するように血液型による性格傾向もあるだろう。これは優劣の問題ではなく事実かどうかだ。価値判断から独立して事実判定をすることが必要だ。事実と価値を区別できるかを見るだけで、その人が科学的に考えられるかどうかが判定できるだろう。

詰め込み教育(2)

2013-05-10 09:59:12 | Weblog
 「ゆとり教育」は見直されたが「詰め込み教育」が復活するとは思えない。私は初等教育は詰め込み教育が一番良いと思っている。
 脳が未成熟な状態の小学生にとって最も大切なことは脳を成長させることだ。成長させるために必要なことは「鍛える」ということだ。脳を完成させるのは20歳以降でも遅くない。
 野球をやりたければまず足腰を鍛えねばならない。怪我を避けるためには関節を鍛えて柔軟にしなければならない。それを怠ったままで野球をやってもただのボール遊びにしかならない。体力が持続しないし怪我をすることも多かろう。
 初等教育の本質は記憶だ。記憶力を鍛えることが将来の創造力に繋がる。九九を覚え、正しい日本語を覚え、基礎的な知識を身に付けることが思考力の礎になる。
 「守破離」という言葉がある。習得するためにはまず「守」から始めねばならない。充分な「守」を身に付けない者には「破」も「離」も不可能だ。先人の知恵を欠いたままでは独り善がりで支離滅裂な思考力しか得られない。
 初等教育での詰め込みは決してそれ自体が目的ではない。優れた文章を多く読むことによって読解力も表現力も高まる。多くの文章から学んでいなければまともな表現は不可能だ。それは日本語にさえならず、他人が理解できる言葉にはならない。ドレミを知らない者による自称独創的音楽と同じようなもので雑音でしかない。
 インドでは2桁の掛け算まで暗記させていると言う。これは暗記させることが目的ではなく脳を鍛えるための手段だろう。詰め込み教育を否定する人は目的と手段を区別できないようだ。

進化の袋小路

2013-05-10 09:29:38 | Weblog
 70億という空前絶後の数にまで異常増殖した人類は人間社会という閉鎖された生態系の中でしか生きられなくなった。「人の敵は人」だけであり、人類に敵対する物を許さない。だから地震や新型ウィルスなどに対して恐怖と同時に憎悪を感じている。
 閉じた生態系の中では特殊な進化が起こる。これは進化と言うよりも奇形化と言ったほうが適切かも知れない。特殊な環境の元で純粋培養された生物が自然環境では生存できないように人類はどんどん反自然へと向かい自然に対する適応力を失いつつある。
 進化の袋小路に迷い込んだ動物は少なくない。よく知られている例はクジャクだ。メスのクジャクは立派な尾羽を持つオスを好む。その結果としてクジャクの尾羽は肥大化した。しかし種族内での競争において有利になる巨大な尾羽は生存競争においては大きなハンディとなる。肉食動物によって容易に捕獲されるからだ。
 日本人は日本列島という閉じた空間に棲んでいるから他の人類以上にガラパゴス化し易い。
 私が最も危惧するのは若い女性が痩せ過ぎていることだ。栄養摂取量が北朝鮮などの最貧国レベルにまで落ちているそうだ。こんな異常事態を招いた責任の一端はマスコミにある。
 三次元である人間を二次元のテレビ映像で見ると少し太って見える。そのために少し細い女性を使うのだろうが、これがどんどんエスカレートした。今では痩せていなければ美しくないという風潮だ。それを女性週刊誌がダイエット記事で煽り立てる。
 憲法25条にも書かれているように、日本人には「健康で文化的な生活」を営む権利がある。マスコミがマインドコントロールを使って痩身願望を煽ることは、女性の健康を奪うという意味で憲法違反とさえ言えよう。危険とは言い難い微量の食品添加物や農薬について空騒ぎをすることをやめて、命を奪いかねない過度の痩身願望に対してこそ警鐘を鳴らすべきだろう。

全体最適

2013-05-08 10:10:30 | Weblog
 部分最適は視野の狭い考え方で全体最適を目指さねばならないと教え込まれる。しかし部分は全体のために犠牲にされるべきだろうか。
 日本という国は沖縄を犠牲にして成り立っているところがある。主権回復時には沖縄を切捨て、基地問題も沖縄に押し付ける。これを全体最適と呼んで良いのだろうか。沖縄県民の怒りは正当だ。
 大阪のJRは阪和線も大和路線も環状線に乗り入れている。これによって各線の乗り換えがスムーズになっているが、その一方、環状線で事故があると全線が止まってしてしまう。全体のせいで部分までマヒする。
 近鉄はその逆だ。大阪線と南大阪線が大動脈なのだがこの2線の相互乗り入れは無い。だからどちらかで事故が起こってももう一方に被害が及ぶことは無い。
 ラグビーでは`One for all. All for one.'という言葉がしばしば使われる。一人が全体のためになるだけではなく全体が一人のために機能せねばならない。因みにこの言葉の出典はアレクサンドル・デュマの「三銃士」だ。
 「全体」という言葉が使われても多くの場合それは「多数者」を意味している。多数者のエゴによって少数者は虐げられている。「全体」という言葉を使うなら部分を切り捨てるべきではない。`All for one.'が欠けている。
 全体主義は組織のために個人が犠牲になることを強いるが、歪んだ目的を持った機械の部品になっても仕方が無い。自己犠牲は崇高な行為ではなく、多数者または支配者を利するだけの愚行だ。

落ちこぼれ0

2013-05-08 09:30:36 | Weblog
 落ちこぼれを無くすという名目でとんでもない暴挙が行われているのではないだろうか。
 小学生の個々の能力はバラバラだ。5人の生徒の潜在能力がそれぞれ5・6・7・8・9だったとする。落ちこぼれを無くすためには5のレベルに合わせた授業をせねばならない。そうすれば誰一人落ちこぼれることなく全員が5の学力を得られる。もし6のレベルで授業をすれば一人が落ちこぼれて、他の4人は6の学力を得るだろう。
 体育の授業で自由に走らせず、全員横並びで手を繋いで100mを40秒で走れば誰も遅れない。これと同じ形で知育における「結果の平等」が実現されているのではないだろうか。
 国民の知力を低下させることが教育の目標となることなど本来あり得ない。しかしそれによって利益を得る人がいて、そんな人達が公教育の方向性を決めているとしたら、あるべからざることが現実になる。
 公立校の教育方針を決める中央教育審議会の初等中等教育分科会のメンバーの子や孫は多分公立校になど通っていないだろう。殆んどが私立校に通っているなら、公立校の学力低下は彼らの進学・就職を有利にする。
 悪名高きゆとり教育は流石にやり過ぎだった。私立校のレベルアップでは埋められないほどに公立校がレベルダウンしてしまったために、日本人の学力低下が白日の元に晒されてしまった。これでは誤魔化しようがない。
 もし初等中等教育分科会のメンバーの子や孫が公立校へ通わねばならなければ、彼らは真っ先に現在の公教育を否定するだろう。
 公立校の学力低下によって利益を得る者に公教育を委ねるべきではない。それは暴力団や常習犯罪者に刑法を決めさせるようなものだ

初等教育

2013-05-06 10:17:00 | Weblog
 早生まれは一流のスポーツ選手になりにくいというデータが多数発表されている。小学校1年生の時点で3月生まれと4月生まれでは約330日の差がある。この時点でのこの差は大きい。
 スポーツの場合、その時点での能力の高い者が優遇される。足が早ければクラスの代表に選ばれるだろうし、集団競技では重要なポジションを任せられる。このことによって物理的にも心理的にもエリート教育が施されているから、遅生まれは本来の能力以上に有利になる。
 知力の場合はそうならない。統計処理をしなければ有意かどうか分からないほどの小さな差しか生じていないらしい。その時点での能力が同等であれば同程度の知力になることは好ましい。しかし現在の初等教育では能力のある者を抑え込むことによって結果の平等を作り出している。丁度、小さな鉢に植えられた木が小さく育つように強制的に同レベルに揃えられている。
 教育環境に恵まれた児童なら公立小学校では育まれない本来の能力を学校外や私立学校で伸ばすことができる。しかし恵まれない児童なら伸びる筈の芽が枯らされてしまう。子供の学力が親の経済力や学歴と有意な相関性を示すのはこんな事情によるのではないだろうか。
 スイミングスクールでは細かい等級分けが行われて、年齢とは無関係にレベルに応じたレッスンが受けられる。日本では習熟度に応じた教育や飛び級はエリート教育として否定されているが、成育度に見合った教育を受けることは当然の権利だと私は考える。これが一向に見直されようとしないのは、資産の多寡によって学力に差が付く現在の教育のままのほうが富裕層にとっては有利だからだろうか。