俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

可能な目標

2013-12-22 09:07:41 | Weblog
 理想は現実的でなければならないと常々考えている。非現実的な理想は空想であり妄想に過ぎない。不老不死も永久平和も理想ではなく妄想だ。現実に基づかなければ理想たり得ない。
 自ら「愚かな総理」と認めたあのルーピー鳩山氏はかつて「最低でも県外」と叫んで沖縄の基地負担の軽減を訴えた。本人は理想を説いたつもりだったのだろうが妄想に過ぎなかった。現実と照らし合わせた結果総てが頓挫して出口が見えない状況を招いてしまった。
 癌に勝つことを理想とする外科医は患者の体を切り刻んで却って死期を早めてしまう。そして曰く「癌には勝ったが生命力が足りなかった。」
 絶対安全な薬などあり得ない。メリットとデメリットを秤に掛けて比較的安全なもので満足すべきだろう。副作用の無い薬は無い。
 完璧主義の芸術家は完全なもの以外を出来損ないと考える。これではいつまで経っても作品にならない。期限を決めて無理やり完成させる必要がある。
 北方領土をどう考えるべきだろうか。四島一括返還が日本にとって最も好ましいことは言うまでも無いが、そんな排他的な姿勢を貫いているうちに70年近く経ってしまった。ソ連の崩壊など絶好のチャンスがあったのに一歩も前進できなかったのは現実認識の欠如が原因だろう。相手のメンツを考慮して三島返還を目指すべきだと私は考える。現実的な目標に向かわなければ普天間の二の舞になる。

不良品

2013-12-22 08:46:18 | Weblog
 欠陥車ならリコールの対象になる。メーカーには不良部品を良品に換える義務がある。もし換えられなければ廃車になる。
 100円ショップで中国製の鉛筆を買った。やはり安かろう悪かろうで酷い品が混じっていた。芯が中央からズレているために鉛筆削り機で削ると芯ではなく木が先端に来る。ナイフで削ればこれでも使えるが面倒なので捨てる。
 人に噛み付く犬がいる。そんな犬は処分される。時には飼い主の管理責任も問われる。
 このように不良品や不良犬は罰される。悪いのはメーカーや飼い主であっても製品や犬が処分される。
 弁護士が極悪人の罪を、育った劣悪な環境に責任転嫁しようとすることがある。しかし今更、時間を遡って劣悪な環境を改めることなどできない。あるいは自動車のように部品を取り替えることもできないし、更生教育によって生まれ変わるとは到底考えられない。原因が何であれ、今そこにいるのは極悪人だ。責任は本人が負わざるを得ない。
 劣悪な環境が原因であって本人は犠牲者の一人だという主張は変な理屈だ。不良品の原因がメーカーにあってもその不良品を許容する理由にはならない。結果として不良品があるのだからその不良品に対する処分が必要だ。時間を遡れないのだから原因ではなく結果を裁くのは当然のことだろう。
 危険物はどんな事情があろうとも危険物でしかない。それが原発から出ようと火力発電所から出ようと、原因ではなく危険度に従って仕分けられる。危険な人も同様だ。
 これは決して劣悪な環境や公害の元を放置しても構わないという意味ではない。これらも改善されねばならない。しかし既に起こってしまったことを予防することなどできないのだから、起こってしまったことについてはその結果に対応すべきだろう。それを生んだ原因に対しては今後の予防策として別途対処すべきことだ。

手話

2013-12-20 09:38:13 | Weblog
 テレビなどで手話を見る機会が増えた。私は手話は全く分からないがその情報伝達力に驚く。もしかしたら言葉以上に伝達力が優れているのではないだろうか。
 話し言葉は口と耳を使う。手話は体と目を使う。昔から「百聞は一見にしかず」と言うように、人間が視覚から得られる情報量は聴覚よりも圧倒的に多い。視覚を使ったコミュニケーションのほうが聴覚を使ったものよりも優れていても全く不思議でない。
 会話する時、人は言葉だけで判断する訳ではない。仕種も含めた全体が判断材料になる。ボディラングィジという言葉があるように動作を通じて伝わる情報量は多い。だからこそ電話やメールではなく実際に会って話をすることが奨励されている。「目は口ほどに物を言う」という諺は誤りだ。正しくは「目は耳以上に話を聞く」だろう。
 いっそのこと言葉を放棄して手話によるコミュニケーションに変えたらどうだろうか。言葉より先に万国共通語が生まれるのではないだろうか。その時、重要なのは表意動作だろう。髯であれば顔をなでて種類を伝える。「男」を意味する動作として昔の「ジェスチャー」のようにネクタイを締める動作をするかどうかは知らない。
 表意文字を表音文字より劣っていると信じる人ならこんな表意動作を先祖返りと馬鹿にするかも知れない。しかし実はアルファベットにも沢山表意文字が使われている。$、&、%、?、!などだ。昔、初めて「I♡NY」の表記を見た時、私はそれを読めなかった。英語に表意文字的な表記があるとは当時は思っていなかったからだ。この言葉が流行したのはアメリカ人も表意文字の素晴らしさに気付いているからだろう。こう考えれば言語も表音文字も不便な伝達手段とさえ思える。全身と視覚を使う手話は言葉以上の可能性を持っているのではないだろうか。

贋患者

2013-12-20 08:57:31 | Weblog
 来年4月からの診療報酬はほぼ据え置かれる方向で最終調整に入っているようだ。このことが医療を更に歪めるかも知れない。
 医療は非課税だ。これは患者が消費税を負担しないという意味であって医療機関は消費税を負担させられている。医療側としては収入は非課税で支出は課税というとんでもない状況だ。消費税を全く転嫁できないので消費増税により最も深刻な影響を受ける。
 私は医療を税率0にすべきだと考えている。税率0であれば収入は増えないが支出に含まれる消費税が還付される。こんな見直しなどをせずに診療報酬が据え置かれたら、必要な医療ではなく儲かる医療が蔓延ることになるだろう。
 儲かる医療とは何か、病気ではない人に対する不必要な医療類似行為だ。具体的には風邪と生活習慣病だ。
 欧米の医師は風邪薬を処方しないそうだ。日本の医師は解熱剤を処方する。何度も書いていることだがこれは風邪を悪化させる。体温を下げれば熱に弱いウィルスが活性化され、その一方で免疫力は低下してダブルパンチになる。
 生活習慣病患者は殆んどが治療する必要の無い人だ。しかも薬には内臓機能を高める効果は無く単に検査数値を下げる効果しか持たない。高コレステロール治療薬に至ってはコレステロールを変質させて検査数値を誤魔化す役割しか果たしていないそうだ。もしかしたら生活習慣病が進行して病気になる人よりも薬の副作用で病気になる人のほうが多いのではないだろうか。
 医療費を増大させているのはこんな贋医療だ。こんな無駄な医療をやめれば医療費は劇的に削減されて国家財政も大きく改善されるだろう。
 逆に言えばこれは「美味しい患者」であり医療機関にとってはドル箱だ。診療報酬が抑えられれば医師がこんな贋患者を食い物にして稼がざるを得なくなる。こんな贋患者に対する3分間診療で稼ぐ構造になってしまえば、時間が掛かる本当の患者など相手にする暇が無くなってしまう。老人医療が無料だった時代に病院が元気な老人によって占拠されたように、今後は今以上に贋患者によって占拠されてしまうだろう。

努力の限界

2013-12-19 09:16:42 | Weblog
 当たり前のことだが努力すれば何でもできるという訳ではない。努力だけで達成できるのは低レベルな競争の場合だけだ。例えば「ガリバー旅行記」をまともに読んだ人は少ないからこれを精読すれば町一番のガリバー通になれるだろうし、後ろ歩きの練習に励めば後ろ歩きのスペシャリストになれるだろう。しかし競争相手が多ければ一流になることは難しい。才能のある人が本気で参入するからだ。
 能力とは先天性×後天性だと思っている。先天性が5の人が10の努力をしても5×10=50だが10の人が10の努力をすれば10×10=100になって敵わない。それどころか「努力できる」ということもまた1つの才能だ。飽きっぽい人なら毎日10時間の訓練に耐えられない。
 一時期、女子マラソンで小柄な名選手が続出した。それは選手層が薄かったからであり、裾野が広がるに従って大きくて足の長い選手が大半になった。基礎能力が同程度であれば歩幅が広いほうが有利だ。
 個人的には小柄な選手が好きだ。これは少なからず判官贔屓だ。今年の新人王のヤクルトのライアン小川投手には私は昨年から注目していた。170㎝の体でどこまでやれるのか期待と不安を持っていたが大活躍したので嬉しかった。それでもダルビッシュ投手に追い付くことは無理だろう。
 逆に小柄な選手のほうが有利な女子体操では、16日に引退を表明した田中理恵選手を応援していた。宙返りでは小柄なほうが有利だ。フィギュアスケートの回転技は横回りなので長身はハンディにはならないが縦回りが評価される女子体操はまるで「小人のサーカス」のようになっているだけに、長身の(とは言えたった156㎝)田中選手は際立ってエレガントだった。彼女がたった1回しかオリンピックに出場できなかったのは、何とも皮肉な話だが、背が高過ぎたせいだろう。

理由

2013-12-19 08:50:04 | Weblog
 事故の原因は問われねばならないが、理由を問うことはできない。犯罪なら理由が見つかるかも知れないが事故に理由は無い。無理に探しても多くの場合、オカルトか言い掛かりになってしまう。
 子供が交通事故で死んだ場合、本人か相手かあるいは双方に原因があるだろう。親が「なぜこの子が死なねばならないのか」と問うのは、原因を尋ねているのではなく理由を求めている。だから「運転手のスピード違反が原因だ」と言っても納得しない。
 人は目的を持って行動する。道具は目的を持って作られるがそれが起こす事故は目的外だ。だから事故の原因はあっても理由は無い。
 人がなぜ死ぬのかということに倫理的な理由を求めるべきではない。その答えはオカルトか詭弁にしかならない。人が死ぬのは事故であれ病気であれ自然科学的な原因があるだけだ。目的論的な理由など無い。
 自然は残酷だ、と言う人がいる。これは自然を擬人化しているから誤りだ。自然はあくまで自然なものであって価値評価の対象外だ。
 簡単な道具であればその目的も用途も明確だ。ハンマーなら使い易いように改良することもできる。ところがパソコンの場合、目的も用途も使い方も分かるがその仕組みはさっぱり分からないブラックボックスだ。だからWhyと尋ねても意味が無い。必要なのはHow toだけだ。
 こんな状況だからWhyの重要性が忘れられつつある。事故の場合、Whyによって理由を問うことは無意味であり、パソコンの場合、Whyは不必要だ。
 Whyと問うことが無意味あるいは不必要なケースが余りにも多いためにWhyの正しい使い方を学ぶ機会が殆んど無い。そのために以前にも増して因果関係と相関関係が混同されている。

治外法権

2013-12-18 11:05:47 | Weblog
 治外法権を認める不平等条約がある、と言ったら多くの人は驚くだろう。それは明治の話でとっくの昔に解決したことだと思っているのではないだろうか。今も残っている不平等条約は日米地位協定だ。この協定のせいで16日に三浦市で起こった米軍ヘリ不時着事故(私は「墜落」だと思っている)の捜査権は日本には無く、残骸も米軍の資産として扱われている。基地周辺での米兵による犯罪が続発するのも、犯人が基地内に逃げ込めば日本には捜査権が無いからだ。基地には出入国管理法も適用されないから密入出国もやりたい放題だ。
 沖縄の仲井真知事の要望を受けて17日に菅官房長官が「日米地位協定の改定も含めて沖縄の基地負担の軽減に全力を挙げる。」と発表したところ即刻、同日に米側が反論した。「アメリカは地位協定の改定に合意していないし、改定に向けた協議を開くつもりも無い。」とのことだ。これではこの不平等条約が不磨の大典になってしまう。
 この状況を打破する方法が1つだけある。荒唐無稽な話と思われるかも知れないが、日米安全保障条約の終了だ。安保条約が失効すれば地位協定も失効する。
 余り知られていないことだが1960年に締結された新安保条約の第10条にはこう定められている。「(前略)いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行われた後1年で終了する。」つまり地位協定の改定なら協議と合意が必要だが、その根拠となっている安保条約の終了なら通告するだけで済むということだ。
 中国や北朝鮮による脅威があるだけに安保の廃止は危険を伴うが、これを外交カードとして使うことは可能だ。つまり安保の終了という米国が望まない事態で脅して地位協定の改定を迫る。もし屈しなければ、タイミングを見計らって本当に安保を終了し、その後、たとえ安保条約を同条文で再締結しても、その時に地位協定を大幅に改善してドイツと同様の平等条約に改めれば良かろう。

絶滅

2013-12-17 09:13:13 | Weblog
 長江(揚子江)にいた河海豚は中国人に食べ尽くされたらしい。「何と残酷な!」と思う人がいるなら自らを省みる必要がある。鰻と黒鮪は日本人によって食べ尽くされそうな状況だ。
 日本人にとって鰻は蒲焼が泳いでいるように見え、鮪は刺身が泳いでいるように見えるようだ。私の友人の一人は海洋ドキュメント番組を見ていて魚が現れる度に「旨そうだ」「旨そうでない」と呟いていた。彼にとっての魚の第一分類は旨そうか旨そうでないか、だった。多くの日本人も似たような感覚ではないだろうか。水族館でも似た経験をしたことがある。魚を動物ではなく食物として認識する。
 日本人は尾頭付きの魚を有り難がるが尾頭付きの豚を見たがらない。西洋人はその逆で豚の頭なら平気だが魚の頭を気味悪く感じるそうだ。
 動物を生物と捕らえるか食物と捕らえるかは主観的なことであり、私はとやかく言う立場にはいない。問題は正しい情報を持って判断しているかどうかだ。
 中国の漁民は、河海豚が絶滅しかけていることなど知らなかった。中国のマスコミはそんなことを報じないからだ。漁民は、漁獲量が減ったとは思いつつたまに獲れたら「大物が獲れた」と大喜びしたことだろう。河海豚を絶滅させようなどとは微塵も考えなかった。しかしその一方で、日本のマスコミは鰻や黒鮪が絶滅しそうだということを報じている。そのことを知りながら平気で食べ続ける日本人は中国人以上に貪欲な民族ではないだろうか。狼やカワウソなどを絶滅させた日本人は、種の絶滅ということに対しては呆れるほど鈍感だ。

速球

2013-12-17 08:48:39 | Weblog
 150㎞/hを超える速球を投げる投手がいる。練習の賜物だろうが、誰でも練習を積めばこんな球が投げられる訳ではない。素質に恵まれた人が必死に練習して初めてこんな超人的な力を発揮できる。しかし速い球を投げる遺伝子が存在する訳ではない。速い球を投げるためには様々な素質が必要だ。強い筋肉、柔軟な関節、丈夫な足腰、あるいは背の高さや腕の長さも有利に働く。そして何よりも全体を機能的に働かせる制御力が必要だ。これほど多くのことを少数の遺伝情報で伝えることはどう考えても不可能であり、かなり多数の遺伝子が関与しているものと思える。勿論、遺伝子で足りない部分を後天的に補うことは可能だ。しかしそれでは先天的に恵まれた才能を後天的に更に強化した人には敵わない。
 速い球を投げるだけでも多くの遺伝子が複合的に働かねばならないのだからもっと複雑な能力、例えば思考力の高さのためには無数の遺伝子が働いているのだろう。仮に脳を大きくする遺伝子があってもそれだけで思考力が高まるとは思えない。優れた能力のためには多くの遺伝子の連携が必要だ。
 逆に能力を低下させるためにはほんの1つの遺伝子の狂いだけでも充分だ。肘の関節が少し悪ければ他の能力が総て備わっていても150㎞/hの球は投げられない。
 優れた才能はガラス細工のように脆い。回線が1箇所ショートしただけで全停止する電子機器のようなものだ。人は様々な能力を持っている。どの能力も複雑な機能が調和して初めて機能する。脳腫瘍などを患えば幻覚を見ることもあるそうだが、部分の狂いが全体を台無しにする。

好き

2013-12-15 09:22:50 | Weblog
 「好き」に理由は要らない。異性であれ食べ物であれ音楽であれ、先に好きになる。理由は後付けされるだけだ。
 同様に「楽しい」も「幸福」も当事者が勝手に判定することだ。多くの人と同様、私も冬登山の楽しさが理解できない。凍える寒さの中で険しい山を命懸けで登ることのどこが楽しいのか全く理解できない。好きな人はやはり楽しいから登るのだろう。
 「好き」「楽しい」「幸福」は全く主観的な感情だ。多分、何らかの理由で脳がセロトニンで充たされるから快適なのだろう。それと比べれば「嫌い」「苦しい」「不幸」は理解可能なことが多い。「怒り」もその反応の激しさ以外はかなり合理的だ。
 「好き」は主観的な感情であるために利用され易い。宗教や詐欺に引っ掛かるのはこの不合理な感情に基づく。
 人類の救済や先祖の供養のために財産を放棄したり結婚詐欺に引っ掛かるのは「好き」という感情が合理性を欠いているからだ。不合理だからこそ何を好きになろうとも本人の勝手だし、好きであることが快いからアバタもエクボに見える。猫が大好きになれば子供を差し置いて猫に遺産を相続させる人まで現れる。蓼食う虫は合理的な行動をしているが蓼食う人は不合理だ。
 「好き」は合理的ではない。本人は合理を超えた超越的なものと思い勝ちだがただの「思い込み」であることが少なくない。好きなことに一生を捧げた筈がとんでもない思い違いのために一生を浪費することもあり得る。
 趣味も多くは奇妙なものだ。有益な場合も有害な場合もある。変な趣味は周囲にとっては迷惑だが本人には掛け替えの無い大切なものだ。「好き」は危険な感情だ。好きなものにこそ注意を払う必要がある。