俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

養子

2013-12-15 08:58:29 | Weblog
 養子についてこんな研究報告がある。
 些か乱暴な論法だが、犯罪傾向が高いかどうかで実の親と育ての親を分類する。組み合わせは4種類になる。それぞれの場合に養子はどう育つだろうか。容易に想定できることだが、実の親も育ての親も犯罪傾向が高ければ養子の犯罪傾向も高く、両者が低ければ養子も低い。
 ではどちらか一方だけの犯罪傾向が高い場合、実の親と育ての親とではどちらが決定要因となるだろうか。遺伝重視者と環境決定論者とでは全く逆の答えを期待するだろうが、結果は意外なものだ。どちらも同程度に低いそうだ。
 社会的動物である人類にとって犯罪傾向とは異状なものだ。そんな異状が現れるのは特殊な状況においてのみだ。これはまるで劣勢遺伝子のようなものだ。負の条件が重なった場合にのみ異常な人格に育つ。どちらかがまともであれば養子はまともに育つ。
 私は個人とは遺伝×環境だと思っている。どちらかがゼロであればその積はゼロになる。しかし現実的な話、ゼロは殆んどあり得ない。遺伝が3点で環境が7点であればその積は21点だ。遺伝が7点で環境が3点でもやはり21点だ。ところが遺伝も環境も3点ならその積は9点にしかならない。
 犯罪傾向のある親が実子を育てる場合、この最悪の条件に該当する。これでは負の遺産が相続されてしまう。児童虐待などがあれば子を親から取り上げることが最善の選択だろう。そうすることによって負の条件が二重になることを防げる。
 但し子供を虐待すれば厄介払いができると思わせてしまえば児童虐待の奨励にもなりかねない。親には第三者機関への補償、つまり実質的には養育費の一部負担という形でのペナルティを科すべきだろう。

使い回し

2013-12-13 10:38:12 | Weblog
 先月末にとんかつの和幸が運営する「恵亭銀座店」が「客が食べ残したキャベツやおしんこを使い回した」と報じられた。見出しを見た時は客が食べ残した物を使い回した悪質な事件かと思ったが、食べ放題の皿を何度か使ったとのことだった。これが使い回しとして非難されるのなら、牛丼屋の生姜や定食屋の漬物、あるいはビュッフェ(バイキング)スタイルの料理に至っては丸ごと使い回しだ。これらも咎めたいのだろうか。清潔であることは良いことだがヒステリックになれば消費者の利益を損なう。
 むしろテレビ番組の使い回しこそ問題にすべきだ。先日NHKの夜9時のニュースを見ていたら「クローズアップ現代」で使ったフィルムが殆んどそのまま使われていた。あるいは朝のニュースなら大半が使い回しで、同じテレビ局なら何度でも同じニュースが使い回される。
 逆に、使い回しても構わないと思える「みんなの体操」や「テレビ体操」は毎回新たに収録されているようだ。制作費が安いからだろうがこれは無駄遣いだろう。
 ニュースの語源はnewsだ。古い物を何度も使うならoldsと呼ぶべきだろう。当たり前の話だがニュース番組で同じ映像を何度使おうとも構わない。貴重な映像が唯一であればそれを何度でも放映すべきだ。但し「ニュース特集」と名乗るなら新しい作品であるべきだ。既に放映した作品であるならそのことを断るべきであって、新たに作ったかのように装うべきではない。他の番組なら「再放送」と断りを入れているのにニュース番組だけが平然と再放送をnewsとして放映している。これは偽装だ。
 イソップ寓話に、子供に「真っ直ぐ歩きなさい」と教える母蟹の話があるが、飲食業界の使い回しを非難するマスコミは自らの使い回しの是非について検討すべきではないだろうか。「罪を犯したことの無い者はこの女に石を投げよ」(「ヨハネによる福音書」より)という言葉をマスコミは知らないのだろうか。それともルールを超越した特権階級と自らを位置付けているのだろうか。

ポピュリズム裁判

2013-12-13 10:01:58 | Weblog
 裁判がポピュリズム化しつつあることに大きな危惧を抱く。本来、司法は民意を反映してはいけないものだ。法に基づいて裁かれねばならない。世論は事実よりも感情に支配されているだけにポピュリズム裁判はリンチのようになる。どれだけマスコミが勝手な人民裁判で裁こうとしても疑わしきを罰してはならない。確かな証拠に基づくべきだ。
 日本でのポピュリズム裁判に触れる前に韓国の例を見よう。韓国では戦時中の日本企業による不当労働行為に対する賠償命令判決が相次いでいる。これは実に奇妙な判決だ。賠償請求権は昭和40年の日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決された」筈だ。従って賠償責任は韓国政府に移っている。それにも関わらずこんな国際的に見て異常な判決が下されているのは国民の反発を恐れているからだ。「民意」に沿った判決を下さなければ非国民と非難されかねない。このせいで韓国が世界中から非難されようとも裁判官の知ったことではない。
 これと同じようなことが国内でも起こっている。裁判官名が公表されているから「民意」に背いた判決は個人攻撃を招く。子供や孫まで学校でいじめられるかも知れない。
 例えば和歌山カレー事件の林真須美容疑者に対する死刑判決はどう考えても証拠不充分だ。裁判官はマスコミと大衆を敵に回したくないから有罪判決を下したように思える。
 11日の柔道の内柴被告の準強姦罪も疑惑の判決だ。強姦か和姦かはかなり微妙な問題であり、この事件は和姦に近い強姦だったと思う。裁判官はマスコミと女性の反発を恐れて控訴棄却にしたのではないだろうか。とりあえず有罪にしておけば責任逃れができる。
 司法を守るためには裁判官名を伏せることも一考に値するのではないだろうか。庶民の望まない判決を下せば人のように非難されるなら裁判官は世論に迎合せざるを得ない。司法の自由を守るために裁判官をマスコミから守ることが必要なのではないだろうか。

合唱

2013-12-11 09:23:12 | Weblog
 日本人は決して音楽が嫌いな訳ではないのになぜかハーモニーに対する理解が乏しい。西洋人は合唱をしようとするが日本人は斉唱をしようとする。これは音楽教育に問題があるのかも知れない。私が受けた教育は明らかに独唱と斉唱に偏っていた。一番楽しい筈の合唱の教育が不充分だった。
 合唱をすれば音楽の楽しみが大きく広がる。言わば1+1=3になる。斉唱をしても1+1=1.5にしかならない。一人では和音を楽しめない。二人以上がいて初めて得られる楽しみだ。
 今では見掛けないが昔は見栄えのしないオジさんたちの男声合唱団がいた。デュークエイセスとダークダックスは特に人気があった。彼らは高音のテノールから低音のバスまでそれぞれが異なった声質のメンバーで構成され重層的なハーモニーが特長だった。彼らの歌声は濃厚で豊潤なスープのように味わい深く、それと比べれば現代日本のアイドルグループの歌は金太郎飴のように薄っぺらい。
 これは均一性を好む国民性が災いしているのかも知れない。議論して最も実りが多いのは違った意見の人との議論だ。知らなかった背景や思い掛けない視点からの意見を知れば思考が深まる。敢えてヘーゲルの術語を借りれば「正」が「反」を理解して「合」へと止揚する。フランス人は99%同意していても更に残りの1%について議論したがるらしい。日本人なら異なる1%を無視して同調してしまう。
 人は姿形も考えもそれぞれが違うからこそ楽しい。育った環境も境遇もそれぞれが違うのだから異なった意見を持って当たり前だ。違いを認め合うのが真の民主主義であって多数決ほど非民主的な手法は無い。

ワシの党

2013-12-11 08:49:32 | Weblog
 みんなの党が分裂した。良いことだと思う。この党はみんなの党ではなく渡辺代表の「ワシの党」だったからだ。理念は良いのだが余りにも渡辺代表の独断専行が目立った。4割つまり殆んど半数近くの議員が離党という異常事態になったのは党内議論さえ碌に行われない独裁体制だったからだろう。昨年の衆院選で自民党が圧勝したのも維新との選挙協力を渡辺代表が突然反故にしたことによる共倒れが招いたものであり、第三極惨敗のA級戦犯だと考えて良かろう。
 今から思えば氏は自民党にとっての殊勲者であり野党潰しの功労者だった。自民党渡辺派が野党の仮面を被っていたようにも思える。反自民ということ以外に何の共通項も持たず綱領さえ無い民主党のような烏合の衆は政党とさえ言えないだけに、江田グループが第三極の核となることを期待したい。
 しかし離党した14人中13人が比例区ということには矛盾を感じる。有権者は個人ではなく政党に投票したのであり離党をすれば議席を失うのが筋だろう。但し繰り上げ当選にも問題がある。これは東国原議員だけの問題ではないが、議員を続ける気の無い客寄せパンダを候補者名簿に掲げることによって個人票を得て比例区の得票数を増やせるからだ。パンダが辞任しても個人票は政党票として有効なので落選者が繰り上げられる。
 これらの矛盾を解消するために2010年3月23日付けの「ヴァーチャル議員」制度を再提案したい。比例区で得た議席には議員を割り当てず議席数と位置付ける。10議席を得た政党には採決で10票を与えるという仕組みだ。こうすれば議員数を大幅に削減できる。
 死に票が少ないという意味で比例区は重要だ。選挙区以上に民意が反映される。但しその民意は抽象的なものであり議員という形で具象化する必要は全く無い。議席数さえ与えれば充分だ。抽象的な票は抽象的なままで良い。変に具象化して議員を割り当てるから矛盾が生じる。

逆張り

2013-12-09 09:24:54 | Weblog
 もし日本でギャンブルが公認されていたら私は自分が望まない結果に賭ける。例えばサッカーのワールドカップならグルプリーグ予選敗退に賭ける。コートジボワール戦もギリシャ戦もコロンビア戦も日本が負けるほうに賭ける。こんなヘソ曲がりな賭け方をする理由は2つある。
 1つはそのほうが儲かるからだ。殆んどの人は願望に基づいて賭ける。勝って欲しいと思えば勝つというほうに賭ける。あるアンケートでは、日本が予選敗退と予想する人は20%程度しかいないそうだ。
 シードのコロンビアは頭1つ抜けており他の3チームは団栗の背比べでありどのチームが勝ち上がっても不思議では無かろう。従って2位以上になる可能性は1/3ずつと見るのが妥当だろう。つまり予選突破の可能性は30%程度だろう。実際の可能性が30%なのに80%の人が予選突破と考えているのなら、配当率を考えれば敗退に賭けたほうが絶対に有利だ。
 事実と願望は峻別されねばならない。戦時中なら「このままでは日本は負ける」と言えば非国民と非難されただろう。事実に基づいて判断した上で、どうすれば負けないかあるいはダメージの少ない負け方にできるかを考えるべきだ。癌を宣告された患者が「取り消してください」と怒ることがしばしばあるそうだ。事実を認めたがらない人は少なくない。願望と事実はしばしば相反する。贔屓目に見ることを否定する気は無いがそれが贔屓目であることを自覚する必要がある。
 もう1つの理由は危険の分散だ。私だって日本のチームが勝って欲しいと思っている。あわよくば優勝して欲しいとも思っている。しかし願望の逆張りをしておけば勝っても負けても楽しめる。負ければ負けるほど賭けでは勝てるのだから悔しさも少なからず薄らぐ。これは精神衛生上好ましいことだ。

人間の能力

2013-12-09 08:50:57 | Weblog
 人間の能力は「可能性」として備わっているから育成されて初めて発揮される。言語を操る能力も育成されねば発揮できない。もし猿に育てられた子供がいれば鳴き声程度の言語能力しか獲得できない。逆に猿を人間扱いして育てても言葉を覚えない。人間にのみ言語を操る能力の萌芽が備わっているからだ。未開民族も言葉を持ち、閉鎖された地域ごとに文法も語彙も異なるのは言葉を後天的に獲得するからだ。どんなに天賦の才能に恵まれていようとも1から言葉を作り出すことはできない。
 もし狼の中で育てられた子供がいたら四つ足で走り回るだろう。十年も経ってから二足歩行を教えることは難しい。
 人間の能力は完成された形で備わっている訳ではない。正しく育てられて初めて人間としての能力が発揮できる。人間は人間として生まれるのではなく育成されることによって人間へと成長する。
 思いやりや労わりといった心も萌芽として備わっているだけだ。正しく育てられなければそういった人間的感情を欠いた大人になる。残忍な人が存在することは人間性の否定には繋がらない。言葉を教わらなかった子供が言語を操れないのと同じことだ。
 先天的に備わっていない能力が発現することはあり得ない。猿に言葉を教えても習得させることはできない。しかし先天的に備わった能力であろうとも後天的に育成されなければ宝の持ち腐れになってしまう。
 イルカやクジラは呼吸することを親から教わるそうだ。彼らは肺呼吸をするので母親が水面で呼吸をすることを教えなければ窒息死してしまうらしい。水中ではなく地上に住む我々は親から教わらなくても呼吸することができるが、それ以外のことは殆んどが教えられて初めて身に付く。能力とは先天性×後天性であり、どちらかがゼロであればその積はゼロになる。

超能力漫画

2013-12-07 10:37:04 | Weblog
 ハリー・ポッターの影響かどうかは知らないが、近頃の漫画は妙に魔法や超能力を扱った作品が多い。魔法や超能力に頼ることはたとえ少年漫画であろうとも余りにも子供騙しであり、現実的な解決を放棄した逃避願望だと思う。それを安易な手法と考えるか夢を与えるロマンと考えるかは当然意見が分かれる所だろうが、下手な宗教的訓話における「神による救済」と同様に低レベルな物語だと思う。困ったら魔法や超能力で解決する、これでは超能力者以外は解決しなくても良いということになる。全くの「他力本願」だ。現実的な解決を放棄した責任回避だ。困った状況に陥ればとっておきの魔法で解決するという安易な物語設定にも呆れる。本来、知恵と努力で切り抜けるべきことを魔法や超能力で一件落着、これではまるで水戸黄門の印籠だ。
 確かに昔から子供は超人的なものに憧れていた。「鉄腕アトム」や「仮面ライダー」などが代表例だ。しかしこれらのヒーローには裏の問題提起があった。鉄腕アトムの場合はロボットの人権であり、差別や動物愛護などについて根底から問い掛ける重いテーマだった。仮面ライダーにも人造人間としての苦悩が描かれていた。原作者の石森章太郎氏の1960年代の作品には「ミュータント・サブ」という超能力者の漫画があり、タイトルから想像できるとおり例外者(怪物)としての孤独が大きなテーマだった。
 現代の魔法や超能力の漫画にはこんな重いテーマは無い。特別な能力を持ったヒーローが一般人とは懸け離れた活躍をするだけだ。魔法使いと超能力者以外を衆愚として蔑むエリート主義だ。たとえ漫画であろうともオカルト頼りになることは、通常の能力の蔑視であり主体性の喪失とさえ思える。

風評加害

2013-12-07 10:06:10 | Weblog
 安全神話があるように危険神話もある。特定の物を危険と騒ぎ立てることによって儲けようとする人がいるからだ。農薬や食品添加物の危険性を煽る人の中には少なからず無農薬野菜や無添加食品を高値で売ろうとする人が混じっている。ダイオキシンが危険と馬鹿騒ぎをした時には背後に高熱焼却炉のメーカーがいたのではないだろうか。原発事故の際、東北や関東の食品は総て汚染されているかのように騒ぐ西日本の事業者もいた。風評被害が広がる時には「風評利益」を得ようとする風評加害者がいる。
 健康関連において風評加害が特に目立つ。誰でも健康でありたいと願っている。その欲求に付け込むのが風評加害者だ。紫外線や生活習慣病などの恐怖を煽り立てて化粧品や健康食品を売り付けようと彼らは企む。紫外線の有益性を無視して有害性だけを騒ぎ立てるからくる病に罹る児童まで現れる始末だ。彼らには大義名分がある。「危険なものを危険と告知して何が悪い!これは啓蒙活動だ」と彼らは言い逃れをしようとする。しかし被害者がいるのだから彼らは加害者だ。
 私は薬を危険物と考えている。薬とは人体に異常な反応を起こさせる劇物であり、上手く働けば有効だが悪く働けば有害だ。たとえ上手く働いても副作用を伴うことが少なくない。日本人が薬の使用を半分に減らしたら今よりずっと健康になれることは確実だ。しかし残念ながら味方が殆んどいない。医師も厚生労働省もマスコミも、金を湯水のようにバラ撒く薬品メーカーに丸め込まれている。薬の使用に反対するのは怪しげな民間療法を唱えるグループか新興宗教のような風評利益を目論む連中ばかりだ。こんな連中は味方になるよりも敵に回って欲しい。
 風評被害が生まれる時、必ず風評加害者がいる。彼らは正義の味方の仮面を被って危険を煽り立てるが、実は自らの利益のための行動に過ぎない。私は風評ではなく事実として薬の危険性を訴えたい。

和食

2013-12-06 10:13:12 | Weblog
 和食がユネスコの無形文化遺産に登録されたが、それが素材偏重なら困ったことだ。京料理は素材の一番良い部分しか使わないと言う。これが最上以外の部分は捨てるということなら「勿体無い」の精神に背く。そんな公家料理など日本文化とは言えない。
 私は日本文化の真髄は大衆文化だと思っている。支配者層よりも知的レベルの高い庶民が築く文化だ。寿司は江戸の町民のファストフードだったし、歌舞伎も浮世絵も庶民の文化だ。決して公家や武士の文化ではない。現代日本が世界に誇る漫画・アニメもサブカルチャーだ。
 公家料理に一番良い素材を使った残りは多分捨てずに家臣が食べたのだろう。言わば賄いだ。京料理の技法を駆使して二級の素材を美味しく料理したのではないだろうか。「料理する」という言葉にはそんなニュアンスも含まれているように思う。家臣は公家の数倍はいたと思われるからこうすれば貴重な食材を無駄にせずに済む。
 松阪に「和田金」という松阪肉を中心に据えた料亭がある。ここではヒレとロースしか使わない。あくまで噂だが「裏の和田金」と呼ばれるホルモン屋がある。ここでは和田金が使わない肉や内臓を安く仕入れて売っていると言われている。
 では料亭ではどうしているのだろうか。幾らかは賄いに回すだろうが料亭の従業員は家臣ほど多くないから食材が余ってしまう。セカンドブランドという手がある。カジュアル和食店を経営して二級の食材を丁寧に料理して安くて手軽に和食を楽しんでもらうという戦略だ。
 素材の良さを生かすという和食のコンセプトは素晴らしいが、良くない食材の活用ということまで含めて和食文化を理解すべきだろう。