俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

バトンパス

2016-08-21 10:52:48 | Weblog
 オリンピックは、冬季オリンピックの対象種目以外のあらゆるスポーツの祭典だが、その核となっているのは陸上競技だ。陸上競技という核の周囲に競泳・球技・格闘技・体操・その他が配置されて総合的なスポーツの祭典になっている。オリンピックの核は陸上競技でその核はトラック競技だ。しかしその核の中の核であるトラック競技で日本は情けないほど非力だ。前回のロンドン・オリンピックまでに獲得したメダル数はたったの2個だ。1928年のアムステルダム大会の女子800m走での人見絹枝選手の銀メダルと、2008年の北京大会の800mリレーでの銅メダルのたった2個だけだ。
 フィールド競技であればアムステルダム大会の三段跳びでの織田幹雄選手以来2004年のアテネ大会のハンマー投げでの室伏広治選手まで、トラック外では女子マラソンで2000年のシドニー大会での高橋尚子選手やアテネ大会での野口みずき選手などの金メダリストがいるがトラック競技の金メダリストは皆無だ。特に近年は長距離走ではケニヤとエチオピアの東北アフリカの選手、短距離走では西北アフリカ出身の黒人選手が圧倒的に強い。それだけに昨日の男子400mリレーには大きな期待をしていた。その競技を見るために予めチャンネルを合わせて待機したのは今回のオリンピックではこの種目だけだった。
 正直な話、射撃やテコンドーなどのようなマイナーな種目の結果には殆んどの人が関心を示さない。メジャー中のメジャーである400mリレーは世界的に見ても最も注目される種目の1つだ。この種目での銀メダルは今回日本人選手が獲得したどの金メダルよりも価値が高いと私は考える。男子体操の団体総合や個人総合の金メダルよりも世界的には高く評価されていることだろう。
 私は6月に開かれた陸上選手権兼アテネ五輪代表選考会から男子100m走に注目していた。当時の下馬評は「4強の激突」だった。その後リオデジャネイロ・オリンピックの100m走の代表に選ばれたケンブリッジ・桐生・山縣の3選手に、やはり後には200m走の代表に選ばれた飯塚翔太選手の4人だ。飯塚選手が出場種目を200m走に絞ったためにすんなりと3選手が選ばれたが4人の力量は伯仲していた。この4人が400mリレーのメンバーになることを期待していたらその通りになったから私は大いに期待した。
 しかし日本史上最高レベルの選手が4人揃っても世界的に見れば大きく見劣りする。ファイナリストは一人もいないし9秒台の実績を持つ選手もいない。こんなメンバーでは9秒台の実績を持つスプリンターを揃えたジャマイカやアメリカに勝てる筈が無い。アンダーハンドパスのご利益と火事場の馬鹿力としか言いようが無い。まるで3割打者も30本塁打のスラッガーもいないチームが打ち勝つような奇跡の準優勝だった。
 日本が独特のアンダーハンドパスを使うことは事前に知っていたが、どのチームもバトンの持ち替えをしないことに驚かされてしまった。持ち替えたのはジャマイカチームのアンカーのボルト選手だけだった。
 小学校で私は、左手でバトンを受けてから右手に持ち替えて次の走者の左手にパスをすると教わっていたが、リオデジャネイロ・オリンピックの400mリレーの選手は持ち替えていなかった。第一走者は第二走者の左手にパスをして、第二走者は左手で受けたバトンを持ち替えずに第三走者の右手にパスをする。第三走者はそれを第四走者の左手にパスをする。バトンを持ち替えるという動作の途中で落とすことを避けるために持ち替えるという動作を廃止したのだろうが、バトンパスの方法が変わっていたことに昨日まで全く気付かずにいた。無知とは恥ずかしいものだ。
 リオデジャネイロ・オリンピックのサッカーでは個人技で優るブラジルが組織力のドイツを倒して優勝したが、個人の能力を生かした組織作りは難しく、組織を上手く機能させる人員配置のほうがずっと易しい。短期間であれば組織を優先したほうが有利で徐々に個人の力を活かす戦略が有効だろう。しかし日本の組織が個人の能力を活かせるようになるまでには余りにも長期間掛かり、しかも随分歪んだ形でしか実現されない嫌いがある。

3点セット

2016-08-20 09:49:47 | Weblog
 政治家の発言を文字通りに受け取ってはならない。必ず何らかの意図を持っている。アメリカのバイデン副大統領の「日本の憲法は我々が書いた」という15日の発言もまた含みの多い発言であり真意を汲み取らねばならない。
 日本国憲法が「アメリカ人によるアメリカ人のための憲法」であることは明らかだ。このことを否定することは不可能であり、そんな無茶苦茶な主張をする人がイデオロギーかぶれで思考力ゼロであることは確実だ。これは思考力がある人か無い人かを識別するための試金石として役に立っている。
 しかしこのことを根拠にして憲法改正を唱える人も同じくらい思考力が足りない。誰が作ろうとも良いものは良く悪いものは悪い。憲法の条文のどこが悪いのかを具体的に指摘すべきであって、自主憲法に改めるだけで予定調和的に良い憲法が生まれる訳ではない。現政権を倒してももマシな政治体制が生まれるとは限らず、より酷い権力者による支配を許した例は少なくない。現状の否定しか考えなければ大抵の場合、より悪い事態を招く。
 バイデン副大統領が今更「日本の憲法は我々が書いた」と強調するのは日本国憲法がアメリカにとって極めて都合の良いものだからだ。折角アメリカのために役立つ憲法を押し付けたのにそれを改めようとする者は何人たりとも許さないという決意表明だろう。つまりこの発言は単にトランプ氏に向けられたものではなく、安倍首相も含めた日本の改憲論者に向けられていると理解すべきだろう。
 学校では教えないしマスコミも殆んど触れないが、日本国憲法(以下「憲法」という)と日米安全保障条約(以下「安保」という)と日米地位協定(以下「地位協定」という)は3点セットとして作られそれぞれが補完し合う関係になっていることを理解して、その関係性と整合性を見逃すべきではない。この3者は個々に議論すべき問題ではない。相互補完的になっているのだからどれかを見直そうとすれば他も見直さねばならなくなる。安保や地位協定を見直そうとすれば憲法の見直しは不可避になる。三位一体とさえ思えるこの3点セットの内、憲法を守ろうとすれば安保も地位協定も守らねばならなくなる。つまり憲法を守ろうとすれば安保と地位協定を重視する親米派の立場を採らないことには理論的整合性を保てない。護憲を標榜しながら安保に反対したかつての進歩的文化人は根本的に誤っており彼らが理論的に破綻したのは当然のことだ。
 日本人の多くは憲法と安保と地位協定が有機的に絡み合って日本の政治の根本を操作しているということに気付いていない。これらが日本の政治にとってどれほど重要かを理解していない。憲法と安保と地位協定の3点セットは、日本をアメリカに従属させるための聖書(バイブル)だ。これを否定する者は許さないとバイデン副大統領は言っているのだろう。虎の尾を踏もうとする人は虎の怒りに備えねばならない。これが虎の尾であることを知らなければ日本人として失格だ。

固有名詞

2016-08-19 09:43:50 | Weblog
 オリンピックで国名はアルファベット3文字で表記されることが多い。もし2文字で表記しようとすればアルファベットの26文字の組み合わせで表記できるのは26×26=676種類となりかなり厳しいが3文字であれば26×26×26=17,576種類となるから似た表記の誤解による混乱は容易に避けられる。
 日本はJPNだ。これをJAPと表記すれば日本人に対する蔑称である「ジャップ」と読まれてしまうからそれを避けるために選ばれた表記だろう。大半の国はUSAやCANやRUSやFRAなど容易に推測可能な表記になっている。
 しかし元々ややこしい国名もある。オーストリアはAUTでオーストラリアはAUSだ。インドはINDだがインドネシアはIDNだ。ポーランドはPOLでポルトガルはPRTだ。これらは当事国とIOCが協議した上で決めた略称だろう。
 日本人には分かりにくい表記もある。GERがGermanyであることなら比較的容易に推定できるがNEDがNederlandとは気付きにくい。もっと難解なのはGBRだ。これを予備知識無しでGreat Britainと理解できる人など殆んどいないだろう。
 ESPを初めて見た時はとんでもない想像をして驚いた。エスパーつまり超能力者と思ったからだ。実はEspañaのことだった。
 女子マラソンでKIMのゼッケンを付けた選手が3人並んでいた時には流石に考え込んでしまった。外見上は東アジア系のように見えたがアジアのどの国も該当しそうに思えない。ヤケクソで思い付いたのが「金王国」を意味するKIMだ。国家元首の世襲が3代続いていることを踏まえて「金の国」または「金正恩の国」という意味かと思ったがそんな名称を北朝鮮(日本ではいつからか抵抗無く使われるようになったが正式名称はあくまで「朝鮮民主主義人民共和国」)が承認するとは思えない。途方に暮れていたらアナウンサーが「北朝鮮のキム・ヘソンとキム・ヘギョン」と呼んだので一挙に謎が解けた。KIMは国名の略称ではなく選手の姓だった。3人のキムの内2人は双子のランナーでもう一人は赤の他人のキム・クモク選手だった。偶然が重なったために勝手な想像をしてしまった。
 南北朝鮮において金という姓は2割強を占めるそうだが、もし同姓不婚が今尚守られていれば、金さんが結婚できる相手は随分少なくなってしまう。日本のように姓が滅多矢鱈多いのも困るが少ないことによる弊害も小さくなかろう。

痛覚

2016-08-18 09:59:20 | Weblog
 人間の五感はすぐに慣れて刺激を感じなくなる。最も分かり易いのは嗅覚だ。臭い匂いの元を捜そうとして犬のように鼻をクンクン鳴らしていてもだんだん知覚できなくなる。麻痺してしまうまでに悪臭の元を見付けなければ嗅覚による探索は徒労に終わる。
 明るければ明順応、暗ければ暗順応が起こるし、近視になるのは近距離を見易くするために目が適応するからだろう。
 道路や線路沿いに住む人は自動車や電車の騒音を余り気にしないし空港の傍に住んでいれば飛行機の騒音でさえ苦にならないとまで言われている。保育園が隣にできても、子供嫌いでなければその騒々しさにも慣れるだろう。
 甘い食べ物にも辛い食べ物にも人は慣れる。日常的に甘い食べ物を食べている人は甘い味付けでなければ物足りなく感じるだろう。
 長時間、手を繋いでいれば繋いでいるという感覚が無くなるし着ている服の重さも意識されない。包帯で関節を固定しても曲げようとする時までそのことは知覚されない。熱い湯や冷水にも、多少の暑さ・寒さにも人は慣れる。
 このように人の五感は悉く刺激に慣れて感じなくなる。痛覚だけが例外であり、何らかの処置がなされるか治癒されるまで痛み続けて決して慣れない。歯痛が治まるのは痛まない状態になったから感じなくなるのであり決して歯痛に慣れる訳ではない。腹痛も腰痛も一時的に楽になることはあるが痛みに慣れることは無い。だから多くの人が慢性痛に悩まされる。
 痛覚がこのような特殊な知覚であって決して慣れることが無いのはそれが重大な警鐘だからだろう。先天性異常によって痛覚が極めて弱い無痛症の人の平均寿命はかなり短いそうだ。
 治る、あるいは治せる病や傷に痛みが伴うことは良いことだ。痛みがあるからこそ患部が保護されて、保護されている間に自然治癒力が働いて治る。ところが人工物が装着された場合、自然治癒力は働かない。自然治癒力は人工物を排除しようとする。決して取り除かれない人工物に対する痛みは無意味なのだが、こんな痛みこそ一生継続して和らぐことは無い。
 人工関節などの痛みは生涯続く。傷んだ箇所が復元されることは無いのだから痛み続ける。この類いの特殊な痛みはその特殊性を理解した上で鎮痛剤などによって抑え込むことが最も賢明な対応策だろう。自然治癒力が働き得る傷みに対する痛みであればそのことによって治癒が促されるが、治癒されない痛みであれば耐える必要など無い。痛みは本能と結び付いて恐怖心まで人に惹き起こしてしまうのだから、鎮痛剤などによって抑え込むことが正しい対応策だろう。
 

life guard

2016-08-17 09:52:51 | Weblog
 海外の主要ビーチであれば必ず配置されているlife saverを私は国内では見たことが無い。これは私が行くビーチが偏っているせいで関東のビーチにはちゃんとlife saverがいるのかも知れないが、私が見掛けるのはlife guardばかりだ。
 これは安全管理に対する内外の意識の違いによるものだろう。日本ではビーチにはロープが張られてそれよりも沖は遊泳禁止とされる。沖縄本島のビーチでさえロープで囲われており、離島まで行って初めて自由に泳げる。ビーチとは浅瀬での水遊びの場所に過ぎないから溺れる心配など殆んど無く、ロープを越えないよう監視することだけがlife guardの仕事だ。だからこそlife saverを置く必要など無いのだろう。Guard Yourselfが基本である西洋人と、事故が起こればすぐに責任追及を始める日本とではレジャー施設の管理に対する意識が全然違う。もし日本にグランドキャニオンがあればその99%が立ち入り禁止にされるだろう。こんなまるで小学生を相手にするような管理主義・保護主義にはうんざりする。国民を子供扱いする役人が悪いのか事故があればすぐに誰かに責任を押し付けたがる国民が悪いのかはよく分からないが、国民はもっと自由であるべきだろう。自己責任に基づいて自由に行動できてこそ大人の社会と言える。
 プールにもlife saverはいない。life guardばかりだ。これは監視員の殆んどが夏休み期間中だけのアルバイト従業員で全く泳力を欠く者も混じっているからlife saverと名乗れば詐称になるからだろうか?日本には元々「水面監視員」という名称があり彼らの主な仕事はプール内での飲食などを規制することであり、ごく稀に溺れそうになった人を助けることもある。しかしそれは例外的な業務であり、本人も端から人命救助を自分の仕事とは思っていないだろう。大体Lifeguardは飲料水の登録商標であり仕事の名称ではなかろう。
 一部のプールにはpool guadと名乗る係員がいる。これはどう理解すれば良いのだろうか。プールにいるlife guardだからpool guardと名乗っているつもりなのだろうが、ヘソ曲がりの私にはそう解釈できかねる。文字通りプールを守っているのではないだろうか。つまり飲食物や小便などによって水質を汚染させないことが彼らの本来の業務でありその付帯業務として利用者の管理も行っているのではないかと勘繰りたくなる。その割には小便禁止の指導が不充分だ。
 日本では滅多にお目に掛かれないlife saverだがリオデジャネイロ・オリンピックの水泳会場には何と75人ものlife saverが勢揃いしているらしい。これはブラジルの法律に基づく措置らしいが、折角、国の威信を賭けて優秀なlife saverを集めても多分オリンピック期間中には一度も働くことはあるまい。古今東西共通してお役所とは無駄な仕事を作っては無駄な出費を重ねるものだ。共有されるものは誰のものでもないという理由があるからこそ浪費され易い。


客観性

2016-08-16 09:44:42 | Weblog
 子供の頃に親しんだ童話の大半が寓話だった。子供を教え諭すという目的を持って大人に選ばれた作品が大半でそれらは玉石混交だった。後になってから気付いたことだが、当時の私が気に入った童話の大半がイソップ寓話だった。大学生になってから改めて読み直してこれが童話ではなく大人のための物語であることを知らされた。
 イソップ寓話以外の童話は好きになれない作品が多かった。物語として陳腐で教訓は平凡だった。特に「白馬の王子様に見初められる物語」は大嫌いだったしアンデルセンの「裸の王様」もまた嫌いな話だった。大体「馬鹿には見えない繊維」という設定がくだらないし周囲が「馬鹿と思われたくないから見えるふりをする」という進行も不自然過ぎる。極め付けは「権威に拘束されない無邪気な子供が真実を明かす」というオチだ。私は子供のほうが大人以上に権威主義的だと感じているからこのオチには全く納得できなかった。
 大体こんなくだらない話を子供の脳味噌に詰め込もうとするのは、子供に客観性を求めているからだろう。客観性を推奨する童話を多く読まされるし学芸会でもそんなテーマの作品が多く取り上げられた。誰の作品なのか知らないが、手鏡の中に誰がいるのかを巡って王であるライオンが「鏡の中にいるのはライオンだ」と主張して他の意見を認めず、人間の子供が事実を教え諭すというくだらない劇を演じさせられたこともあった。この作品のテーマは客観性の重視以外に「言論の自由」まで含めていたようだった。様々な手段を使って教え込まなければならないほど子供は客観性も公正さも欠いている。
 こんな物語を利用するよりもスポーツによる教育のほうがずっと有益だと思う。プレイヤー同士で相互審判をしていれば、一番嫌われるのは不公正な判定をする者だ。たとえその競技が得意で所属することによってチームが強くなるような同級生でも不公正な判定をすれば両方のチームから嫌われる。揉めるばかりで一向に楽しいゲームにならないからだ。これが公正さに対する目覚めでもあり児童心理学者がしっかりと研究すべき課題だろう。
 文化度の低い国民はルールを遵守しない。たまたまだが日本が国境を接する3国はどれもスポーツ界での問題国だ。偽装することがまるで国策であるかのような中国、国ぐるみでドーピングをやってオリンピックから締め出されたロシア、世界一汚いサッカーをするということが国際的にも認められている韓国と、日本は野蛮な国に囲まれている。こんな3国を文化によって教化することは難しく、市民スポーツを普及させることによってフェアプレーの精神を身に付けさせるのが一番良いのではないだろうか。相手の文化レベルが上がるまでは我慢せねばならないが、スポーツを通じた交流によって文化後進国を啓蒙するという気長な対応も必要なことだろう。
 

無法者

2016-08-15 09:49:53 | Weblog
 「銃が違法とされれば犯罪者だけが銃を持つ」
 日本のマスコミが殆んど報じないことだが銃規制に反対するアメリカ人が最も好んで使うのがこの理屈らしい。この言葉は理性にも感情にも訴えるがより強く訴えるのは感情に対してだ。
 理性に対しては「善良な市民が法を守ることによって犯罪者が特権的な強者になり得る」と警告する。感情に対しては、丸腰の市民の周りに銃で武装した悪人がウヨウヨいるようなイメージが与えられる。これは悪夢のような光景だろう。もし刃物を持った人々が群がっていれば、たとえ平和ボケした日本人でもそこに近付く時には何らかの武器を要求するだろう。
 たとえ市民を守るためのルールであっても自分達が守るだけでは少しも安全のために役立たない。「守らせる」という強制力が必要だ。例えば自分達だけが信号機に従っていてもそれを無視する自動車がたった数台あるだけで交通事故は頻発する。犯罪的傾向のある危険な人々にこそ守らせねばならない。
 先日ジョークとしか思えない実話を紹介した。中国では余りにも信号無視をする車が多いから事故が頻発するという理由である地区で信号機を廃止したところ交通事故が減ったそうだ。これは「事実を優先する現実主義的な対応」などではなく「良識の敗北」であり「無法の勝利」だ。法治社会では、法を守る者を守らねばならない。つまり法を破ろうとする者に対する罰則が伴わなければ秩序が保たれない。罰を欠いたルールは無法者によって形骸化されて却って社会を危険化させる。
 アメリカ人にとっての自然状態とはホッブズが想定した「万人の万人に対する戦闘」ではなく家畜を襲う野生動物というイメージであるようだ。あるいは市民の生活を脅かす無法者と考えても良かろう。西部劇のように、善良な市民生活を破壊しようとする無法者(アウトロー)は住民の総力によって排除されるべきものなのだろう。統治者が頼りにならないからこそ自分の身は自分で守らねばならない。
 自分達が従うだけでルールが機能すると考えるお目出度い人々は世間知らずの阿呆かさもなくば悪人の手先だろう。自分達で守るだけではなく悪人にこそルールを守らせねばならない。銃を規制することが困難であることを知っているからこそ銃規制に反対するアメリカ人はルールのそんな弱点を熟知しているから理想論に反対する。マスコミがこの辺の事情に触れたがらないのは特定の意図を持っているからだろう。
 平和を祈っていても平和は維持できない。平和を守るためには無法者に対する断固たる制裁が欠かせない。他国の排他的経済水域にミサイルをぶち込む国や国策として領海侵犯を繰り返す国や他国の領土を不法占拠する国を黙認したままで平和を語ることなど寝言にも等しい。国際法違反に対する断固たる対応が無ければ平和は維持できない。自分達だけがルールを守っても無法者の横行を許すだけであるならそんなルールなど無いほうが良かろう。
 

Dスコア

2016-08-14 17:12:17 | Weblog
 体操やフィギュアスケートのような美を競うスポーツでの採点は公正かつ客観的であるべきで、そのために難易度に基づくDスコア(difficulty)と出来栄えに基づくEスコア(execution)の2面から評価される。Dスコアは加点法であり難しい技を積み重ねれば高くなり、Eスコアは10点満点からの減点法であり細かいミスも総て減点対象にされる。
 2010年のバンクーバー・オリンピックの女子フィギュアスケートで一部の日本人が不満を訴えた。「なぜトリプルアクセルを跳べない金ヨナが優勝でトリプルアクセルを見事に成功させた浅田真央が2位なのか」と。答えは簡単だ。フィギュアスケートはジャンプだけを競う競技ではなく、評価はDスコアとEスコアの合計に基づくからだ。Dスコアは評価の半分に過ぎず、個々の技などその一部を占めるに過ぎない。
 これとよく似た話が今回のリオデジャネイロ・オリンピックの体操の個人総合で持ち出された。大逆転となった最終種目の鉄棒の採点だ。ウクライナのベルニャエフ選手の採点が不当に低いのではないかという疑惑だ。オリンピックの度にこんな話が持ち出されるのは普段は余りスポーツ観戦をしない人が俄かファンになって自らの無知を省みずに文句を言うからだろう。
 二人の得点を比べれば一目瞭然だ。内村選手はD7.1+E8.7=15.8でありベルニャエフ選手はD6.5+E8.3=14.8だ。ベルニャエフ選手のDスコアは内村選手よりも0.6点も低い。これは演技を始める以前での基礎点の差でもある。つまり両者が同程度に完璧な演技をしてもDスコアだけで0.6点の差が付くという意味だ。
 Dスコアにおいては個々の技が難易度に基づいて点数化されており素人にも理解できる客観的なものだ。それと比べればEスコアは分かりにくい。素人目には完璧であっても専門家にとっては難点だらけの演技もある。それに、易し過ぎる技を満点と評価する審判はいない。あくまで極論だが小学生でもできる「前回り降り」をフィニッシュに使った場合にEスコアで満点を付ける審判は絶対にいない。
 要するにベルニャエフ選手は安全策を取ったためにDスコアだけではなくEスコアまで落としたものと思える。ダンスとは違ってスポーツ競技である限り難しい技に挑むことは義務でもあろう。その意味でトリプルアクセルや4回転ジャンプの評価が低過ぎるのかも知れない。もっとDスコアで厳しく差別したほうが技のレベルは高くなるだろう。
 企業での俄か仕込みでの成果主義でも同等の失敗が見受けられる。自己評価を高くするために目標設定のレベルを下げる人が多い。これもあくまで極論だが「無断欠勤をしない」という目標を設定して成果を10点とすることは全く不当だ。こんな目標はDスコアとしては評価レベル外であり当然Eスコアも最低点とすべきだろう。こんなことを理解せずに導入した俄か仕込みの成果主義など成功する筈が無い。目標に対する評価は成果に対する評価以上に重要だ。

平泳ぎ

2016-08-13 09:49:44 | Weblog
 27歳の金藤理恵選手がリオデジャネイロ・オリンピックの200m平泳ぎで優勝した。この種目での優勝は24年前のバルセロナ・オリンピックでの当時、弱冠14歳だった岩崎恭子選手以来の快挙だ。岩崎選手の前の日本人優勝者は1936年のベルリン・オリンピックの前畑秀子選手とのことだから、日本人にとっては因縁深い種目と言えよう。
 岩崎氏は今回NHKの解説者を勤めていたから思い出した人も多かろうが優勝後のインタビューでの「今まで生きて来た中で一番幸せです」という言葉は同じオリンピックのマラソン代表でレース中に転倒した谷口裕美選手の「こけちゃいました」と共に流行語にもなった。
 谷口選手は優勝候補として期待されていたが20㎞過ぎの給水所で後続選手に靴の踵を踏まれて転倒した。転倒しただけではなく靴が脱げてそれを履き直すために引き返すシーンまで放映されが、8位に入賞した。そのレースのの直後のインタビューでの発言が「こけちゃいました」であり、日本中のファンが靴を踏んだ選手に怒っている最中に悲劇の当事者が何ともとぼけた味のある発言をしたからすっかり視聴者を和ませた。
 前畑選手についは、本人の発言ではないが、我を忘れたラジオのアナウンサーが実況中継の最中に「前畑頑張れ」と連呼したことが今も語り継がれている。残念ながら金藤選手の発言はそんな話題性には乏しいが強いて言えば何度も名を挙げて感謝をした「加藤コーチ」が話題になった。
 27歳の金藤選手をロートル扱いすべきではなかろうが、近年の女性アスリートの若年化に歯止めが掛かってほしいと思う。男性アスリートであれば野球のイチロー選手(42歳)やスキー・ジャンプの葛西選手(44歳)のような世界的な名選手が多くいる。男性よりも長寿の日本人女性だから超長寿のアスリートがいても良かろう。
 女性の200m平泳ぎは80年間で3度優勝しただけだが男性の代表選手は何と言っても北島康介選手だろう。彼の特徴はゆったりとした大きなフォームにある。周囲の選手よりもゆっくりと泳いでいるように見えながら一番早いという何ともシュールなシーンを何度も見せられた。それだけではなく、彼自身が焦ってピッチを上げて却って失速するという失態を演じたこともある。
 早さを競うスポーツの中で平泳ぎは最も特殊な種目だと思っている。どんな種目であろうともピッチを上げればスピードが増す。ピッチを抑えるのはスタミナ切れを恐れるからに過ぎない。ところが平泳ぎだけはピッチを上げても早く泳げない。これは一流のアスリートだけではなく私のような素人スイマーでも同様だ。水の抵抗をモロに受ける平泳ぎでは、ピッチを上げると抵抗が増えて却って遅くなるという摩訶不思議な現象が起こる。だからこそ一番難しい泳法とされている。
 我武者羅に頑張るべきではないという事実を痛感できるという意味で、平泳ぎは最も教育的価値の高いスポーツだろう。力任せに頑張るよりもしなやかな動作のほうが良いということがこれほどよく分かるスポーツは他にあるまい。

痛感

2016-08-12 09:55:50 | Weblog
 感じるべき痛みと感じる必要の無い痛みがある。手足の痛みを感じることは重要だ。怪我を認知せずに使い続ければ悪化させてしまう。痛覚の本来の役割は損傷についての警鐘であり損傷した箇所を保護することが主たる目的だ。
 痛覚が警鐘だからこそ痛感に対する恐怖や不安が本能的に備わっている。中高齢者が関節などの軽微な痛みを気にするのはそれが本能の指示だからであり、その痛みを鎮痛剤などによって抑え込もうとする藪医者は詐欺師か邪教の狂信者のような悪の権化だ。痛みは誤魔化すべき対象ではなく原因にまで遡って治療すべきものだ。
 その一方で原因が分かっている痛みであれば誤魔化しても構わない。痛みに対する恐怖や不安が本能的なものだけに精神力まで奪いかねないから、生理痛のように原因が分かっている無害な痛みであれば抑え込んでも支障は生じない。
 私は鎮痛剤を毛嫌いしている。理念としてはこれが究極の対症療法薬であり、実際には存在している傷み(痛み)を、痛覚を麻痺させることによってあたかも存在していないかのように偽装するからだ。医学的・薬学的にも3つの弊害を伴う。鎮痛剤の常習化とそれに対する依存、副作用、他の痛みの看過の3つだ。
 私はこれまで食道癌の痛みには耐え、鎮痛剤は殆んど使わなかった。それは少しの異変も見逃すまいとしたからだ。病状に変異があればそれは痛みや不快感として知覚される。鎮痛剤はそんな病変を敏感に察知することを妨害する。一時的な安楽よりも長期的に健康の改善を図るべきだと考えた。
 しかし治療を諦めてステントを装着することによって事情は大きく変わった。ステント装着による人工的な痛みに自然治癒力は働かない。こんな痛みは生理痛などと同様に揉み消してしまっても構わない。そう開き直ると鎮痛剤が必需品になった。
 痛みに耐えている間は思考力が激減するから読書さえままならない。苦しみに悶々とするばかりでまとまりの無い考えが渦巻くばかりだからブログの記事を書くことさえできなくなる。私は元々スラスラと書けるタイプではない。アイデアを思い付いてもそれを文章にするために悪戦苦闘をする。ところが鎮痛剤で痛みを抑えるだけで執筆能力は高まる。思考が整理され易くなるからだ。
 たかが腹痛のせいで文章を書けなくなるのは思考力が低下するからだ。抗癌剤治療の後も腹痛のために長期間ブログを休んだが、肉体的な痛みがあるだけで人は思考力を失う。秩序立った思考が困難になり刹那的・衝動的な思考しかできなくなる。
 私に残された時間は余り多くない。納得して、夕べの死を受け入れるためには朝(あした)に道を聞いておく必要がある。そのためにはたとえ鎮痛剤のような悪魔の薬に頼ってでも脳の働きを活性化すべきだろう。精神錯乱を招きかねない危険な薬物でさえなければ、鎮痛剤という毒物でさえ薬として役立ち得る。