俗物哲学者の独白

学校に一生引きこもることを避けるためにサラリーマンになった自称俗物哲学者の随筆。

価格差

2016-08-11 10:47:11 | Weblog
 価格の違いには訳がある。たとえ同じ名前の料理でも味の差は大きい。その差を決めるのは素材や技術や手間などだ。勿論、量の違いもある。
 百貨店は高くスーパーは安いという常識も疑わしい。百貨店が長く斜陽産業と言われながらも生き延びているのは訳があってのことだ。戦後の百貨店の主要商品の推移を見れば百貨店が結果的には時代対応していることが分かる。戦後の呉服とギフトから始まって輸入の婦人雑貨、婦人服を経て、今では「デパ地下」と呼ばれる食料品が主力商品だ。
 呉服は、三越や大丸などにとっては本業だったから、当時の百貨店は圧倒的な優位性を持っていた。品質、品揃え、販売力、あるいは価格においても一般の小売店は太刀打ちできなかった。「現金掛け値無し」は江戸時代以来の三越の戦略でありこれは先駆的商法とさえ思える。しかしその後はスーパーなどに価格決定権を奪われた。例外は海外の有名ブランド品であり輸入代理店が価格決定権を握っていた。
 ビールとビール系飲料の価格差は全く馬鹿馬鹿しい理由に基づく。その差は大半が酒税の差だ。価格の差は品質と全く釣り合っていない。だから私はもっぱら第三のビールを飲む。ビールしか飲まない人には目隠しテストをして彼らの権威主義を嘲笑いたいと思う。
 通常、価格はそれなりに妥当性を持つが私にとって最も不可解なのは缶コーヒーの価格だ。コンビニや自動販売機では100~130円程度なのにスーパーでのバーゲンでは30~50円程度だ。消費期限が短い生鮮食品であれば価格は需要と供給のバランスによって大きく変動し得るが、長期保存と計画生産が可能な缶コーヒーのこの価格差は不可解だ。かつて「原価の秘密」という本が出版されてコカ・コーラなどの原価が暴かれたが、缶コーヒーの市場価格の乱れの原因も原価が原因と思える。コーヒーそのものの原価は5円と言われている。乱暴な試算だが、缶が5円、物流費が5円、人件費が5円とすれば缶コーヒーの直接原価は20円程度に過ぎない。これなら25円で卸しても採算が合う。ところが缶コーヒーの拡販のためには膨大な宣伝費が使われている。これを回収するために自動販売機やコンビニではボッタクリ販売をしているのではないだろうか。こんな形で宣伝費を埋め合わせるのは前近代的な商売だろう。大量生産・大量販売という従来型の商売のままで付け焼き刃のブランド戦略を取るから全体のバランスが崩れているのだろう。

温暖化

2016-08-10 10:51:51 | Weblog
 北海道や東北が猛暑になっても東京が涼しい内は冷夏だと騒ぎ、北日本に大寒波が襲来しても東京が暖かければ暖冬だ温暖化だと騒ぐ。マスコミ特にテレビの東京偏重は本当に不愉快だ。
 暖かさは殆んどの生物にとって快適な環境だ。人類にとっても有害生物にとっても好ましい。人類が有害生物に敵わなかった時代であれば「出アフリカ」が必要だったかも知れないが、多くの病原体や寄生虫などの有害生物の害を克服できるようになった現代において熱帯こそ人類生存のための最適地だろう。
 なぜか分からないが人類は全哺乳類の中で最も暑さに強い。毛皮を着ていないだけでも有利なのに、汗をかくという不可思議な能力まで身に付けている。だから犬や猿のように荒い呼吸を通じて辛うじて体温を下げるような動物と比べて圧倒的に簡単かつ素早く体温を下げることができる。だからこそ真夏の昼間に出歩くことも可能だ。人類はこれまで碌な進化を遂げなかったが暑さ対応だけは素晴らしく進化した。
 地球温暖化など怖くない。それは温暖化であり灼熱化ではない。シベリアやアラスカなどが暖かくなる一方、熱帯地域の気温は殆んど変化しない。熱風などの被害が発生するのは殆んどが内陸部の一部の地域に限られるから、メリットとデメリットを比べればメリットのほうがずっと多い。
 東京の気温はこの100年間で3.5℃ほど上がっているらしい。世界の平均が0.6℃の上昇らしいからこれは異常な上昇だ。しかしこんな異常な数値を含めてもたった0.6℃しか上昇していないことに疑問を感じないだろうか。大体、100年分の気象データが揃っているのは大半が北京やニューヨークのような大都市だ。平均気温の上昇原因の9割を占めると思われるヒートアイランド現象の影響を補正せずに平均気温の上昇を騒いでも全く無意味だ。
 南極の氷が融けてツバルが水没すると騒ぐがもし海面上昇が事実であれば日本の国土も狭くなっている筈だ。海は総て繋がっているから海面上昇は世界共通の問題でなければならない。ツバルの水没は、東日本大震災でも起こったような地盤沈下が原因だろう。そもそも南極の氷は減少しているどころか逆に増えていると一昨年NASAが発表した。マスコミは、南極の氷が融けているという嘘を利用してまで地球温暖化という虚構をバラ撒こうとする。
 ヒートアイランド現象は既に起こっているが地球温暖化は眉唾物の話だ。大体「エルニーニョ現象が原因で異常気象が起こる」などと科学的にも哲学的にも誤った理屈を平気で言い触らすような無知な解説者の言葉など信じるに値しない。地球温暖化は事実とは言い難いし仮に事実であっても恐れるに足らない。むしろ寒冷化のほうがずっと怖い。寒冷化すれば世界の農業がそれこそ壊滅的な被害を被るということさえ彼らは知らないのだろうか。

本能

2016-08-09 09:55:03 | Weblog
 人類は最も本能を失った動物だ。本能を失うことによって人類は「自由」を得た。本能による支配から離脱できれば「学習」を通じて事実を知る。しかし生存に直結した本能から自由ではないから特定の本能によって雁字搦めになった歪な価値体系を築く。
 人類が逃れられない本能は主に3つある。食欲、性欲、群居欲だ。本能から自由になった筈の人類の理性はこれらの本能と対立する。食欲と性欲が理性と対立することは日常的に見受けられる。これらの本能が働けば人類は平気で不合理な選択をする。理性は食欲と性欲を制御できていない。
 余り注目されないが群居欲は授乳・受乳が必須である哺乳類にとって離脱不可能な本能だ。哺乳類は総て強固な群居欲を本能として持っている。人は群居欲を本能として認めようとせず奇妙な論理を使ってでも倫理の中に組み込もうとする。しかし利他性や共感は人が神の資質を受け継いだのではなく、ただ単に今尚群居動物である証しに過ぎない。群居動物的特性は倫理性に基づくのではなくただの本能だ。本能だからこそ合理性に背く。
 痛みに対する恐怖が本能に基づくからこそ耐え難いということに最近気付いた。このことは最近散々書いた。
 本来、理性は自由だ。事実に対してのみ忠実であり客観的な判断を生みだす。しかし意識されない本能があれば理性はその本能の僕(しもべ)になる。理性は群居本能に操られて群居的生存を賛美する。共存や協力が高く評価されるのは倫理的に正しいからではなく、群居を快適にするからこそ「正しい」と評価される。快適な群居に対する無条件の肯定が倫理の根底に潜んでいる。
 性欲が美を歪めるように群居本能が倫理を歪める。理性は本能に対して自由ではあり得ない。理性は事実に対してのみ忠実であるべきだが、実際には本能に隷属して本能の声を代弁することが多い。
 強欲な人は欲に基づいて判断し、愚かな人は事実と願望を区別できずに願望に基づいて判断する。たとえこれらを超越できる聡明な人であっても本能の声に逆らうことは難しい。理性は本能によってコントロールされるが本能を理性によってコントロールすることは難しい。

狂人

2016-08-08 11:28:02 | Weblog
 現代人でも熊に襲われたら一溜りも無い。あっさり食われてしまう。川でワニに襲われても同様だ。では文明以前の人類はどうだったのだろうか。猛獣に襲われることを恐れる臆病な集団だっただろう。交代で寝ずの番をして襲われたら総出で騒ぎ立てて追い払うという生き方だったのではないだろうか。
 現代人は雑食だが肉食動物を殆んど食べない。強いて挙げれば狼かジャッカルの末裔と思われる犬を食べる人が少数いるぐらいだ。古代の人類は肉食獣を只管恐れ弱い草食獣だけを食べるひ弱な動物だったのではないだろうか。強きを恐れ弱きを食べるという情けない動物だ。
 そんな時代が数百万年続いた。人類の脳はそんな生活に適応した。猛獣の脅威から逃れられるようになったのはこの数万年だけのことだ。それもまるでサファリパークのように自らが檻に入ることによって得られた安全だ。だから猛獣に対する恐怖は今尚現実的なものだ。
 人は怖い人を恐れる。子供は怖い教師などの年長者を恐れる。大人は無分別な人を怖がる。この恐怖は理性的なものではなく本能的なものだから合理的反応から逸脱し勝ちだ。恐怖に支配された人は合理的に対応する能力を失う。
 知的障害者大量殺害事件の植松容疑者は知的障害者を憎悪していたようだが、私は知的障害者よりも植松容疑者のような精神障害者を警戒する。精神障害者こそ理解することが困難であり何をするか予想できない。
 凶悪犯罪者の大半は狂人だろう。オウム真理教の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚が現在狂人であることは確実だが犯行を指示した時点で既に狂っていたと考えて間違いあるまい。
 マスコミは精神障害者の問題からは逃げ腰だ。松本死刑囚や植松容疑者を精神障害者扱いをしたがらないが、もし彼らが精神障害者でないのなら真の精神障害者とは一体どんな化物なのだろうか。少なくとも彼ら以上に異常でなければ精神障害者の名には値しないのだろう。凶悪犯罪の容疑者を精神障害者扱いしたがらないのは、報道というビジネスの邪魔をされたくないことと彼らを有罪にしたいという願望の現れだろうが、このことによって多くの人は「真の狂人」として化物を想像することになる。狂人とはきっと無差別に殺害するような人で特定の人を殺そうとするような人は狂人ではないのだろうか。しかし危険性という尺度も加味するなら、他害性を持つ狂人こそ最も危険だろう。19人を殺して尚自らを正義と信じる植松容疑者が狂人でないのなら、被害者を食べてしまわない限り犯罪者が狂人扱いされることなど殆んどあるまい。狂人と見なすためのハードルが高過ぎる。

痛みの恐怖

2016-08-07 10:20:18 | Weblog
 本能的な恐怖を克服することがいかに難しいか、癌を患ってから思い知らされた。
 私の食道癌が治療不可能と分かった時点で、ごく普通にステントの装着を受け入れた。治療できないのであればできるだけ快適に生活しようと考えた。この時点で死に対する恐怖は殆んど感じなかった。癌と分かった時点で余命の短さは確実なことだからあっけないほど簡単に死を受け入れた。
 私が恐怖を感じたのは死ではなく痛みに対してだった。ステントの装着以来継続する鈍痛に対して私は恐怖を抱き痛みからの解放以外については殆んど考えられなくなった。
 奇妙なことだ。明白な危機である死よりも全く致命的ではない鈍痛になぜ恐怖を感じるのだろうか。理念に過ぎない死よりも五感に訴える痛みのほうが私の感情を揺さぶるからだ。
 ステント装着による鈍痛を解消することは難しくない。軽い鎮痛剤を飲むだけで痛みは消える。しかしこれが真の解決にならないことは分かっている。鎮痛剤は「痛みを鎮める薬」ではなく「痛みを感じる神経を麻痺させる薬」だからだ。実際には存在し続けている痛みを感じなくさせるだけの薬だ。その場を取り繕うだけの虚飾のための薬だ。
 悲惨な事件が頻発していても目と耳を閉ざしていれば知らずに済む。惨劇に直面してもキャ!と叫んで頭を抱え込めば知覚されない。鎮痛剤とはそんな現実逃避のための薬であり薬嫌いの私が特に蔑んでいる典型的な対症療法薬だ。
 私の理性は「現実逃避の鎮痛剤に頼ってはならない。真に恐れるべきなのは鎮痛剤が招く副作用だ」と考え、耐えられるレベルの鈍痛には我慢すべきと判断する。しかしこれは現実的な対応ではない。たかが鈍痛にさえ人は恐怖を覚える。
 痛みに対する恐怖は動物の進化の過程で培われたものだ。痛みは警鐘だ。傷んだ場所を動かさせないように誘導しようとして感情を刺激する。人は痛みに対して恐怖を感じ痛みを解消するためであればあらゆる犠牲を厭わない。
 動作の途中で痛みを感じたら本能的に動きが止まる。このことによって患部が保護される。この行動は脳による指示を待たない反射行動だから脳はこの行動を抑制できない。痛みに対する恐怖は理性以前のレベルで働いている。
 たとえ恐れるに足らない痛みであってもそれは恐怖を伴う。この本能的な恐怖を克服することは決して容易ではない。本能と理性が対立した時、勝つのは本能であり、理性は本能に従事する。理性は本能を制御せず本能に奉仕する。
 たとえ一流のアスリートであっても痛みに耐えて力を発揮することは至難の業だ。痛みを感じる場所に力は入らない。私のようなド素人であれば腹が痛むだけで全身が動きにくくなり思考力まで低下する。理性は痛みが招く恐怖や不安を克服できない。

攻撃

2016-08-06 09:46:17 | Weblog
 「近親憎悪」という言葉がある。懸け離れた人よりも似て非なる人を激しく憎む。なぜそんなことが起こるのだろうか。
 ゲーム理論や行動経済学の入門書には必ず「容疑者のジレンマ」という話が掲げられている。二人の容疑者がどう行動すれば自分の罪を軽くできるかという問いだ。
 どちらの容疑者にも2つの選択肢がある。罪を認めて自白をするか拒絶をするか、だ。両者が自白すれば二人共有罪になる。一方だけが自白した場合、自白しなかった容疑者が不利になる。改悛していないと見なされるからだ。二人共自白しなければ二人共無罪になる。一回限りのゲームであれば自白したほうが有利になることが多い。この状況を上手く利用して自白を奨励するのが「司法取引」という制度だ。元々有利である自白という選択肢を更に有利にすることによって容疑者同士による告発合戦へと誘導しようとする。
 ところが一回限りのゲームでなければ様々な戦略が生まれ得る。このゲームを繰り返した場合、最強なのは「しっぺ返し」と呼ばれる戦略だ。1回目は黙秘を選び2回目以降は相手が前回に選んだ選択肢を踏襲するという単純な戦略だがコンピュータでシミュレートすればこの戦略が最強になる。
 「良い子・悪い子・普通の子」と呼ばれるゲームでも同等の結果が得られる。良い子は平和主義、悪い子は戦闘的という設定だが、当初は悪い子が良い子を駆逐して猛烈に増える。ところがその内、悪い子同士での共倒れが多発してその結果、普通の子が繁栄すると言う。普通の子の戦略は「容疑者のジレンマ」と同様「しっぺ返し」だ。一回限りではない長期的な関係においては「しっぺ返し」が常に最強の戦略とまで言われている。
 ゲーム理論や行動経済学の枠内に留まらず現実においても「しっぺ返し」が最強の戦略と推定され得る。これを最強たらしめるのが裏切り者に対する強硬な姿勢だ。秩序に貢献する者に対する過剰なまでの支援と秩序を破壊する者に対する容赦の無い攻撃によって現実社会において「しっぺ返し」戦略が実現される。獅子身中の虫を許さないことが重要課題になる。集団構成員に対する支援と攻撃は表裏一体であり車の両輪のように働き掛ける。
 群居動物の共感力が異端者に対する排除と矛盾しないのはこんな性質が本能として組み込まれているからだろう。群居性の高い動物ほど集団内の異端者を容赦しない。「良い子」を守り「悪い子」を排除することが本能に組み込まれることによって群居動物の集団の継続的な繁栄が可能になっている。

鈍痛

2016-08-05 09:49:23 | Weblog
 食道にステントを装着して以来、鈍痛に悩まされている。胸部の痛みは所詮鈍痛に過ぎず耐えられない痛みではない。それにも拘わらず総ての行動を拘束する。耐えられる程度の痛みのせいで行動が大きく制約される自分自身に対して憤りを感じる。
 痛みに対する恐怖は本能に基づく。痛みとは警鐘でありそれに従うことは本能に従うということだ。自然治癒力が働くべき時には痛みが生じ、痛みが行動を抑制し、温存された患部は自然治癒力によって治癒される。これが動物に共通する治癒のメカニズムであり本能とも連動している。だから自然治癒力に拠る治癒は本能に従っていれば自然に治る。極力動かないこと、特に睡眠は自然治癒力を活発化させる最も有効な対応だ。
 しかしこれは自然治癒力が有効な場合に限られる。自然治癒力が働かない状態、例えば義足や人工関節を装着する時には、患部を保護すること以上にリハビリが重要になる。痛みに対する本能的な恐怖を克服してリハビリに励んで人工物と同化せねばならない。
 胸部の鈍痛そのものよりも、自分が痛みの恐怖を克服できないという事実が辛い。恐れるべきではない鈍痛を前にして萎縮してしまう自分の非合理性に呆れる。
 痛みが警鐘であることを体は熟知している。だから体は痛みに対して反射的に反応する。尖った物に触れれば脳が痛みを感じる前に動作が止まる。だからこそ大半の怪我が未然に防止される。体は軽微な痛みにも過剰に反応することによって傷の悪化を防ぐ。これは進化を通じて育まれた優れた仕組みだ。
 しかし人工的な痛みを回避していても治癒は起こらない。人工関節や義手・義足あるいはステントの装着などによる痛みに自然治癒力は働かないのだから痛みに慣れねばならない。
 人間は合理的な動物ではない。経済合理性に基づいて生きる「ホモ・エコノミクス」を仮定した時点で経済学は致命的な誤りを犯した。経済学は砂上の楼閣を築くことになった。
 私にとって「自由」よりも群居のほうが心地良いと気付いた時には愕然とした。自分の本性に背く「自由」を求めるよりもたとえ理性を欺くことになろうとも、集団内に自分の居場所を見付けたほうが快適だ。
 痛みに対する恐怖は私にとって「理性の第三の敗北」だ。痛みに対する恐怖を克服できないのなら本能に従ったほうが良い。つまり有害な対症療法に対する屈服だ。
 人は不快感が薄れれば快癒しつつあると錯覚する。これを利用するのが患者を欺く対症療法だ。患者を治療しようとしない偽医者はこれを乱発して患者を楽にするが決して治療をしない。
 しかし自分自身が理性的でないからには、ステント装着についての対症療法を受け入れざるを得ない。たとえ治療効果を伴わない偽医療であろうとも、鎮痛剤による鈍痛の軽減が有効ということになる。この際、対症療法に対する蔑視を捨てて積極的に受け入れるべきだろう。
 流石に毎日鎮痛剤に頼るべきではなかろう。数日間耐えたことに対するご褒美として許容しようと思う。鈍痛の恐怖を克服することは本能を克服することにも繋がるのだが、私はそれを実践できるほどには理性的ではないようだ。

生活習慣病

2016-08-04 09:38:09 | Weblog
 昨年、いつの間にかコレステロールの摂取制限が撤廃された。より正確には、厚生労働省の公式文書から、コレステロールの摂取制限に関する字句が削除された。これがお役所流だ。間違いを認めずにさりげなく抹消することによって無かったことにする。
 今年の5月には糖尿病の基準値が修正され、年齢ごとの基準値が改めて提示された。これは実質的には、従来の低過ぎる基準値を見直すものだ。
 厚労省は間違いとは認めずあくまで新基準と言う。そうやって済し崩しに誤りを抹消する。しかしこれらは次のステップのための布石ではないかと私は考えている。いよいよ来年辺り、本命が見直されると期待している。それは高血圧症の基準値だ。
 高血圧症の基準値はこれまで見直される度に厳しくされた。私が子供の頃は「年齢+90」と言われたものだが現在の基準値は年齢を考慮しないから殆んどの高齢者が降圧剤を飲まされている。
 加齢に伴って血圧が高くなることには生理学的な理由がある。主な原因は動脈に血栓などが付着することによって血管が固くかつ細くなることだ。弾力性のある血管は膨らむことによって血圧を下げるが血管が固くなれば膨らまなくなる。膨らむ余裕の無いタイヤや風船が空気圧を軽減できないように、弾力性の乏しい血管が血圧を高くする。
 年齢を重ねれば血管は細くなる。ホースに水垢が溜まるように血管には血栓が溜まって細くなる。狭くなった血管でそれまでと同量の血液量を流そうとすれば血圧を高めて血流を早めねばならない。高齢者の血圧が高くなるのは障害ではなく脳に充分な血液を巡らせるために必要な適応だ。こんな人の血圧を降圧剤によって下げてしまえばどうなるか?脳に充分な血が回らなくなるから知的障害や運動障害を起こす。血圧を下げられたために知的障害の症状を起こす高齢者は決して少なくない。藪医者はこれを初期のアルツハイマー病と誤診して効きもしないのに副作用ばかり多い認知症治療薬を処方して更に悪化させる。降圧剤をやめるだけで治る医原病であると彼らは考えない。
 三大生活習慣病はそれぞれの専門医の学会が勝手な基準値を設けることによって大量の患者が捏造された。無駄で有害なこれらの偽医療が見直されるだけで高齢者は今よりもずっと健康になり同時に医療費も大幅に削減される。無駄で有害な偽医療の存在を今すぐにでも認めて改めるべきだ。

癌の総括

2016-08-03 09:39:17 | Weblog
 私の癌に対する放射線治療は、1回2グレイで30回行われる予定だったが、食道と肺を隔てる壁に穴が開いて肺炎の症状が現れたために24回で中断された。私としては許容限度まであと6回あるのだから肺炎治療後での再開を希望したが拒絶された。治療を諦めさせられた私に可能な選択肢はステント装着による延命策しか残っていなかった。これは窓の修復を諦めてベニヤ板でその場凌ぎをするような苦渋の選択だ。今更ではあるが治療の経緯を総括しておきたい。
 ①放射線治療は有効・・・全く効果の無かった抗癌剤治療のすぐ後で主治医はステントの装着を勧めた。私は危険を承知で放射線治療を希望した。結果的には、食道と肺を隔てる壁に穴を開けてしまったが、固形物をある程度食べられるまで回復できたことは全治療中で唯一とも言える成果だった。
 ②中断の妥当性・・・心情的にはあと6回だけ可能だった照射を全うしたかったがその効果は限定的で副作用は重大だっただろう。仮に限度一杯の60グレイまで照射しても完治することは無く、食道と肺の間の穴が拡大していただろう。
 ③ステントの装着・・・麻酔薬で眠ってしまったために自分で確認できなかったが、装着はスムーズだったらしい。放射線で癌を小さくした上での装着だから無理をせずに済んだし小さくなった分だけ寿命も伸びただろう。肺に穴を開けてしまったがステントで蓋をするからどうということも無かろう。
 ステントを装着してから嘔吐をしなくなったが、食道には常に不快感がある。気のせいかも知れないが軽い痛みが付き纏う。この痛みは鎮痛剤で簡単に抑えることができるが極力生身の体で耐えたい。
 ④無駄な抗癌剤・・・抗癌剤による治療のために2度入院したものの効果は無く副作用だけが今も残っている。抗癌剤治療のためにほぼ2か月を浪費したことも勿体ない。抗癌剤抜きで、放射線治療からステント装着というコースが一番良かっただろう。他の治療法がハイリスクであるためにローリスク・ローリターンと思われる抗癌剤治療が広く行われているが、実際はミドルリスク・ローリターンなのではないだろうか。癌の治療効果の検証は難しいが、私には精神病・成人病と並ぶ無駄な薬物療法と思える。結果の検証が難しい地震予知研究に山師が集まるように、効果が分かりにくい医療においては怪しい治療方法が温存され易い。

汚染

2016-08-02 09:38:59 | Weblog
 綺麗ごと抜きの話、放射能汚染ほど厄介なものは無い。対処困難な事情が少なくとも3つある。
 ①通常の汚染であれば知覚できる。大気であれ水質であれ何らかの異常を五感によって知ることができる。ところが人体は放射線を知覚できない。ガイガーカウンター等の機器が無ければ存在の有無さえ分からない。
 放射線治療を受ける患者は許容量一杯の放射線を浴びる。それでも放射線を浴びたという実感は全く無い。もし身辺に危険な放射性物質があっても身体に異常が現れるまで気付かれることは無かろう。
 ②除染が難しい。除染できるのは表面に付着した放射性物質だけだ。内部まで汚染された物質は物理的あるいは科学的にどんな手を使っても除染できない。自然に減少するのを待つしか無い。
 ③閾値が不明だ。放射線の影響はその時だけではなく数年後・数十年後にまで及ぶ。だからこれ以上なら確実に危険という条件を設定することは可能であってもこれ以下なら安全という閾値を設定することはできない。安全基準など便宜上定められているだけであり本当にそれで安全かどうかなど分からない。
 このように放射能汚染は現代科学のレベルでは対処できない。福島第一原発の跡地がどれほど危険なのか分からないから、できる限り近付かず、近辺の物にはできるだけ触れないほうが良い。
 では原発跡地は放置するしか無いのだろうか。たった1つだけ利用方法があると思う。それは大規模な太陽光発電所だ。
 何度も書いたことだが私は太陽光発電を余り高く評価しない。面積効率が悪くせいぜい電卓や時計の電源としてぐらいしか利用できない。太陽光パネルを設置した土地は光が届かない死に場所になってしまうから植林のほうがずっと良い。だからまともな土地で太陽光発電をすることは国土の最大級の無駄遣いになる。サハラ砂漠のような使いようの無い土地以外では太陽光発電になど取り組むべきではない。
 原発の跡地は利用不可能な土地だ。だから太陽光パネルで覆ってしまっても構わない。そしてこれが重要なポイントなのだが、電気エネルギーであれば放射能汚染されない。物質である限り放射能汚染を免れることはできないが、エネルギーなら汚染されない。エネルギーであればこそ放射線を伴わずに移送できる。