人類を滅亡に導く要因を挙げたら、戦争と自然破壊と原子力に特定されるだろう。
戦争は局地戦ではなく、核戦争がそれに当る。
しかし、これは、あまりの破壊力により人類滅亡へのシナリオが簡単に描けることから、超大国間の取引で管理された結果、その危機はある程度回避されているといってよい。
一部北朝鮮やパキスタン、インド等、超大国の管理の及ばぬ偶発的な核兵器使用による危機は依然として存在するが・・・・
二つ目の、自然破壊による地球温暖化や酸性雨、各種公害は、その進行が緩慢なことと最近の国際社会全般の危機意識の高まりを背景に、対策が具体化するように見える。
問題は、原子力である。
前項の地球温暖化対策で化石燃料削減策の最右翼として、華々しく再浮上し、いつの間にか原子炉増設論調が一般的になっていた。
原子力発電は商用運転開始当初、夢のエネルギーと謳われた。
2000年前後には車に小型原子炉ユニットが搭載され未来永劫走り続けるのだとか、無尽蔵に発電可能なエネルギーだとか、未来社会の象徴的技術革新といわれていた。
発電用原子炉は2000年には全世界で4000基の稼動を実現するものと計画、夢想されていた。
しかし、しかしだ。
現実には全世界で450基前後に止まっている。
何故だろう。?
実は建設コストと回収利得が見合わないのである。
自然界に存在しない原子を人工的に作り、これを人工的な空間で操作しながらエネルギー利用を図るというものであれば、未来永劫人工的な空間でしか制御できないからである。
現世代が使ったコストを未来永劫、後世代が負担することに繋がるのである。
加えて、スリーマイルやチェルノブイリの経験から、原発事故の破壊力は核戦争にも勝るとも劣らない規模になることが、提起されたからである。
そして、このことを核戦争と同程度に提起され続け、それにも関わらず、それを容認してきたのは我々団塊の世代だったのではないのか?
この度の天災に続く福島第一原子力発電所の大事故の世代的責任は、我々団塊の世代にある。
地球温暖化による自然破壊に続き、人類滅亡も展望される程の事態を導き、放置したのは誰なのだ。
胸を掻きむしるような悔恨の思いで、今私は何が出来るのであろうか?