調停申立に至った理由は以下に整理できる
1 景観権侵害に対する精神的苦痛の賠償
2 景観価値侵害に伴う資産価値低減への賠償
3 相手方利益と申立人不利益の圧倒的不公平 = 非対称
4 公益優先 = 個人の権利軽視 = 民主的意識の希薄 = 広報、説明、合意手続きの不足
1,2項の景観権ということでは、過去の判例等から判断すると、公益性やその他の権益と比較した場合低位の権利として位置づけられるものと考える。 調停の場でも恐らく同様の判断が下されるものであろう。 しかし、申立書でも述べたように、当該地への愛着と向後の人生生活設計を含めた申立人の心情は当該計画を素直に承認できるものではない。
そして、このような申立人の心情にも関わらず、相手方の事業進捗度合いや、計画変更への道程の困難さ及び関係各部門への過大な影響を斟酌した結果としての最大限の譲歩案である塗装彩色さえ採用を拒否する相手方の姿勢は納得しがたいものである。
相手方から示された代替案の”つや消し処理”採用理由に 「国立公園にて採用されている仕様だ」というのがある。当該地域は国立公園などという人里離れた場所では無い。れっきとした人家の隣であり、生活空間なのである。人々が日常的に生活している地域だからこそ、更にその景観を大切にしていくべきなのではないのだろうか。 景観条例に類するものがみなかみ町に無く、国立公園には在っただけであり、何の為の法律、条令なのかである。
法律、条令の意味を全く取り違えているとしか考えられない姿勢である。
3項では、「片方の利益は片方の不利益を生む」事が「当たり前である」と言うのと同義ではないか。
そのようなことが法治国家に存在するものではない。自らの利益ためには他の不利益は考慮に値しないというのでは、まるでヤクザではないか。
相手方担当者の言葉に 「時が経てば慣れるものですよ。今まで経験した人たちが皆そういっていますよ」 とあったが、 "慣れる"ということは、不具合や不快感や圧迫感に "慣れる"ということであろう。
と、言うことは明らかに彼は "不具合や不快感や圧迫感" を前提にしているのであり、そのような不利益を与える事を予め予測知見して今回の工事を強行しようとしているのである。確信犯ではないか。
もっとも、この言葉の持つ残酷さを思う人物なら、こんな言葉は出ないのであろうが。
そして4項である。
工事開始直前になっても求めなければ、如何なる情報提供もしない姿勢に潜む、民主主義を軽視した企業体質を見る。
申立人は民主主義を大切に思っている。そして日本という国は民主主義が確立した国であると思っている。 いや、思っていた。
民主社会とは自立した個々人が自らの構成する共同体に対し、主体的に関与しながら自らと共同体の存立と発展を実現していく社会なのだとおもう。 ここでは、あくまで個々人の自立が前提なのである。
そして、この自立とは個人が主体的に社会に関わり、権利は誰はばかる事無く主張し一方、社会的責任は断固として果たしていくという、日常的に不断の緊張関係の中でしか鍛えられないものだと思う。
「長いものには巻かれてしまえ」「お国がやるんだったら間違いは無い」「国に逆らうのは非国民」
「公益の為には一人くらいの犠牲は当たり前」 など等、自立した個人と民主主義社会にとっては最悪の態度なのではないだろうか。
主体的に社会に関わらず長いものに巻かれてしまい、民主主義を確固としたものにしなかった結果が、原子力発電所の建設や推進を許し、現実の原発災禍を生み出したのが私達の世代なのではないかと言う禍根を申立人は想う。
今回の事案についても、これらの反省と自立した社会人としての責務として看過するべきでないと考えたことから、異議を申し立てるものである。
2011年9月16日
申立人 印