妻が雛飾りを出した。
我が家のは、内裏雛と三人官女のつましいものである。
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娘が産まれたほぼ一年後辺りに、祖父母からの資金提供が有って、内裏雛2体を揃えたものである。
当時は六畳と四畳半のアパート住まいであれば、妥当なところであったのだろう。
それでも高度成長期の走り出した時代だ。
自分達の子供時代には手に入れられなかった分、眩しいばかりの贅沢品であった。
それから、三人官女を揃えたのは娘が中学生になった年であっただろうか!!
家族三人で、岩槻の人形の町で買い求めた物である。
幸いにも娘も縁付いた今、老妻と人形を愛でる陽だまりである。
老妻に厳しく諌められる、左右大臣が欲しいと言う老爺である。
隅っこに固まって寝ていました。
飾りの中では仕丁という小間使いの3人が好き
でした。理由はこの人形だけ人間味ある喜怒哀楽の
表情をしていたからです。他はすましたよそ行きの
冷たい顔をしていたからです。
内裏様を左右どちらに飾るかで姉弟で言い争いをしたのも懐かしい想い出です。
一人娘の為に初めて段飾りを揃えた若夫婦が、近所の子供達を呼んでくれた雛祭りで、人形の眩しさとチキンライスのご馳走に心を奪われた、洟垂れ子供時代が浮かんできます。
子供が多くいて、ご近所さんの付き合いの有った今は昔ですね。
> ひな人形... への返信
確かに使丁は、滑稽な感じの人形でした!
塵取りと箒を手にして、殿上人とは違った身近さが有りました!!
それにしても、すなおかさんの子供時代に段飾りが有ったのは、凄いですね‼️
確かに1941年に生まれた時は、生活に余裕が
あった家庭のようです。しかし私には裕福時代の
記憶はまったくありません。終戦近くに生家があっ
た大森地区は、延焼防止の家屋取り壊しがあり、
強制疎開になり、清貧生活になり、食料難の時代に
入りました。
疎開する際に、生活不用品であった多量の書籍や
SP盤、掛け軸などの骨董に混じって雛飾人形等を
近所の菩提寺に預けました。生家付近は戦災で消滅
したのですが、お寺だけが震災を免れて預けた品を
戦後返して貰いました。
そんな訳で借家の狭い家に段飾りの雛人形があった
わけです。生家は米穀商を営んでおり、店舗用と
住居用に2回線の電話もありました。電話機は疎開
する際にお寺に預けてありました。却ってきた
電話機は、大手町にあった逓信博物館に寄贈しま
したが、逓信博物館も無くなってしまい、電話機は
何処に行ったのでしょうか。