8703の部屋

「ハナマルサンの部屋」です。音楽、スポーツ 世相 等々 気ままに綴ります

私の合唱歴から⑥

2020-04-23 10:05:24 | 合唱

その他、コンクールに関しては、全国大会出場を逃した悔しさが格別なこととして、今でも残っている年度がある。一つは、1981年~庄司寛部長(札幌市、自由曲は「都会」)、もう一つは、1986年~横山琢哉部長(函館市、自由曲は「オンゴーオー二」)である。この2回は、審査員のミスジャッジではないか(笑)とさえ思うほどに自信があった(それがコンクールなんだよね!)。さあ次がある、と言える私でさえ悔しかったのだから、最後の年にかけていた3年生の悔しさはいかばかりか?の繰り返しがコンクールであった。何と言っても、岩見沢東高校合唱部の思い出の一番は、定期演奏会である。1974年~出口敬智部長時代から始まった定期演奏会は、やがて岩見沢市民会館のホールで行うことになり、毎年多くの人に聞いてもらった。そして、岩東合唱部志願の中学生が入部してくれるようになり、部員数最高は84名という年もあった(全校生800名中、約1割が合唱部員)。よい生徒に恵まれた岩見沢東高校での15年間は、たくさんの思い出が残る至福の時であった。

そして、1986年4月、当時の静修短期大学に赴任した。突然の要請に応じたものであり、まさに青天の霹靂であった。要請を受けてから、1週間以内の返答を求められていたので、色々迷いながらも「えいっ、や!」の決断であった。特に、心残りであったのは、当時、2学年の学級担任であったので、彼らの卒業までを全うできないこと、そして、合唱部のことであった。最終的には、いずれは転勤というときが来る。それが今であり、請われて行く幸せを大切にしよう!となったのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の合唱歴から⑤

2020-04-22 09:54:42 | 合唱

1971(昭和46)年から1986(昭和61)年まで、15年間の岩見沢東高校合唱部顧問であったが、ここで歴代部長(生徒)の氏名を調べてみた。(卒業年度順に記載)

1972(昭和47)大嶋恵人、1973(昭和48)小沼聖一、1974(昭和49)出口敬智、1975(昭和50)内田 亮、1976(昭和51)本間 泰、1977(昭和52)宮川 肇、1978(昭和53)菊池 望、1979(昭和54)坂下 徹、1980(昭和55)大橋英明、1981(昭和56)庄司 寛、1982(昭和57)安野信人、1983(昭和58)篠原謙二、1984(昭和59)牧田東一、1985(昭和60)高沢保、1986(昭和61)横山琢哉 の15名である。

それぞれの代ごとに、それぞれ色々な思い出が残っている。その中から、特に印象に残っている事項を挙げてみた。(もし誤りがあれば、お気づきの方お知らせください)

@合宿始まる~1972大嶋部長=1971年の夏休みに、岩見沢市立宝水小学校にて行った。

@定期演奏会始まる~1974出口部長=中学生に聞いてもらうことを主目的に、音楽室で始まった。

@OB会結成~1975内田部長=合唱部支援を目的に結成されて、OB会主催の合同演奏会が市民会館で開催された。なお、同年、NHK合唱コンクール北海道大会で優秀校(銀賞)受賞。

@合唱連盟コンクールに初出場し金賞受賞~1979坂下部長=この年より、Nコン出場をやめて連盟主催のコンクールに出場

@全日本合唱コンクール全国大会初出場(神奈川県民ホール)~1980大橋部長

@高文連全国総合文化祭出場(栃木県)、教育実践功労賞受賞~1983篠原部長

@全日本合唱コンクール全国大会出場(盛岡市)~1984牧田部長

@全日本合唱コンクール全国大会出場(大阪市)~1985高沢部長(銅賞を得る、過去は奨励賞

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の合唱歴から④

2020-04-21 08:40:05 | 合唱

学生生活後半の行事で、忘れてはいけないことを書き落としていた。それは、音楽研究室所属学生有志による道内演奏旅行のことである。1963年の夏休みに、日高、十勝、釧路方面へ演奏旅行を行った。参加者は20名くらいであったが、合唱、独唱、独奏などを中学生、高校生、一般の方々に聞いてもらった。ほとんどの学生が教職を目指していたので、貴重な経験となり、楽しくも有意義な旅行であった。なお、引率教官として新婚ホヤホヤの川越守先生(非常勤講師)が同行してくださったことも、懐かしい思い出である。そして、この旅行を契機に、私とF.義子との交際が始まったのである。

さて、1971(昭和46)年4月からスタートした岩見沢東高校教諭としての生活。30歳という若さゆえか、複数の部活動顧問としての役割が待っていた。音楽部(合唱、吹奏楽)、器楽部(エレキ中心~教師集団からは毛嫌いされていた)、卓球部の掛け持ちであった。合唱部は20名ほどで、前顧問の先生の熱心な指導で生徒の自主性も豊かに感じたので、私は殆ど関与しなかった。むしろ、時々顔を出して様子を観察する期間であった。しかし、決して無関心でいたわけではなく、顧問として、初めて主体的に取り組んだのが合宿であった。着任した年の夏休みに早速実施した。その後、冬休みにも実施することになって、合宿が部活動の重要スケジュールとして定着した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の合唱歴から③

2020-04-20 10:47:36 | 合唱

札幌交響楽団の第九初演は、指揮 荒谷正雄(初代常任指揮者)、ソリストはソプラノ伊藤京子、アルト戸田敏子、テノール布施隆治、ベース中山悌一という顔ぶれで、私の学生生活最後を飾る第九初演であった。1964年(昭和39年)に大学を卒業して、北海道当別高等学校教諭として赴任した。この年に、町立から道立へ移管された新しい学校で、初めての音楽専科教員ではあったが、時数が少ないので英語も担当するという条件での採用であった。確か、音楽6、英語6というコマ数で、英語の予習に苦労した数年であったが、早速、合唱同好会を組織した。しかし、なかなか思うようには成長、発展は出来なかった。そのような中、たまたま学級担任をしたクラス(女子40数名)で、高文練石狩支部大会に出場し、札幌市民会館のステージで合唱ができたことは、生徒と共に良い思い出になった。新任地当別での7年間を終えて、1972(昭和47)年から北海道岩見沢東高等学校での15年間が始まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の合唱歴から②

2020-04-19 11:21:13 | 合唱

20歳からスタートした合唱人生だが、振り返ってみれば大変濃密であったと言える。特に印象深いのは指揮者としての初ステージの緊張感である。場所は旧札幌市民会館、たしか、札幌市民合唱祭のステージであった。ものすごく緊張していて、アッという間に終わってしまった感じだが、静止した時の手は間違いなく震えていたはずだ。その他、グリークラブではトップテナーの一員として、ソロもやらせてもらったり、初心者としては過分な経験をさせてもらった。

ジングアカデミーでは、定期演奏会の他に初のテレビ出演(白黒?)もあった。放送合唱団は臨時団員であり、僅か1年ほどの在籍であった。アポロ男声合唱団は、小樽出身で大学同期の友人A氏から誘われて参加した。アアポロでは、合唱連盟のコンクール全国大会に2度出場できた。1度めは、東京文化会館のこけら落とし事業として行われた大会であり、2度目は仙台大会であった。そして、この時代の画期的なこととして、創立直後の札幌交響楽団演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第九番に出演したことである。もちろん、私自身初めての第九であり、札響にとっても初演奏であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする