電脳くおりあ

Anyone can say anything about anything...by Tim Berners-Lee

オタク市場2600億円?

2004-08-26 08:52:45 | 生活・文化
 朝日新聞(8月24日)の「ネット最前線」に<「オタク」市場、規模は2600億円 野村総研が推計>という記事があった。数字は、以下のようになっていた。
■各分野に占める「オタク」の規模
分野   人口   年間消費額  その市場全体に対するシェア
アニメ  20万人   10万円 13%(200億円)
アイドル 80万人  7.5万円  2%(600億円)
コミック 100万人  10万円 16%(1000億円)
ゲーム  80万人  約10万円 約5%(780億円)
(消費額は1人当たり。野村総合研究所推定)

報告書は、オタクを「特定の趣味分野に生活の時間や所得の多くをかける人たち」と定義。「アイドル」であれば、ファンクラブ組織から中核的な会員を抽出。「コミック」では、同人誌の即売会参加者数や発行部数を参考に愛好者人口を計算した。また、一人ひとりの年間消費額も業界団体などが実施したアンケートや小売店への聞き取りからはじき出した。

 私は、野村総合研究所が「特定の趣味分野に生活の時間や所得の多くをかける人たち」を「オタク」と定義しているのかと思って、野村総合研究所サイトから「オタク層」の市場規模推計と実態に関する調査を調べてみた。すると、こちらは、「オタク」がサブで、「オタク」という言葉は「マニア消費者」という言葉の言い換えとして使われていた。そして、「マニア消費者」の特徴を次のように挙げていた。当然のことながら、元資料の方が面白いデータになっている。
……マニア消費者層はインターネット利用率と情報発信能力が高く社会的影響力が強いことや、関連する分野をまたがり集団を形成していることも明らかになりました。この層は、「独自の価値観に基づいて、金銭および時間を優先的に配分する消費行動」、「自己流の解釈に基づく世界観の再構築と二次的創作活動」、を繰り返しながら、理想像を追求しています。つまり、マニア消費者層は、購買意欲が高いだけでなく、コミュニティー形成の核、次世代技術の革新の場、新商品の実験対象としての価値も高く、近未来の商材を見極める意味で産業的視点からの期待される役割が大きい母集団であると言えます。

 上のように結論づけられた参考資料の「各分野のマニア消費者層の定義と特徴」が興味深かった。「アニメマニア」とは「 TVアニメやOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)、アニメ映画の視聴を日課とするアニメ好きな層」、「アイドルマニア」とは「 特定のアーティストやタレントに対して強いあこがれや共感を持ち、情報収集や応援活動を生活の中で高い優先度で積極的に行う層」、「コミックマニア」とは「 同人誌即売会に参加する、あるいは同人誌を執筆する層」、「ゲームマニア」とは「生活時間のほとんどをゲームに費やしているヘビーユーザー」、「組立PCマニア」とは「文書作成などPC本来の使用目的を忘れ、組み立てる行為が目的化している層」というように定義されている。勿論、それぞれについて、もう少し詳しい、特徴の説明がある。朝日新聞の記事では、最後の「組立PCマニア」は、「オタク」からはずされている。

 なぜこうなったのか。おそらく、朝日新聞の記者は「コンテンツに関連する4分野(アニメ、アイドル、コミック、ゲーム)の産業全体の市場規模は約2兆3,000億円であり、このうちマニア消費層の割合は、金額ベースで11%を占めることになります。」という所に反応したのだ。私なら、「マニア消費者層はインターネット利用率と情報発信能力が高く社会的影響力が強いことや、関連する分野をまたがり集団を形成していることも明らかになりました。」の方に反応する。

 朝日新聞は「オタク」を単なる消費者としか見ていないのだ。私なら、「オタク」は単なる消費者ではなく、社会的影響力の強さのほうを重要視する。「組立PCマニア」という項目は、極端な例のようだが、他のマニアはおそらく、インターネットや情報発信のためのツールなどにも凝っているはずだ。そうすると、この「コンテンツ」に直接関係しない、「組立PCマニア」も「コンテンツ」づくりと何らかの関係がありそうな気がしてくる。

 要するに、野村総研の調査結果を「量的」なものとして捉えるか、「質的」なものとして捉えるかが、分かれ目のような気がする。朝日新聞は、もっと「オタク」をお客さんとして大事にしなさいといっているように見える。しかし、政府のいっている「日本が海外に誇れる強い産業分野」である、「アニメ」や「携帯文化」などが、「オタク」によって、作り出されているということがポイントのような気がする。宮崎駿を「オタク」といわないかも知れないが、彼は本来「オタク」であった。私なら、もっと「オタク」をクリエーターとして大事にすべきだと思う。

 というより、問題は「オタク」ではなく、「コンテンツ」を創造し、享受している層が変化していると考えたほうが良いと思う。「オタク」とか「マニア」とか、要するに「生産と消費」の中心に彼らがいるということは、「生産と消費」そのものが変化してきたということであり、それ以上でも以下でもない。いつの時代でも「ファン」はいるのであり、大量消費社会では、大量に生産されたものは一般大衆が関わり、少量に生産されたもので根強い人気のあるものには熱烈な「ファン」が関わっているのだ。だから、多品種少量生産の時代には、「オタク」とか「マニア」の消費量が割合的には増加する。それとも、「オタク」や「マニア」も、大量に生産されるのだろうか?

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「他人に迷惑をかけない人」

2004-08-25 08:52:36 | 子ども・教育
 23日から27日まで、子ども会のラジオ体操が始まった。ラジオ体操は、毎朝、6時半からで、小学校の通学班ごとにまとまり、小学校の校庭に集まることになっている。妻は、子ども会の役員になっていて、テープレコーダを持って、出かける。最近は、CDが多くなっていてテープを使えるラジカセを持っているところが少ないそうで、我が家のラジカセを持参している。カセットは、学校が貸してくれるそうだ。

 隣の市の小学校へ通っている義理の妹の子どもたちは、夏休みにはいるとすぐラジオ体操があったそうだ。私の家の近くでは、夏休みの終わり頃だ。私としては、子どもの夏休みの生活習慣を見直すという意味でも、この時期にラジオ体操をやるのはいいことだと思う。ただ、残念なことに、私は勤務先が遠く、子どものラジオ体操につきあっている暇がない。

 ベネッセ未来教育センターの「子育て生活基本調査」(幼児版)によれば、「母親は子供の出世や社会的自己実現、個性の発揮よりも、心身や人間関係の健康などの伝統的で素朴なことを望んでいる」として、次のような分析結果を載せている。

……保護者が子どもに期待する将来像は、「まわりの人に思いやりがある、心やさしい人」「体も心も健康な人」が多く、「一流大学を出て、望みどおりの職業につける人」「人の上に立つリーダーシップがある人」は少ない。1997年調査との比較では、「善悪をわきまえ、他人に迷惑をかけない人」が大きく増加し、「自分の意志を主張できて、粘り強く物事に取り組める人」「自分がしたいことや夢を持ち続けて生きる人」が減少した。

 このほかにのいろいろ興味深い結果が掲載されているが、こういう資料のデータの解釈はとても難しい。なぜ、親は、子どもの生き方についてどうでもよくなってしまったのだろうか。バブルが崩壊し、学歴社会の崩壊や、大企業の倒産やリストラなど、個人の力ではどうしようもできない社会不安がそうさせるのかも知れない。

 しかし、私には、子供の将来のことまで、とても考えていられないというか、考えても仕方がないという気持ちがそこにはあるような気がする。あるいは、普段、親のコントロールから外れて、とんでもないことを始める子どもたちへの絶望感のようなものがあるのかも知れない。子供の将来に対して「他人に迷惑をかけない人」になって欲しいなどということを希望するというのは、なんだかとても気の滅入る希望だ。

 「自分がしたいことや夢を持ち続けて生きている人」というのが、46%から36%に減少したというのは、確かに減少したのだが、36%という数字は大きいのか小さいのか。私には、「自分がしたいことや夢を持ち続けて生きている人」が絶対に「他人に迷惑をかけない人」であるかどうか保証はできないが、「他人に迷惑をかけてもいい」と思っているわけではないことは保証できるように思われるのだが。

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ブログと物語

2004-08-24 09:52:32 | 文芸・TV・映画
 インターネットを使って、同人誌をつくるという発想は、すぐに思いつく。もっとも、現実にうまく機能しているかどうかは、よく分からない。それに対して、blogを使って、同じような試みをしたらどうなるか。MAOさんが、「マチともの語り」というご当地文芸サイトを立ち上げて、3ヶ月経過した。とても、面白い試みだと思っていた。しかし、私は、良い読者ではなかった。面白い試みだと思いながらも、読むのが少しつらい。いちばん大きな理由は、時間がないことだ。最近、また見直してみて、MAOさんの提案を読みながら、気づいたことを少し書いておきたい。

……ウェブログという簡易CMSツールはサイト管理の煩雑さを気にせずコンテンツへ集中ができる。コメントやトラックバックというネットワーク機能も装備され、RSS生成は分散したコンテンツを集約するのに使える。つまり、これまでネットで作品を公開できる自由は得たものの、孤立していたアマチュアの文芸サイトの悩みの多くはこれで解決できるということだ。早晩、ネット小説はブログへ移行することは確かだ。

自分自身でネット作家をウェブログで目指すことも数秒考えてみたのだが、それよりも新しい「場」を創るというアイデアの方が面白く感じられた。ではどんな「場」が新しいウェブログ文芸サイトとして可能性があるのだろうか。昨年秋から試行錯誤してたどり着いたのが、「あなたのマチにはもの語りがありますか?」という問いかけであった。


 ここで、MAOさんは、物語のデータベースをつくろうとしているのだろうか。むかし、いろいろな土地で土地に結びついた物語りがあった。民話と呼ばれている。民話は、徹頭徹尾、作者を消していく作業だ。そうすることにより、物語空間を共有していくのだ。まるで、blog同士がコラボレーションをして、新しい物語を紡ぐように。たとえば「電車男」の物語。これを、物語化した作品もある。これは、一種の都市伝説であり、それを元にした小説化である。

 人は、私も含めて、blogにこだわり、なぜ毎日書くこと試みるのだろうか。まるで修行僧のような日課だ。いや、修行僧のように書き続けることができるようになる前に、挫折することのほうが多い。書き続けることは、それだけで大変なことだ。blogに書くということは、普通の日記をつけるのとはほんの少し違う。違いは、公開することとそうでないことの差だ。その差は、とても大きい。不特定多数に向けて、これほど人は、何かを書いてみたいのだろうか。「あなたのマチにはもの語りがありますか?」の中で、MAOさんは言う。

……人はなぜ、こんなにも「もの語り」が好きなのだろうか、誰もが「もの語り」が好きで好きでたまらないらしい。
わたしたちは毎日の暮らしの中で、空気のように、水のように、食べ物のように、たくさんのもの語りを消費しながら暮らしている。

……今では、もの語りはメディアの専売特許のようになっているが、もともともの語りはもっと身近なところにあったはず。ムラやマチといったコミュニティの中だけでなく、祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話がもの語りの原点で、わたしたちは本来、豊かな自分たちのもの語りを持っていたのだ。しかし、近代つまり明治以降は、土地と強固に結びついていた地域社会が解体され、新たな産業という社会の中に人びとを再編成していった。旧弊を打破して、新しい思想を身につけることが奨励され、そのためには多くの国民にそれを伝えるためのメディアが必要となった。出版や放送などはそういった社会的な要請があって生まれたというルーツをもっている。


 blogとは、個人的なものなのだ。いや、今では個人的ということさえ超えているのかも知れない。それは、無数の未知の友人を作ってしまうのだ。その力は、現実の共同体をとっくに超えている。だから、「土地と強固に結びついていた地域社会」の「祖父母から孫へ、親から子へと語り継がれてきた口承としてのお話」をも、それは解体するはずだ。あるいは、解体したところで成立している。

……わたしたちが実感できる暮らしとはコミュニティの中にある。このコミュニティの豊かさというのは、誇りや希望というものでしょう。それは、コミュニティが自らの豊かなもの語りを持っているかどうかということと言えないだろうか。もの語りを持つということは、もの語りを共有するということ。与えられたもの語りではなく、失われたもの語りを取り戻すこと、さらに新しいもの語りを創りだし、共有することで形成されるコミュニティ。

 インターネットが、いや、今ではblogが新しい表現を生み出し、新しいコミュニティーを生み出すことは確かだと思う。確かにそこで新しいコミュニティーができる。しかし、そこで知り合って意気投合した二人が、実は日頃はつきあいを避けてきた隣人同士であることに気づかないということだって起こりうる。

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子どもの夏休みと宿題

2004-08-23 09:42:39 | 子ども・教育
 子どもの夏休みがもう残り10日を切った。私の子どもは、学校の宿題のうち、ドリルだとか漢字の練習とかは、夏休みが始まる前から初め、終業式の日にほぼ終えていた。後は、ホウセンカの観察日記と運動会で使う締太鼓と習字の作品だけが残っていた。締太鼓は少し難しく、これは母親のかなりの協力で作り終わった。習字は書道教室で習っているので、そこからいい作品を選べば終わりだという。すると、残っているのは、観察日記だけだ。それは、時期が来なければ書けない。見事な宿題の消化の仕方だと感心した。

 しかし、本当はやり方が逆なのであって、ドリルとか漢字の練習は繰り返し毎日続けた方がいいに決まっている。不思議なことに子どもはそうしない。なぜそういう順番にやるのか聞いたら、その方が、考えなくてもいいからだという。つまり、早く終えるためにはどうしたらよいかを考えているわけだ。読み書き計算の力をつけるためにはどうしたらよいか、とは考えないのだ。まるで、試験攻略法みたいである。

 妻に言わせれば、このほかに、塾とか習い事とかスポーツの合宿とかがあり、学校の宿題は効率よく消化してくれればそれでよいとのことだ。確かに、塾の学習や毎日のお約束の漢字と計算のプリント、進研ゼミの仕上げなど、やることがいっぱいある。だから、学校の宿題などない方がいいのかも知れない。でも、それではすべての子どもが、同じ家庭環境でなければならない。「宿題は宿題で、やっぱり出すべきよ」というのも妻の主張だ。他の家庭のことにはあまり関わりたくないと思っている妻は、今年、子ども会の役員をやることになり、他の子どもたちのこともそれなりに考えなければならないようだ。

 私たちが会社に通い、時々、家に帰って仕事の続きをやることと、自分たちが学校へ行き、勉強をし、休みなると宿題が出るということとを、同じように考えている。いま、自分たちがやっていることは、将来、大人になったらやらなければいけないことの準備をしているとは考えないようだ。

 私は、昔、文部省で仕事をしていた先生に、「就職したら、『これから勉強します』なんていうべきではない。『今まで勉強をしてきた力を生かして、これからできる限りのことをします』と答えるべきだ。そのために勉強してきたのであり、必要とされたのだから」と教えられた。そういいながら、その先生は、常に向上心を持ち、勉強を欠かさなかったが。

 学校で勉強をするということは、一つの過程であり、子どもから大人になる一つの通過儀礼である。もちろん、近代教育は、国民教育であり、その国の国民に相応しい人材育成の過程として形成されてきた。日本もその例外ではない。いま、日本では、「これからの日本国を背負う人材を育成」するといっているけれども、「日本国を背負う人材」とは何かということが分からなくなっていて、「多様な個性を育成する」というように曖昧になっている。「ナンバーワンよりオンリーワン」というわけである。

 作家の森村誠一さんが、「今の学校教育は、各人の個性に応じた能力を身につけさせることが主眼となっていて、私たちがやってきたような人間形成の場としての機能をはたさなくなっているのではないか」というような意味のことを述べておられたが、今の公教育は、必要な能力さえ身につけさせていないような気がする。どちらかといえば、学力の形成の場は、私立学校や塾が中心になっているような気がする。そして、子どもたちも、そちらのほうに、自己形成の場を求めているような気がする。「学校より、塾のほうが面白い」という子どもの声を、私はどう受け止めたらいいのだろうか。

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P2Pに著作権侵害の責任なし

2004-08-22 10:53:57 | デジタル・インターネット
 この見出しは、ITmediaNews2004.8.20の記事から取ったものだ。これは、「P2P企業はファイル交換ソフトユーザーによる著作権侵害の責任を負わない」とする一審判決が控訴審でも支持されたというだけであり、「ファイル交換ソフトユーザーによる著作権侵害」を許しているわけではない。

……米サンフランシスコの第9巡回区控訴裁は8月19日、P2Pネットワークにはユーザーが犯した著作権侵害の責任はないとの判決を下した。この判決は、1984年のソニー・ベータマックス訴訟で確立された「技術は中立」という原則に基づいた一審判決を支持するものだ。

 これは人気のファイル交換ネットワークにとって強い影響力を持つ勝利となる。その中で裁判所は、確かにP2Pネットワーク上では著作権侵害が起きているが、それを可能にするソフトのオーナー・開発者に侵害行為の責任を負わせることはできないとしている。

 3人の判事による全員一致の判決の中で、シドニー・R・トーマス判事は次のように述べている。「われわれは変化の速い技術環境に生きており、裁判所がインターネットの革新の流れをとどめるのは不適切だ。新技術の導入は、常に古い市場、特に確立された流通メカニズムを通して作品を販売する著作権保有者に破壊的な影響をもたらす」

 この判決が日本のWinny問題にどのように影響してくるか分からないが、著作権の現在を考えさせられる問題ではある。著作権のルールというのは、「他人のつくった著作物を無断利用してはいけない」というものだ。もちろん、「他人」とはどんな人か、「著作物」とはどんなもののことか、「無断利用」とはどういう使い方かなど、難しい問題は沢山ある。日本が最初に著作権法を作ったのは1899年(明治32年)のことである。いずれにしても、「著作権」というのは、近代社会になってはじめて作られた法律である。ベートーベンやモーツアルトは、著作権に守られてすばらしい音楽を作ったなどと言うことはなかった。彼らは、貧しさの中で、死んでいった。

 元文化庁著作権課長の岡本薫さんの『著作権の考え方』(岩波新書)はとても示唆に富む文章だ。「著作権」によく似ている制度として、日本の律令時代の「三世一身の法」(荒地を開墾して田畑をつくった人は、孫の代までその土地を自分のものにできる)という制度を上げている。「自分でつくったものの価値」「保護期間」「インセンティブの付与」という点で、「知的財産権」の特色をうまく説明できている。そこで、岡本さんは、大切なことを言っている。

……知的財産権は「ルール」であって「モラル」ではない──ということにも、よく注意することが重要である。特に著作権については、「著作権を守る心や意識」などというものを持ち出す人が多いが、(「ルールを守る」という心・意識の重要性は当然として)どの程度権利を付与するかということは、モラルではなくルールの問題として考えるべきことである。(P6)

 だからこそ、著作者、業界、利用者のそれぞれで権利に対する利害関係が複雑な関係をつくり、圧力団体ができたり、強いところの権利が認められたりするわけだ。Winny問題も、開発者の金子勇さんが個人的に著作権違反をしていたかどうかは別として、Winnyのようなソフトの開発が「著作権違反者を幇助した」として罰せられるのは馬鹿げている。

……今日では、コピー機が街中に氾濫し、テープレコーダーやビデオ・DVD録画機やデジカメを多くの人びとが持ち、インターネットに接続されたパソコンや携帯端末を、子どもから高齢者まが使う時代になっている。このため、突然にコンテンツの「ユーザー」となった多くの人びとが、「日常生活の中で、他人のコンテンツをうっかり利用してしまい、訴えられる」という危険に直面するようになった。さらに、これらの機器は「他人のコンテンツを利用する」ことにも使えるが、「自分のコンテンツを創作する」ことにも使える。つまり、多くの人びとが、「ユーザー(利用者)」になると同時に、権利を持つ「クリエーター」にもなったわけであり、そのような「一億総クリエーター、一億総ユーザー」という時代が突然に訪れたのである。(p3・4)


 「友達に貸した本を、私に無断で、その友達が勝手に友達の友達に貸した」ということと、「私のメールを、私に無断で、受信者が勝手にその友達に転送した」ということとは、一歩の違いである。前者は、本そのものを貸している。後者は、デジタルのコピーを送っている。それは、大きな違いだろうか。それとも小さなな違いだろうか。それでは、転送ではなく、勝手に持って行った場合はどうなるのか。「私の本や、メールは、友達だったらどうぞ勝手に使ってください」と明記してあればいいのか。もちろん、サーバーにアップすることは、「公衆送信可能化権」というので著作権法上違法である。しかし、それがサーバーでなければどうか。Winnyは、そこで使われる。

 私には、ハイパーテキストという考え方の中に、現在の著作権を越えてしまっていることがあるような気がしてならない。インターネット上では、ハイパーテキストは、HTTPプロトコルによって実現されている。しかし、私たちが使っている言語は、本当はハイパーテキストではないだろうか。私の「実存」という言葉は、サルトルのある本にリンクされている。最近のWeblogの世界は、複雑な関係になっているが、基本的にリンクをうまく使えば、この脳の中の言葉のあり方とほぼ同じことを第三者の前で見せることができる。そうなると、ティム・バーナーズ=リーの「Semantic Web」の世界では、その世界そのものが全ての人の共同の著作物となってくる可能性がある。いわば無数の人たちによってつくられた「共同の著作物」は、誰の許可なくても使えるようになっていなければ、とてもじゃないが使えない。


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