今日も元気で頑張るニャン

家族になった保護猫たちの日常を綴りながら、ノラ猫たちとの共存を模索するブログです。

ノラたちとの共存を目指して 場外編・6「ジレンマ」(猫捨てを補完するノラ保護活動)

2022年07月31日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
前回の場外編5では日本が如何に"猫捨て天国"であるかを改めて訴えました。しかし日本人が命を粗末にするのは何も猫に限ったことではない。ペットと呼ばれる動物はみな、飼い主が動物愛護センターに持ち込めば殺処分だ。森林開発で生活の場を奪われた熊や猪、アライグマなどが街中に出てくれば害獣として殺処分。当県では廃園になった遊園地に放置されたキョンが野生化し、増えたからといって殺処分。お祭りで買ったミドリガメが大きくなったら池に放ち、それが増えたからといって冷凍殺処分を環境省が奨励している。

殺処分にするくらいなら販売禁止にするのがスジではないのか。まず管理放棄を厳罰に処すのがスジではないのか。森林開発に制限条件をつけて野生動物との共存を図ることは、開発区域の住民にとっても必要なことではないのか。自分たちの都合で増えた命、これだけ身勝手に粗末に扱えるのは日本人の特技とすら言える。ロシアのウクライナ侵攻を不条理だと思わない人はいないだろう。相手が物言わぬ動物だったら何をしてもいいのか。ワンニャンと暮らす人にとって彼らは家族と一緒です。人間と関わらないノラや野生動物だって同じ、彼らにも大切な家族がいるのです。

その一方、不幸なノラを救おうと立ち上がる人々も増えて来た。ノラ保護のボランティアさんだ。ボラさんたちは、今いるノラがすべて人に捨てられたかその子孫であることを知っている。ノラたちの不幸、つまり過酷な生活が人によってもたらされたことを知っている。だから単にかわいそうだけじゃなく、贖罪の意識を持っている人も多い。先日のあるブログに、保護した子猫の具合が悪いので調べてもらったらお腹に石ころや木くずが詰まっていたと。飢えに耐えきれずそんなものまで食べて命を落とす。過酷な生活とは、そういうことだ。

わが家に来るノラたちの守り神となった、みう (2019.8.9没)

猫保護のボラ活動には2つのパターンがある。個人と団体だ。個人のボラさんはよほど熟練した人でもない限り、自己資金の範囲内で活動範囲も大きくない。それに対して熟練したボラさんや団体(大抵はNPO法人)は広く寄付を募っている。個人ボラさんが身近なノラの保護を目指しているのに対し、団体の場合はその活動が多岐にわたる。啓蒙活動や役所等への働きかけなど、組織力を生かした活動は団体ならではのことだ。ただ、お金を集め組織が大きくなると、醜聞に出くわすこともままある。ちなみに、このボラさんたちのところには猫(飼い猫)を引き取ってくれとの依頼が後を絶たないようだ。

日本には全国に200を超える猫保護団体があって、その支部を含めればさらに多くなる。個人のボラさんに関する統計値はないが、今や相当な数にのぼることは想像に難くない。さらに地域猫活動に関しては全国すべての市町村が奨励し、推進しているボラさんたちも少なくないのに、どうしてノラの問題は一向に解消しないのだろうか。その理由の一端は、ネット上にある里親募集サイトを見ればわかります。

可愛い子猫の写真とともに書かれた「あと2日」「あと1日」「今日まで」の見出し。それは殺処分の日までの残り日数なのです。飼育放棄で各自治体の動物愛護センターに持ち込まれた猫たち。動物愛護センターとは何の冗談か、昔の保健所のことで持ち込まれた動物は数日後に殺処分される。その前に救おうと、必死になっているボラさんたちがいる。シリーズ前記事にも書きましたが、愛護センターに持ち込む人はまれで大抵は市中や野山、川などに捨てられる。その場合は大部分が生きていけないことになるのですが。

お店に来るノラたちの守り神となった、テン (2019.6.16没)

このシリーズ、いやこのブログで何度も述べて来たペット業界の闇。ブリーダーやペットショップでは必ず売れ残りが出る。小売店である以上それは宿命的なことだ。売れ残った動物を格安で引き取るのが"引き取り屋"と呼ばれる闇の人たち。自治体への報告では「販売」として扱われるのでその数すら把握できない。引き取られた動物(主にワンニャン)は身動きすらできない小さなケージの中で衰弱して死ぬまで放置されるのです。引き取り屋は業界の全てではないが、かなりの部分にはびこっていると考えられます。もちろんれっきとした動物愛護法違反だが取り調べも取り締まりも何故か殆ど例がない。しかしここでも、何とか救い出そうと活動するボラさんたちがいるのです。それだけじゃない。ブリーダーの廃業で残されたワンニャンが保護されたニュースは全国で後を絶たない。最近でも岩手県のペットショップ廃業で残された300匹の猫たちがボラグループに保護された。

ネットニュースによると、今日も長野県で高齢飼い主死亡により残された30匹の猫たちが救い出された。これも毎日のように散見され全国で後を絶たないのが多頭飼育の崩壊だ。最近は100匹を超える大型崩壊も増えて来た。悪意があるわけでも猫にたいする愛情がないわけでもない。しかし今のまま放置してボラまかせでは、ボラさんの手にも限りがあるし、その手から漏れた猫たちはそれこそ救われない。多頭の場合は申告制にして申告漏れには罰則を設けるとか、高齢者には認知症の検査を義務付けるとか、何か手を打つ必要があるだろう。

同じ悪意がないケースとして猫の脱走がある。確かに確信犯的な遺棄とは違うが、引っ越し時の置き去りなど立件し難いケースもある。猫の脱走に関しても、再保護できなかった場合は何らかの責任を問われるべきだと思います。これに対しては今年6月から義務付けられたマイクロチップの装着が将来役に立つ。飼い主さんにとっても愛猫が返ってくる可能性が高まるし、不心得の飼い主は何度も繰り返すだろうから罰則を設ければいい。マイクロチップの普及を早めるには不定期抜き打ちチェックと罰則だ。いずれにしても、そこまでやらないとノラは増えるばかりなのです。さらに言えば、川崎JFE人口島に残されたノラたちの問題や、世界遺産になった奄美でのノラ狩り(当局はノラをノネコ=野生の猫と勝手に判断し駆除を可能としている)等についても大勢の声に耳を傾け、関係者の責任と義務を明確にすべきだろう。

以上のような問題を放置し、何でもかんでも尻拭いをボラさんに任せているのが現状なのです。しかしよく考えてみて下さい。上記のような大仕事は組織だった(NPO等)ボラさんたちの役割になりますが、彼らは本当にそんなことをするためにボラになったのでしょうか。できる範囲内で活動している個人ボラさんと同様、身近にいる不幸なノラたちを救いたい、そう思ってボラになったのではないでしょうか。そんな気持ちに付け込んで、業界や悪意の猫捨ての尻拭いをさせているわけです。だから殆どのボラさんがジレンマを感じているけど、命の優先順位からしてやらざるを得ないのです。これは行政の怠慢も大きい。しっかり取り締まって悪意の猫捨てをなくすだけでボラさんたちが本来のノラ保護活動に専念でき、ノラの数が大きく減少に転じることだって夢ではないのです。ボラさんの数はもうそこまで増えているのだから。

目の前のノラを殺すことではなく(餌をやらない)、人間の悪行を駆逐することによってノラの数を減らす。それが本来の正当な方法ではないでしょうか。

当ブログ現役最古参のニャー

「ノラたちとの共存を目指して」目次  ※予告編(期日未定)含む
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題) 2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち) 2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの) 2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常) 2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」 2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動) 2018.8.31
その7  形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う) 2020.1.31
その8  地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9  理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
その10 最終章「共存の終焉」(ノラのいない社会)
番外編
番外編1「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性) 2019.3.29
番外編2「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質) 2019.10.31
番外編3「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(前編)」(特別加入) 2020.6.30
番外編4「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(後編)」(特別加入) 2020.8.31
番外編5「政治とメディア」(ノラたちの未来を決める人たち) 2021.1.31
番外編6「保護に奔走する人たち」(その2とその6の補足)
場外編
場外編1  猫の煩悩とはこれ如何に 2021.7.10
場外編2  続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~ 2021.7.21
場外編3  どうしてこんなに軽いのか <続・続・死刑に処すべし> 2021.11.10
場外編4  メディア批評、の・つもりが・・(国民の鏡としてのメディア) 2021.11.24
場外編5  社会の闇 (残存する「当たり前のように猫を捨てる文化」) 2022.6.29
場外編6  ジレンマ(猫捨てを補完するノラ保護活動)

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社会の闇 ~残存する「当たり前のように猫を捨てる文化」~

2022年06月29日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
本記事は、「ノラたちとの共存を目指して・場外編その5」となります

ブログ村の新しいカテゴリーに移って初めて本シリーズ記事を書くので、本題に入る前に少しいきさつを説明します。ノラたちとのお付き合いを始めて過酷すぎる彼らの立場に胸を痛め、ある子猫(チビ)の死をきっかけにこのブログを始めました。それから5ヶ月間ノラたちへの知見を深め、本シリーズの全体が見えてきたところで、当ブログの根幹をなすシリーズとして書き始めました。始めた時点で既に「その8」までの道筋は頭の中にできていたので予告。9と10はこのシリーズの華となる章で、当面の目標であるその8を書き終えた時点で追加する予定でした。(※最下段にシリーズ全体記事目次)

最終目標「その10」実現までの必要なステップを列挙し、考えられえる障壁と対応策を案出する。それらに意識して取り組めば、いつしか最終目標に到達できるはずだ。道筋を作るとはそういうことだと考えて、ひとつひとつのテーマについて取り組んできた。しかしそれぞれの下調べに膨大な時間を要し、また時間が経てば世の中の状況も変わって修正の必要に迫られる。そしてついにスタート時の当面の目標だった「その8」を前にして、前に進められなくなりました。

世の中そんなに簡単じゃない。まだまだ、何か大きな壁を見落としている。そんな思いで回り道を始め、追加したのが3年前の番外編です。回り道は昨年も続き、場外編へと移行した。そしてようやく、探し求めていた壁を見つけたような気がします。というより、本当は前から知っていたんですね。それは平均的善良な日本人の、心の中にありました。

店に現れた頃のちび太
(幼猫が単独店まで来るのは無理なので、捨てられたと思われる)

過去記事「動物愛誤と書く諸兄へ」(2021.2.20)の終わりの方で、「(共通の敵は)人間社会の悪しき慣習という巨悪」と書いています。命を尊ばない文化が日本にはまだ残っている。ノラに限らず動物たちと共存を図るとき、最大の障壁となるのがこの文化だ。日本人はペットショップで平気で檻に詰めた命を販売し、それを購入する。猫を殺そうが虐待しようが殆ど罪に問われることはなく、問われても重くて数万円の罰金か執行猶予付きの判決ばかりで、結局無罪と変わらない。どんなに刑罰を重くしても、それが見せかけに過ぎないことは警察司法の姿勢を見れば明白なのです。

それだけではない。多くの日本人が自ら猫を捨てる。普通の人たちが猫を捨てるのです。自分をどんなに信頼している猫でも平気で捨てる。ネットの中にも、自分の周囲にも、この記事を読んでいる皆さんの周囲にもそんな話はゴロゴロしていますよね。普段は注意して読んでいないか、注意して聞いてないだけです。猫を捨てる話は無理して探さなくても無尽蔵にあります。なぜなら、それが日本人の文化だからです。

このおじさんは・・・本文参照

上の写真は昨秋chamiさんがツイッターに投稿したものです。まいどなニュースが転載しました。写真の男性はこの後、淀川新橋という大きな橋の中央で運んできた子猫数匹を川に投げ捨てました。数年ほど前には、猫をトラップに入れて川に投げ捨て、息をしようと顔を水面に向けてもがきながら沈んでいく猫の動画が投稿されたが、警察は動こうともしなかった。長崎をはじめ各地で報じられた子猫をゴミ袋に入れて捨てた事件。猫たちの死は殆ど記事にされない。先日新設した「猫愛」シリーズの初回記事にも書いたように、ノラが幸せになった話でさえこういった残忍な現実が含まれていることが多いのです。

いったいどれだけの件数があるのだろう。ノラの出生数と猫捨て件数(脱走含む)。いずれも調査されたことすらなさそうだが、環境省をはじめとする自治体のオルグの結果、ノラの出生(自然増)ばかりが強調される。しかし番外編3で書いたように環境省の"計算値"はまったく現実を反映していない。(脅しと言えばそうなのだけど、多頭飼育崩壊の防止を目的とする"脅し"としては理解できる。)いずれにしても、いろいろ調べた結果の自分の感覚として、日本における猫捨て件数はノラの出生数に勝るとも劣らないほど多いのではないかと思うのです。

チキン(左)とキリンも捨てられた可能性が高い

本記事を読んでいる人なら、これだけ動物愛護が叫ばれている中で何を言ってるんだと思うかもしれません。しかし動物愛護とか動物たちとの共生とか、そういった意識を持っている人たちは日本ではまだまだ少数派です。多くの人はそんなこと考えたこともなく、いやそれ以前にそもそもリテラシーがない。PCをできないどころか、新聞もテレビ欄しか見ない、テレビもお笑いバライエティ―しか見ない、猫を平気で捨てるのはそんな人たちが中心なのです。

では文化文明の進歩から取り残された人たちなのかと言うと、そうでもない。PCすら使えない日本のIT大臣が世界中の嘲笑を買ったことはまだ記憶に新しいですね。台湾をはじめ諸外国のIT相は自らアプリを開発し、国民をコロナパンデミックから守る手助けをしています。日本で、何か役に立ったアプリはありますか? 能力よりも年功序列の順番で大臣の椅子を待つ。日本の恥部が世界中に知れ渡った瞬間でした。この時の日本の報道を見ていると、まるでお笑い話のネタのような書き方でした。

そうなのです。いわゆる"昔の人"だけでなく、ごく普通の日本人にも「命」とか「動物たち(あるいは他者)の文化を尊重する」という考え、いやリテラシーそのものがないのです。だから警察も司法も動かない。立法府には熱心な人もいるけど、多くの政治家は選挙の票目当てくらいにしか考えてないように思えてしまう。杉本彩さんやクリステルさんのような方たちが啓蒙活動に奔走しても、伝えるべき相手にリテラシーがないのだからそれこそ"馬の耳に念仏"だろう。

ではどうすればよいのか。正直なところ、話が大きすぎて自分でもわかりません。ひとつ言えることは、気付いた人たちが声を挙げ、(法律はあるのだから)警察やメディアを巻き込んで輪を広げていくしかないのかな、と思うのです。

お向かいさんによると、イエチビは町外れに捨てられていた

「ノラたちとの共存を目指して」目次  ※予告編(期日未定)含む
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題) 2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち) 2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの) 2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常) 2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」 2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動) 2018.8.31
その7  形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う) 2020.1.31
その8  地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9  理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
その10 最終章「共存の終焉」(ノラのいない社会)
番外編
番外編1「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性) 2019.3.29
番外編2「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質) 2019.10.31
番外編3「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(前編)」(特別加入) 2020.6.30
番外編4「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(後編)」(特別加入) 2020.8.31
番外編5「政治とメディア」(ノラたちの未来を決める人たち) 2021.1.31
番外編6「保護に奔走する人たち」(その2とその6の補足)
場外編
場外編1  猫の煩悩とはこれ如何に 2021.7.10
場外編2  続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~ 2021.7.21
場外編3  どうしてこんなに軽いのか <続・続・死刑に処すべし> 2021.11.10
場外編4  メディア批評、の・つもりが・・(国民の鏡としてのメディア)2021.11.24
場外編5  社会の闇 (残存する「当たり前のように猫を捨てる文化」)
場外編6  ジレンマ(猫捨てを補完するノラ保護活動)

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メディア批評、の・つもりが・・ (国民の鏡としてのメディア)

2021年11月24日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
本記事は、「ノラたちとの共存を目指して・場外編その4」の位置づけとなります 

先日書いた、JFEの人工島に取り残された1000匹の猫たちの話。
「JFE 人工島 猫」で検索してみて下さい。
Googleで検索すると、53,400件がヒットします。(11/24現在)
しかしこれを時系列で紐解くのは至難の業。今はどうなっているのかが読み取れない。
TNRしようにも食べ物がなく、人も入れないのだからJFEに頼むしかないはず。
ではJFEのコメントは? まさか無視ではあるまいに。
どうぶつ基金をはじめとする大手ノラ保護団体の動きは?

この話だけじゃない。
世界遺産登録を目指していた奄美で野良猫3000匹を駆除する話はどうなった?
あれだけ批判されながら、本当に実行されたのかどうか。
沖縄の名護の公園で2年前から続く地域猫の虐待殺傷事件は?
その都度ニュースになって、無力なボラさんの悲痛な声だけが残る。
警察が乗り出したと報ずるが、その後は報道されず毎回同じことの繰り返し。
このような報道の在り方には、知性も進歩も見られない。

他にもたくさんある。
今や猫の虐待殺傷、遺棄や飼育放棄、多頭飼育崩壊などのニュースを見ない日はない。
しかしそのどれもこれもが、その後どうなったのかわからずじまい。
こういった在り方で、これら報道の目的はなんなのだろう。
殺処分してるくらいだから何をしたっていいだろうと?
犯罪とはいえこれだけやってる人がいるんだから、どんどんやっても大丈夫ですよ。
そう受け取られても仕方あるまい。
テレビも新聞も、雑誌もネットニュースもみな同じ。
だったら人間性だの人間愛だの、そんな偽善に満ちた言葉は金輪際使わないでほしい。

シャッポ (2017年12月行方不明)

と、いろいろ言いたいことはあるけれど、メディアも営利商売。
読み手が多い取材対象に傾くのは致し方のないところだ。
朝~夕のワイドニュースや週刊誌が小室圭さん報道にあれだけ熱心で執拗なのも、
それを扱えば売れる(視聴率が上がる)からに他ならない。
我々一般人が持つ社会正義の感覚とは違うのです。
追われて事故を起こしたダイアナ妃の車に追いついても、助けるどころか写真を撮り漁ったパパラッチ。
取材対象がどうであろうが、"売れる"ことこそ彼らにとっては正義なのだろう。

こう書けば、それは人道上如何なものかと誰しも思う。
でも、問題の本質はもう少し深いように思うのです。
例えば氾濫した川で溺れかけた子猫を救出すべきか、その悲惨さを世に伝えるべきか。
野生界で草食動物が生きたまま食べられるシーンは残虐極まりないけれど、
獲物にありつけず餓死するのは肉食動物の方が多いという。
何かと虐待の対象となる弱きノラたちは、鳥や小動物を殺傷する悪魔の存在でもある。
人道とは。そして正義とは。倫理の問題に正解はないのかもしれません。

だからこそ、これは我々人間ひとりひとりの心の問題なのだと思います。
我々含めてこの地球上に生きる者は、母なる大地が決めた自然の法則には逆らえません。
しかし限りなく発達する人智は、時として自然を超えて神になろうとする。
自然界ではあり得ない快楽目的の殺傷など、その最たるものだろう。
いやノラの存在そのものこそ、命を弄んだ人間の悪行の結果なのです。
政治とメディアの質はその国民のレベルを反映すると言われています。
フランスでは捨て猫が横行し、これではいかんと多くの人々が声をあげ、メディアを動かし、そしてついに政治を動かした。
同国では2024年からペット販売を禁止し、新たな飼育者にも制限を設ける新動物愛護法が可決したのです。

ニャー(右)とシャッポ

このニュースは、本日になって朝日新聞に大々的に報じられた。
1面では法の説明とペットショップ側に寄り添った内容。
3面では動物福祉後進国日本における実情と、業界の抵抗で進まない法改正。
7面では今でも細かな規制が設けられ、さらに進歩する独、英、米の取り組みについて。
いずれの国でも販売可能年齢や販売環境(購入者の飼育環境含む)における頭数、面積、日照、運動(自由度)等について細かく定められている。

JFEの問題も奄美の問題も名護の問題も、この記事を読んでいる人にとっては大問題だけど、日本社会全体から見ればそれは少数派なのでしょう。
だからメディアも口濁しほどしか動かない。
メディアが動かないから、当事者たちも動かない。
勿論それに甘んじることなく声を挙げ続けること。
当の猫たちにとっては、一刻の猶予も許されないのはこれまた事実。
自分の場合は、JFEのみならず当地(川崎)市役所、警察、関連団体、大手保護団体の掲示板や問い合わせを使って声を挙げ続けています。



「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題) 2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち) 2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの) 2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常) 2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」 2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動) 2018.8.31
その7  形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う) 2020.1.31
その8  地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9  理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
その10 最終章「共存の終焉」(ノラのいない社会)
番外編
番外編1「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性) 2019.3.29
番外編2「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質) 2019.10.31
番外編3「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(前編)」(特別加入) 2020.6.30
番外編4「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(後編)」(特別加入) 2020.8.31
番外編5「政治とメディア」(ノラたちの未来を決める人たち) 2021.1.31
番外編6「保護に奔走する人たち」(その2とその6の補足)
場外編
場外編1  猫の煩悩とはこれ如何に 2021.7.10
場外編2  続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~ 2021.7.21
場外編3  どうしてこんなに軽いのか <続・続・死刑に処すべし> 2021.11.10
場外編4  メディア批評、の・つもりが・・(国民の鏡としてのメディア)
場外編5  社会の闇 (残存する「当たり前のように猫を捨てる文化」)
場外編6  ジレンマ(猫捨てを補完するノラ保護活動)

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どうしてこんなに軽いのか <続・続・死刑に処すべし>

2021年11月10日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
本記事は、「ノラたちとの共存を目指して・場外編その3」の位置づけとなります 

前回の「続・死刑に処すべし」(場外編その2)で触れた空気銃による猫殺傷男、平田雄一郎容疑者(千葉市若葉区)に一昨日の8日、判決が下されました。判決は求刑通り懲役1年6ヶ月だったが、3年の執行猶予がつきました。(千葉地裁、岡田豪裁判長)

起訴されたのは確かに猫6匹を殺傷した罪によるが、平田容疑者本人が「数年で猫80~100匹を撃った」と告白している他、熱湯や薬品をかけて虐待した供述もしている。裁判長が「常習性」と認めたのも、これらの供述によるものだろう。にも拘わらず、またしても"執行猶予"だ。

ノラの守り神、みうとテンちゃんが犠牲になった猫たちを弔います

繰り返すが現行動物愛護法においては、家猫や野良猫を殺傷すると懲役5年以内、もしくは罰金500万円以内が科せられる。しかし前回(場外編2)書いたように、これまでの判決では懲役刑はすべて執行猶予付、罰金刑は殆どが10万円以内。これでは無罪と何も変わらない。岡田裁判長は「反省している」と言ったらしいが、どうして断定できるのか。犯罪学的に見ても、個人の欲望や攻撃性を弱い立場の者(例えば猫)に向ける犯罪者は、まず反省しないというのが定説だ。 

日本の警察がなかなか動かない理由がここにある。証拠を集めて苦労して逮捕しても7割近くが不起訴となり、ようやく起訴されても判決がこれだ。猫100匹殺傷してもこんな判決なら、最高刑というのは一体どんな罪に対して科されるのであろうか。動物愛護法を有名無実化しているのは他ならぬ司法なのです。

海外ではどうか。今年の夏、動物愛護先進国のイギリスでネコ16匹を殺傷したスティーブ・ブケイという被告が実刑5年3ヶ月を言い渡された。しかしよく読むと、彼の罪状は動物虐待ではなく器物損壊だった。その方が刑が重いからだとか。それは日本でも同じだという。悩みは各国同じなのかもしれないが、でもいろいろ工夫してこれだけの量刑を言い渡したイギリスは、やはり動物愛護先進国なのだと思います。


店に来るノラたちを天国から見守るテンちゃん(2019.6.16没)

もし司法がちゃんと仕事をしていてくれたなら、それによって警察がやる気を出していたなら、あの2年前の近くの公園(稲毛海浜公園)で起こった同様の猫殺傷事件も、その後に起こった数々の同様事件も、そして今回の事件も、防ぐことができたのではないかと思うと残念でなりません。(供述からして、それらも平田雄一郎の犯罪である可能性は十分にあると思われるので。)

「征服したような高揚感がたまらなかった。」 ただそれだけの理由で命を奪われ、腰を砕かれて半身不随になった罪もない猫たち。猫はみな同じ。一緒に暮らせばきっと心を許せる相棒のようになった猫たちです。こんな悲劇を2度と起こさないために私たちにできることは? それはコメント欄などで声を上げてメディアを動かすことだ。今回の判決もネット含め多くのメディアが報じているが、判決に疑問を投げかけたメディアはひとつもない。

一方ワイドニュースのコメンテーターやネットニュースのコメント欄からは、多くの疑問が聞こえてくる。にも拘わらずメディアが動かないのは、司法への(正式な)批判がタブー視されいるからだろう。司法の判断は言うまでもなく法律に基づくものではあるが、民意と無縁であるわけではない。民意を司法に伝えることも、メディアの大切な役割だと思うのです。

家にやって来るノラたちの守り神となったみう(2019.8.9没)

「ノラたちとの共存を目指して」:予告編(期日未定)
その1  資料編「現状と動向調査」(追記:餌やり、地域猫問題) 2017.2.27
その2  現場編「ノラを守るのに理由は要らない」(報道されたボラさんたち) 2017.5.31
その3  エサやり問題・続編「裁判事例の検証・他」(司法が肯定したもの、否定したもの) 2017.8.31
その4  一服編「ノラだからこそ・・かわいい!」(ニャー&みう+テンちゃんの日常) 2017.11.30
その5  闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」 2018.4.29
その6  原点回帰編「再確認・人間性とは?」(食肉、動物駆除と保護活動) 2018.8.31
その7  形而上学編「ノラの幸せとは」(シャッポやソトチビの行動に想う) 2020.1.31
その8  地域猫問題・続編「殺処分ゼロに向けて」(目的達成のために必要なこと)
その9  理想追求編「殺処分ゼロの先にあるもの」(対等の精神と真の共存)
その10 最終章「共存の終焉」(ノラのいない社会)
番外編
番外編1「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性) 2019.3.29
番外編2「動物愛護の精神を問う」(餌やり議論の本質) 2019.10.31
番外編3「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(前編)」(特別加入) 2020.6.30
番外編4「エサをやるなは殺せと同じ・第3弾(後編)」(特別加入) 2020.8.31
番外編5「政治とメディア」(ノラたちの未来を決める人たち) 2021.1.31
場外編
場外編1  猫の煩悩とはこれ如何に 2021.7.10
場外編2  続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~ 2021.7.21

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続・死刑に処すべし? ~死に体・動物愛護法の復活を期して~

2021年07月21日 | シリーズ:ノラたちとの共存を目指して
本記事は、「ノラたちとの共存を目指して・場外編その2」の位置づけとなります

硬派的なものや過激な話は、気心のやさしい猫好きさんには敬遠される。
かつて「死刑に処すべし」を書いたとき、そうアドバイスしてくれた人もいたのですが・・。
やっぱり我慢できないから書いちゃいます。

平田雄一郎容疑者(49)、千葉市若葉区愛生町、アルバイト。
現在の情報はこれだけ。でもSNSなどでこの男のさらなる情報が追及されている。近々その素性が白日の下にさらされ、この男が社会的に抹殺され、この世から消えてしまうことを切に願っています。この男、100匹ほどの猫を虐待して最近逮捕されました。

主にエアガンによる殺戮ですが他にも熱湯をかけたり薬品をかけたり、殺害の残虐さは尋常でない。被害に遭ったのは公園の野良猫の他、地域猫や家猫。同市内では3年ほど前からいくつかの公園で同様の事件が相次いでおり、関連性も調べられている。同一犯なら数百匹被害の大規模事件だ。供述によると、その動機は「征服した気分になれるから。」

いわれのない理不尽な仕打ち、痛みと苦痛、恐怖と絶望・・どんな思いで猫たちが死んでいったのか。猫と暮らしている人なら知っている。彼らがどんなに平和主義者か、真の家族と呼べるほど気持ちを共有し、情に深いか。もしあなたの子が保護猫なら、あなたの子と殺された子は逆になっていたかもしれない。それほど運命の差は紙一重なのです。

人間が悪いわけではない。そのように話を一般化してはならない。この犯罪者が特別なのだ。アウシュビッツでユダヤの人々を恐怖に陥れ殺害したナチスの狂気。酒鬼薔薇聖斗、宅間守、宮崎勤ら世間を震撼させた凶悪犯罪者の共通点は、過去に猫など動物虐待の経験を持つことだ。ここでは議論を避けるが、快楽目的の性犯罪や虐待嗜好は本質的に治らない。加害者の人権だの更生だのといった抽象議論の対象にすべきではない。安心安全の社会のために、抹殺するしかない存在なのだと思います。

重複になるのでこれ以上の話は過去記事「死刑に処すべし」と「動物愛護とメディア批評」に譲ります。ここでは視点を変えて、猫を虐待した犯罪者が実際にどんな罰を受けたのか調べてみました。まず事件数。まだ資料が一昨年までと古いのしかなく、下図の通りです。



年々増えていることを問題視するサイトが多いですが、自分はこの数字は少なすぎると思います。警察が事件として扱うには何より市民の通報が一番。この数字の少ないことは、通報の数が少ないか犯人を特定し難いことを意味します。実際、虐待は隠れて行われるので目撃されることも少ないのでしょう。検挙数を上げるには市民と警察のさらなる連携が必要です。警察に通報すると住所氏名など個人情報を確認されますが、それは致し方ないこと。一度思い切って最寄りの警察の担当課に聞いてみては如何でしょうか。意外と(失礼!)やさしいですよ。

次に、虐待で捕まった犯罪者がどんな罰を受けたのか調べてみました。ご存じと思いますが動物愛護法は5年毎に改正され、一昨年の改正による厳罰化は昨年6月に施行された。ちなみに、野良猫も家猫も愛護動物として本法の対象動物となっています。
動物殺傷罪:5年以下の懲役又は500万円以下の罰金(旧:2年以下200万以下) 
動物虐待罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
動物遺棄罪:1年以下の懲役又は100万円以下の罰金 (旧:懲役刑なし)
※その他の主な改正
販売可能日齢生後49日から56日へ引上げ(本年6月より)
マイクロチップ装着の義務化(来年6月より)
販売頭数規制(本年6月より・経過処置あり)

さて、違反者の刑罰については環境省が公表した「平成30年度動物の虐待事例等調査報告書 」に要約されています。その内容はこれまで述べてきたこと(※脚注2)と同じでした。まず、逮捕された人のうち67%が不起訴(2017年)。起訴されたのはわずか38人です。刑罰については罰金数万~10万円台が殆どで、懲役刑は全て執行猶予付でした。つまり、動物愛護法を有名無実化しているのは摘発の低さだけでなく、逮捕されても起訴されない、起訴されても法が示すような厳罰にはならない、そういった検察司法の姿勢にもあるのです。

では裁判所は何故こんなに甘い判決しか出さないのか。裁判所や検察の判断は市民の常識をベースにしていることを考えると、それは一般市民がそう思っているからということになる。確かにそうなのです。日本人は全体として、欧米に比べて動物愛護に対する意識がかなり低い。その結果が、先に挙げた甘い判例に繋がっているのです。とりわけメディア関係者の意識の低さが今日の事態を招いている、とも言えると思います。

単なる快楽目的で猫数百匹を無残に殺害した犯人を「死刑に処すべし」という本記事のタイトルを見たとき、過激すぎると思うかどうか。まさに「万死」に値する凶悪犯罪だと思うかどうか。少なくとも、日本人のひとりひとりが動物虐待を憎む意識をもっと高め、このような凶悪犯罪には愛護法の最高刑である懲役5年(執行猶予なし)か罰金500万円が科せられる社会にしたいと思うのです。

※1 参考資料
・動物虐待事件数の推移(2020年3月)時事ドットコムニュース
・動物の虐待事例等調査報告書(平成19年度および30年度版) 環境省
・動物愛護管理法等の改正(令和2年6月1日施行分) 越谷市HP

※2 本記事は、「ノラたちとの共存を目指して」シリーズの以下の記事を補完するものです
・その5 闘魂編「許さない、虐待に不法投棄に暗闇ビジネス」
・番外編・1  「罪と罰」(法の実行と刑罰の妥当性)

「オジン、あまり無理しないでね」

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