記憶は感情と密接に結びついている。
心が大きく動かされた出来事を、人はよく記憶する。
たとえば、2011.311のとき、自分が何をしていたかすぐに思い出せるだろう。
しかし、何事もなく平穏に過ごした日常は、すぐに忘れてしまう。
一日、一日、しっかりと時間は過ぎ去っているのに。
ポール・オースターの素敵な短編小説を、ちょっと短くして紹介しよう。
オーギーは、ブルックリンの街角で小さなタバコ屋を営んでいる。
彼は、毎日朝の7時きっかりに、交差点に立ち、同じ場所の写真を、十年以上撮り続けていた。
オーギーは、作家のポールにこの写真を見せた。
ポールは、こんなに奇妙な物を見たのは初めてだ、と言った。
目もくらむような同じ景色の反復。ポールはパラパラとアルバムのページをめくる。めくってもめくっても同じ景色。
写真を見始めて、何分か経った後、オーギーは突然口を挟んだ。
「それじゃあ、速すぎる。もっとゆっくり見なくちゃわからんよ」
そう言われたポールは、細部に注意を払い、季節が移り変わる様子にも気をつけた。
すると、一日一日のリズムのようなもの、平日の朝の喧騒や週末の静けさなど、微妙な違いがわかってきた。
やがて、写真の中の人々の顔が見分けられるようになった。
毎朝、同じ人が同じ場所を通って、それぞれの人生を生きていた。
そして、彼らのその日の姿勢、歩き振りから、心のなかを読み解くことができた。
ポールはだんだん彼らの物語を想像できるようになった。
もはや退屈ではなかった。
ポールは理解した。オーギーは時間を撮っているのである。
自然の時間、人間の時間、その両方を。同じ空間を撮り続けることによって。
オーギーはシェークスピアのマクベスの一節を暗唱した。
「明日、また明日、時は小刻みな足どりで一日一日を歩む」
いつもの人に「おはよう」といってみる。「おはよう」と返ってくる。
毎日繰り返される何気ない日常だ。
でも、昨日の「おはよう」とは違う。今日には今日の「おはよう」がある。
だから、今日という日を、今この人を、大切にしようと思う。
今日という日が土台となって、明日という未来が作られるのだから。
この短編小説の朗読がYou Tubeにあります。後半はクリスマス・ストーリーになります。
翻訳した柴田元幸さんの朗読です。
25分とちょっと長いですが、よかったらどうぞ。
オーギーレンのクリスマス・ストーリー