ところで、昔から、太宰治の小説がどうしても読めなかった。
たぶん、最後まで読んだのは「走れメロス」くらいだろう。
太宰ファンの人、すいません。
というのも、太宰治はどうでもいいことをネガティヴに悩みすぎなんじゃないかと思う。それが理解できない。
「恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」(人間失格)
三島由紀夫が、太宰治の弱さについて、乾布摩擦でもすれば治る、と言った。僕も同意見だ。僕なら筋トレすれば治る、というけど。
ただ、太宰治の弱さを、真面目に考えてみると、彼は愛着障害なんだとと思う。
愛着障害とは、親との愛着形成がうまくいかなかったときにあらわれる障害だ。
愛着形成とは情緒的な絆のことだ。
それがうまくいかないと、社会性や対人関係に問題が起こる。
僕は、太宰治のようなウジウジしたタイプではなく、石原慎太郎のような男らしい作家が好きだ。
石原慎太郎のテーマはシンプルだ。生命の危機があるとき、男はどう振る舞うべきか、だ。
石原慎太郎は、太宰のような弱さを見せない。
海だったり、山だったり、暴力だったり、そこには生命を脅かす危機がある。男はひるまず戦っていく。そういう強さである。
石原は問う。男らしさとは何か? そしてこう答える。
俺は思う。それは自己犠牲だ。それも、沈黙のうちに行われた、他人への献身のための、自己犠牲だ。それこそが、一番男らしい男らしさだと思う。
言葉はいらない。他人のために、すべての意味で愛する者のために、黙って自らの生命をすら捧げることの出来る、ということ。
かっこいい。パチパチパチ。僕は今でもこの考え方を支持している。
だけど、最近ですが、ちょっとだけ、考え方が変わってきているところもある。
それは弱さについてだ。
つまり、自分の弱さを認め、それをさらけ出すことも、すごく勇気のいることなんじゃないか?
それができる人は強い人なのでないか?ということだ。
弱さは、最大の強みだ。
それを証拠に、弱さをさらけ出した太宰治は、今でもファンが多いし、女性にモテモテだった。
太宰治の家は津軽の大地主だった。そこの6男として生まれる。母親は太宰治の誕生を望まず、生まれてすぐに里子に出した。その後、実家に戻ったが、母親は乳母やお手伝いさんに太宰治を押し付け、自分はまったく世話をしなかったという。
太宰治は、母親を愛し、人一倍、母親の愛を求めたが、それは叶わなかった。
もし自分が太宰のような境遇だったらと思う。そして、太宰治のことを考えてみる。
母親を愛したい、母親にハグしたい、そんな単純なことが拒否された幼少期。愛している人に愛されないことが、どんなに切ないことだったか。
その葛藤が、太宰治の作品に現れている。
人間関係につまづきながらも、人を愛し、愛を求める純粋な魂が、読者のこころを揺さぶるのだ。
太宰治の小説を、最後まで読めず、途中で挫折してしまうが、そういうところは感じる。