何かの本で読んで、妙に記憶に残っている一節。
旅先の北海道の居酒屋で、ひとりの酔客がカウンターの板前に訊いています。
「いまは何が旨いんすかね」 ――そりゃぁ、八角でしょ。
「じゃあ、その八角ください」 ――八角、どうすんの。
「…えっと、じゃぁ、刺身で」 ――八角は焼かなきゃダメでしょ。
どうやらぶっきらぼうな板前さんで、客はあわてて注文を変えます。
「あ、そなんすか。じゃぁ、塩焼きで」 ――塩? 八角は味噌でしょ。
それなら最初から味噌焼きにしてくれよ、と内心憮然としながら、
出てきた八角の味噌焼きをひとくち食べてみて、まるで海のミルクのように豊かな味わいに驚く、
――そんなくだりでした。
その本を読んで以来、いつか食べてみたいと思っていた八角が、目の前にありました。
ちゃんと、味噌焼きでした。
八角というのは、深海魚だそうです。
頭を落として体を横から見ると、スパーンと八角形。だから、八角。
道北の山あい、ひなびた温泉旅館での食事です。
本のなかの酔客のように、感動するというお味ではありませんでしたが、
それでも長年記憶のどこかにあった八角を前に、私は満たされていました。
テーブルは、珍しい八角に、話題が集中していました。
でも、どうも…不評。
「これ、味噌のお味で、魚の味が分かんないわね」
「ほんと。刺身にしてくれたらいいのに」
――ちがいますよ。八角は味噌焼きなんですよ。
そう思いましたが、口にはしませんでした。
八角ではありませんが、最近、深い海の底に潜りこみたくなります。
ふだんの私は、浅瀬にいます。
浅瀬には知っている人が多くて、みんな次々と声をかけてくれます。
それに返事をして、必要な受け答えをして、笑ったり、謝ったり、あれこれしていると日が暮れます。
浅瀬での毎日はにぎやかで楽しい。
けれども、とても息が浅い。
その息の浅さにときどき息切れしたようになり、思いっきり深呼吸したくなるのです。
だから、この連休は、久しぶりに海の底に潜りこもうと決めていました。
金曜日の朝、1日の仕事を終えたらそのまま出かけるつもりで、
3日分の着替えと、読みたかった本の入った大きな荷物を持って、自宅を出ました。
事務所につくなり、ニースでの出来事を知りました。
ニースは私自身、4年前に訪ねたところです。
朝のプロムナードザングレも歩いた、神様に祝福されたように美しい街だった、それがなぜ。
そんな思いのどれもこれも、条件反射の、出来あいの、浅瀬での言葉です。
事件を受けて、今朝からネットとメディアで盛んに飛び交っている大多数の言葉と変わらない。
夜遅く目的地に着き、持ってきた本をベッドで開きました。
昨年11月にパリで起こった同時多発テロで、妻を失ったアントワーヌ・レリスさんの
『ぼくは君たちを憎まないことにした』(ポプラ社)
アントワーヌさんとともに残されたひとり息子は、事件当時、生後わずか17ヶ月。
読みながら、深い海の底に潜っていくような感覚を覚えました。
ぼくは君たちに憎しみを贈ることはしない。
君たちはそれが目的なのかもしれないが、
憎悪に怒りで応じることは、君たちと同じ無知に陥ることになるから。
君たちはぼくが恐怖を抱き、他人を疑いの目で見、
安全のために自由を犠牲にすることを望んでいる。
でも、君たちの負けだ。
ぼくたちは今までどおりの暮らしを続ける。
この一節は、パリでの同時多発テロ後、著者がフェイスブックに投稿したもので、
日本でも紹介されたので、ご存じの方も多いでしょう。
この本にはその前後、テロが発生した夜からの二週間がつづられています。
ほとんどの人は、ぼくを怪しむ。
エレーヌが死んだ時の状況を見逃しているのか、もう忘れたのか、
それとも許したのか、と訊いてくる。
何も許していないし、何も忘れていない、
何も大目に見ていない、しかもこんなに早く何を。
被害を受けた人たちがそれぞれ自分の暮らしに戻っても、
ぼくたちはいつまでもこの事件と共に生きるだろう。
これはぼくたちの物語だから。
拒めば自分を拒むことになってしまう。(中略)
憎しみは犯人の罪を重くすることに役立つかもしれない。
被害を量る裁判のために。
でも、人は涙を数えることはできないし、怒りの袖で涙を拭うこともできない。
相手を非難しない人々は、悲しみとだけまっすぐに向き合う。
ぼくは自分がそういう人間だと思う。
やがて、あの夜何が起こったかをきいてくるに違いない息子と一緒に、向き合おうと思う。
もしぼくたちの物語の責任が他人にあるとしたら、あの子に何といえばいいのだろう?
あの子は答えを求めて、その他人に、
なぜそんなことをしたのかと問い続けなければならないのだろうか?
死はあの夜、彼女を待っていた、彼らはその使者でしかなかった。
元の暮らしにはもう戻れない。
だが、ぼくたちが彼らに敵対した人生を築くことはないだろう。
ぼくたちは自分自身の人生を進んでいく。
一夜明けて、思いました。
世界から失われつつあるのはきっと、潜りこむ深さなのです。
世界の中心が、どんどん浅瀬に上ってきている。、
皆が浅瀬に集まり、浅瀬で言葉を発している。
そこでの言葉に浸っていると、それを自分の考えのように勘違いもしてしまう。
浅瀬で生まれた薄っぺらな言説はメディアとネットを通して世界と仲間うちを駆けめぐり、
自己愛であふれているどころが、むしろ空っぽの体と心に入りこむ。
もっと深く潜らないと。
深いところで、大きく息をしないと。
海の底で生きる八角のように。
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