ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

坂越(兵庫県赤穂市)と奥藤家

2019-03-06 10:18:44 | 日記 地域
「本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に」
江戸時代の酒田の豪商・本間家のことをこう言ったそうです。

先日(3月4日),ふらっと,赤穂市坂越に行ってきました。

江戸時代,
「奥藤家の土地を通るだけで,姫路まで行くことができた。」
(と,坂越まち並み館の職員さん?が言っていました。)
そのくらい,坂越・奥藤家は財力があったそうです。
もちろん,単純に酒田の本間家と比較することはできませんが。


奥藤家

酒屋としての創業は,慶長年間だそうです。
坂越まち並み館の職員さん(以下,職員さん)は関ヶ原のころと言っていました。
江戸時代,坂越は北前船の寄港地となり,
奥藤家は栄えます。
また,赤穂の塩を江戸に運ぶ塩廻船となります。
赤穂の海岸は,塩田があるものの,船を泊める港には不向きで,
赤穂の塩を千種川で坂越近辺まで運び,
大八車に乗せ換え,坂越の港まで運び,
坂越から江戸まで船で塩を運ぶのだそうです。



写真は,文久年間の「長安丸仕切り」です。
これは,「奥藤酒造郷土館」にありました。
こういう史料は,写真を撮りたくなります。

明治になっても,繁栄していた奥藤家。
しかし,明治38年(1905年)塩専売制が実施されます。
翌年には,坂越の塩廻船業は幕を閉じることになります。

でも,めげません。
坂越まち並み館は,大正末期に奥藤銀行坂越支店として開設されたものです。
(写真は,坂越まち並み館)



当時の大金庫が残っています。
(今はぜいたくな物置,と職員さんは言っていました。)

しかし,
戦後の農地改革により,広大な奥藤家の土地は,小作人に売り渡されます。
山川の教科書的に言えば,
「大地主たちは従来の大きな経済力と社会的威信とを
 いっきょに失った。」(山川『詳細 日本史』350ページ)

とはいえ,職員さんによると,
今でも坂越では,奥藤家の土地が多く,
そこに家を建てて住んでいた人が多かったそうです。
しかし,子どもの代になると,
坂越を離れ,都会に出て働き,
親がいなくなっても,奥藤家に地代を払うのはもったいない。
かと言って,
町並み保存のため,
もう住む人がいなくなった家を簡単に壊すこともできない。
かろうじて,
家を壊し,奥藤家に土地を返し,
昔風の家を建てることで,許可されているものもあるそうです。

今,都会で有名なアイスクリームやさんが店を出していて,
休日には,若い人がアイスクリームを食べに来るそうです。

久しぶりに,長々と失礼しました。








コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする