古文書解読実践コース第4回課題が先週返ってきました。
「A」でした。
が,
「解説ノート」にも書かれていますが,
「江戸時代の職人たちの意気込みと
用水完成に心躍らされた人々の姿がいきいきと描かれて」いますね。
読んでいてうれしくなりました。
と感想を書いた割には,
たくさん間違えていました。
第5回課題は,昨日提出しました。
第5回「あなたの声」:錦絵「萬々両札のつき留」
で書いたとおり,
「あなたの声」に
「楽しく課題に取り組めました。」
と書きましたが,
・・・
課題が返ってくるのが楽しみです!?!
さて,
先週金曜日から,
兵庫県立歴史博物館の歴史工房という無料のコーナーで
「新収資料の紹介」をしています。
その中でくぎ付けになった史料は
豊臣秀吉朱印状(刀狩令)〔複製〕です。

原品は島津家文書(国宝)で東京大学史料編纂所が所蔵しています。
この度,東京大学史料編纂所が高知県の楮を用いて復元制作し,
普及用資料として全国の関係機関に配布したものだそうです。
刀狩令については,説明はいらないでしょう。
中学の歴史の教科書では,現代語訳したものが載っています。(部分要約)
高校の日本史の教科書には,(山川出版社『詳細日本史』)
島津家文書ではなく,小早川家文書ですが,解読して載っています。
内容は省きます。
翻刻文は,写真の通りです。
いっしょにみていたある人が私に言いました。
「日付ですが,どうして,天正十六年七月日」となっているんでしょう?
日付けがわからないのなら,「七月」で終わったらいいのにねえ。
でも,このような古文書,よくあるような気がするんですよ。」
教科書に戻ってみましょう。
小早川家文書と島津家文書で微妙に違います。
文面は内容はほぼ同じですが,細かい表記が違います。
小早川家文書の方は,
「諸国百姓,刀,脇差,弓,やり,てつはう・・・」
「等」のあるなし,
漢字と仮名文字の違い
そして最後,
島津家文書は「天正十六年七月日」ですが,
小早川家文書は「天正十六年七月八日」です。
じゃあ,ほかの文書は?日付が書いてないのに,
「日」は書いているのがある?
手元にある
たつの市立歴史文化資料館「秀吉からのたより・脇坂家文書集成」(2016年2月)
をざっと見ると,
古文書100のうち,
全く年月日とも書いていないのが1つ,
年が書いていないのは多数,
17.羽柴秀吉定書は「天正十三年五月日」
51.羽柴秀次条書は「天正廿年正月日」
61.羽柴秀次朱印状は「文禄弐年正月日」
の3つが「・・・月日」。
何か意味があるのでしょうか?
PS.3月26日のNHK兵庫県 NEWS WEBより
織田家臣時の秀吉の検地帳発見
(前略)
見つかったのは、表紙に天正8年10月24日という日付が記された18枚つづりの帳面で、兵庫県内の古文書の収集家の男性がおととし、姫路市の県立歴史博物館に持ち込みました。
博物館によりますと、帳面には▼いまの姫路市四郷町明田を示す地名や、▼耕作地の面積、▼課税できる石高などのほか、当時、織田信長の命を受けて姫路市周辺を治めていた羽柴秀吉の家臣の名前が記されているということです。
このほか、記された面積の単位や税率、身分の表記などから、博物館は、この帳面は秀吉が作らせた検地帳の写しだと発表しました。
博物館によりますと、秀吉が天下統一を果たしたあと、1590年代に作成された「太閤検地」の検地帳は全国で数百点が残っていますが、それ以前の検地帳はこれまでに6点しか見つかっていないということです。
(後略)
これは,10月5日~11月24日の
特別展「お城ができる前の姫路」で一般公開されるそうです。(3月27日追記)
「A」でした。
が,
「解説ノート」にも書かれていますが,
「江戸時代の職人たちの意気込みと
用水完成に心躍らされた人々の姿がいきいきと描かれて」いますね。
読んでいてうれしくなりました。
と感想を書いた割には,
たくさん間違えていました。
第5回課題は,昨日提出しました。
第5回「あなたの声」:錦絵「萬々両札のつき留」
で書いたとおり,
「あなたの声」に
「楽しく課題に取り組めました。」
と書きましたが,
・・・
課題が返ってくるのが楽しみです!?!
さて,
先週金曜日から,
兵庫県立歴史博物館の歴史工房という無料のコーナーで
「新収資料の紹介」をしています。
その中でくぎ付けになった史料は
豊臣秀吉朱印状(刀狩令)〔複製〕です。

原品は島津家文書(国宝)で東京大学史料編纂所が所蔵しています。
この度,東京大学史料編纂所が高知県の楮を用いて復元制作し,
普及用資料として全国の関係機関に配布したものだそうです。
刀狩令については,説明はいらないでしょう。
中学の歴史の教科書では,現代語訳したものが載っています。(部分要約)
高校の日本史の教科書には,(山川出版社『詳細日本史』)
島津家文書ではなく,小早川家文書ですが,解読して載っています。
内容は省きます。
翻刻文は,写真の通りです。
いっしょにみていたある人が私に言いました。
「日付ですが,どうして,天正十六年七月日」となっているんでしょう?
日付けがわからないのなら,「七月」で終わったらいいのにねえ。
でも,このような古文書,よくあるような気がするんですよ。」
教科書に戻ってみましょう。
小早川家文書と島津家文書で微妙に違います。
文面は内容はほぼ同じですが,細かい表記が違います。
小早川家文書の方は,
「諸国百姓,刀,脇差,弓,やり,てつはう・・・」
「等」のあるなし,
漢字と仮名文字の違い
そして最後,
島津家文書は「天正十六年七月日」ですが,
小早川家文書は「天正十六年七月八日」です。
じゃあ,ほかの文書は?日付が書いてないのに,
「日」は書いているのがある?
手元にある
たつの市立歴史文化資料館「秀吉からのたより・脇坂家文書集成」(2016年2月)
をざっと見ると,
古文書100のうち,
全く年月日とも書いていないのが1つ,
年が書いていないのは多数,
17.羽柴秀吉定書は「天正十三年五月日」
51.羽柴秀次条書は「天正廿年正月日」
61.羽柴秀次朱印状は「文禄弐年正月日」
の3つが「・・・月日」。
何か意味があるのでしょうか?
PS.3月26日のNHK兵庫県 NEWS WEBより
織田家臣時の秀吉の検地帳発見
(前略)
見つかったのは、表紙に天正8年10月24日という日付が記された18枚つづりの帳面で、兵庫県内の古文書の収集家の男性がおととし、姫路市の県立歴史博物館に持ち込みました。
博物館によりますと、帳面には▼いまの姫路市四郷町明田を示す地名や、▼耕作地の面積、▼課税できる石高などのほか、当時、織田信長の命を受けて姫路市周辺を治めていた羽柴秀吉の家臣の名前が記されているということです。
このほか、記された面積の単位や税率、身分の表記などから、博物館は、この帳面は秀吉が作らせた検地帳の写しだと発表しました。
博物館によりますと、秀吉が天下統一を果たしたあと、1590年代に作成された「太閤検地」の検地帳は全国で数百点が残っていますが、それ以前の検地帳はこれまでに6点しか見つかっていないということです。
(後略)
これは,10月5日~11月24日の
特別展「お城ができる前の姫路」で一般公開されるそうです。(3月27日追記)
私も古文書講座解読実践コース2回目が戻ってきました。
Aでした。早速、直された所を書き出して復習しています。
先生に「之」がうまく書けません。お手本を示してくださいとお願いしたので、書いて頂きました。
納得でした。次回からそう書いてみます。
3回目に出てくる地名について、「角川日本地名大辞典」で調べてきたので、そのことについて「あなたの声」には書くつもりです。
○月日と書いてるのはよく見かけますが、私も不思議でした。
歴史探偵の気分になれるウェブ小説を知ってますか。 グーグルやスマホで「北円堂の秘密」とネット検索するとヒットし、小一時間で読めます。北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。 その1からラストまで無料です。夢殿と同じ八角形の北円堂を知らない人が多いですね。順に読めば歴史の扉が開き感動に包まれます。重複、 既読ならご免なさい。お仕事のリフレッシュや脳トレにも最適です。物語が観光地に絡むと興味が倍増します。平城京遷都を主導した聖武天皇の外祖父が登場します。古代の政治家の小説です。気が向いたらお読み下さいませ。(奈良のはじまりの歴史は面白いです。日本史の要ですね。)
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。
いつもありがとうございます。
雪花さまも古文書,頑張っておられますね。
古文書の先生は,尋ねればお返事くださるでしょう!?!会話のようで,私の古文書学習の楽しみの一つです。
「〇月日」の件は,また何かわかりましたら,書きます。
昨日の兵庫県ローカルニュースで秀吉関連,検地のことが出ていました。「PS」として追加しています。よかったら読んでくださいね。
私がいつもお世話になっている兵庫県立歴史博物館の学芸員さんが調査しました。(先日,別のことで少し質問がしたばかりの先生です。)秋にはで公開されます。楽しみです。
私は次は「第6回」です。オールAめざして頑張ります。
またお越しください。
私のブログを読んでくださり,ありがとうございます。
以前にも紹介してくださった小説ですね。
私は中世・近世に偏りがちですが,また,読ませていただきます。
上に書いた「天正十六年七月日」について以前に太子町立歴史資料館の田村学芸員(昨年まで館長)が古文書の講座で
「今は,何月何日というと,その日のうちに通達が廻ります。しかし,江戸時代だと,通達を出してから,連絡が廻ってくるまでに日数がかかります。何日に届くかはっきりしません。だから,「何月日」というように,「日」が書かれていないことがあるのです。」というようなことを言っておられました。
ちなみに,この刀狩令では見られませんが,近世文書では,干支が書かれていることが多いです。その理由について,
「今でも,昭和と平成と令和とごちゃごちゃに書かれていたら,え・・・っと,とわからなくなり,西暦で書くでしょ。同じです。元号だといつのことかわかりにくいのです。干支の方は,60年にひとまわりだから元号よりわかりやすいのです。」
今回は干支は書かれていませんが,天正16年は,1588年で,戊子(つちのえ)のようです。
現在,田村先生の古文書講座,受講中!