2016年,Eテレの趣味どきっ!「旅したい!おいしい浮世絵」を見てるんるんしました。
おいしそ~!!
去年,東京に行く途中に静岡で下車し,この「旅したい!おいしい浮世絵」に出てきたとろろ汁を鞠子で食べ,安倍川もちを買いました。
江戸時代って意外といいモノ食べていたんだなあ・・・と思っていました。
が,
今年・・1月5日だったかな?4日だったかな?
たまたまテレビをつけたとき,NHKで「最深日本研究~外国人博士の目~」という番組をしていました。その日は「ラーメンを知りたい」で,イギリスのケンブリッジ大学教授バラク・クシュナーのラーメン研究を紹介していました。この教授が,ある日本人からラーメンに関する伝説を聞いた時,「その証拠はありますか?」と書かれた史料はないかを尋ねていました。テレビは少ししか見ていないのですが,この言葉で,この人の書いた本を読みたい!と思い,早速図書館の予約サイトで予約。
バラク・クシュナー著 幾島幸子訳『ラーメンの歴史学』(2018年)です。
この本,ラーメンにたどり着くまでが長いのです。
古代中央アジアからはじまって・・・
「・・・日本の中世には,全人口のほんの一部を占める上流階級や僧侶は麺を食べたり,新しい料理法を取り入れたりした・・が,ほとんどの国民の「食生活」は,依然として単調で味気ないものだった。(中略)16世紀終盤までの日本は流血を伴う権力闘争が繰り広げられ,社会的にも不安定な状態だった。戦闘の間は,農民は駆り出されて雑兵にされたり,強制労働もさせられたりした。武士は村々を通過するとき,レイプや略奪を行ったり,農産物を好きなだけ奪ったりしたため,農民たちに恐れられていた。」(76ページ)そして,
「徳川一族の支配下で平和な時代が続くようになると,日本の身分制度が確立し,(中略)着るものの色から履物の種類,移動は徒歩か,馬に乗るかなどなど,細かいことを定める法令が次々と出された。食べ物についてもしかりで,どの身分の者はなにを食べてよいか,よくないかということまで決まっていた。1649年に出された法令には,農民は大根,栗,麦,アワなどの雑穀や野菜は食べてもいいが,「米は食べてはいけない」と定められた。農民は米を年貢として納め,武士階級はそれを換金したり食べたりして暮らしていたので,幕府としてはなるべく米を年貢として確保しておきたかったのだ。」(85~86ページ)
私「え?・・・慶安の御触書?・・古いね」と思ったものの,
ネットで調べました。すると,
東北大学創立百周年記念記念事業 平成17年度東北大学付属図書館企画展 江戸の食文化~スローフードのルーツをたどる~
第4部:仙台藩の食と名産品 (2)庶民の食事には,
「藩政時代、仙台藩は米作りに力を入れ、一七世紀に大規模な新田開発を行った結果、米の生産高は約一〇〇万石にのぼった。藩は、経済政策の一つとして「買米制(かいまいせい)」を布き、農民が年貢を納めたあとの余剰米を全て買い上げた。」
「江戸の庶民が普段仙台米を食べているときに、仙台藩の農民の主食は、麦・粟・稗・大根・大根の葉などをいれた「カテ飯」であった。白米だけのご飯は「いっそ飯」または「えっそ飯」と呼ばれ、正月などめでたいときに食べるごちそうであった。おかずは漬物と梅干、それにみそ汁が基本であり、みそ汁には具の野菜をたくさん入れておかずにした。」
浮世絵を見て,江戸時代の一部だけ見て喜んでいた自分の無知が情けなくなりました。
じゃあ,ほかの地域はどうだったの?
農村でも,貧富の差が拡大していっただろうし・・・
私はまだまだ勉強が足りません。
うまくまとまっていませんが,今回はここまで・・・反省・・・
おいしそ~!!
去年,東京に行く途中に静岡で下車し,この「旅したい!おいしい浮世絵」に出てきたとろろ汁を鞠子で食べ,安倍川もちを買いました。
江戸時代って意外といいモノ食べていたんだなあ・・・と思っていました。
が,
今年・・1月5日だったかな?4日だったかな?
たまたまテレビをつけたとき,NHKで「最深日本研究~外国人博士の目~」という番組をしていました。その日は「ラーメンを知りたい」で,イギリスのケンブリッジ大学教授バラク・クシュナーのラーメン研究を紹介していました。この教授が,ある日本人からラーメンに関する伝説を聞いた時,「その証拠はありますか?」と書かれた史料はないかを尋ねていました。テレビは少ししか見ていないのですが,この言葉で,この人の書いた本を読みたい!と思い,早速図書館の予約サイトで予約。
バラク・クシュナー著 幾島幸子訳『ラーメンの歴史学』(2018年)です。
この本,ラーメンにたどり着くまでが長いのです。
古代中央アジアからはじまって・・・
「・・・日本の中世には,全人口のほんの一部を占める上流階級や僧侶は麺を食べたり,新しい料理法を取り入れたりした・・が,ほとんどの国民の「食生活」は,依然として単調で味気ないものだった。(中略)16世紀終盤までの日本は流血を伴う権力闘争が繰り広げられ,社会的にも不安定な状態だった。戦闘の間は,農民は駆り出されて雑兵にされたり,強制労働もさせられたりした。武士は村々を通過するとき,レイプや略奪を行ったり,農産物を好きなだけ奪ったりしたため,農民たちに恐れられていた。」(76ページ)そして,
「徳川一族の支配下で平和な時代が続くようになると,日本の身分制度が確立し,(中略)着るものの色から履物の種類,移動は徒歩か,馬に乗るかなどなど,細かいことを定める法令が次々と出された。食べ物についてもしかりで,どの身分の者はなにを食べてよいか,よくないかということまで決まっていた。1649年に出された法令には,農民は大根,栗,麦,アワなどの雑穀や野菜は食べてもいいが,「米は食べてはいけない」と定められた。農民は米を年貢として納め,武士階級はそれを換金したり食べたりして暮らしていたので,幕府としてはなるべく米を年貢として確保しておきたかったのだ。」(85~86ページ)
私「え?・・・慶安の御触書?・・古いね」と思ったものの,
ネットで調べました。すると,
東北大学創立百周年記念記念事業 平成17年度東北大学付属図書館企画展 江戸の食文化~スローフードのルーツをたどる~
第4部:仙台藩の食と名産品 (2)庶民の食事には,
「藩政時代、仙台藩は米作りに力を入れ、一七世紀に大規模な新田開発を行った結果、米の生産高は約一〇〇万石にのぼった。藩は、経済政策の一つとして「買米制(かいまいせい)」を布き、農民が年貢を納めたあとの余剰米を全て買い上げた。」
「江戸の庶民が普段仙台米を食べているときに、仙台藩の農民の主食は、麦・粟・稗・大根・大根の葉などをいれた「カテ飯」であった。白米だけのご飯は「いっそ飯」または「えっそ飯」と呼ばれ、正月などめでたいときに食べるごちそうであった。おかずは漬物と梅干、それにみそ汁が基本であり、みそ汁には具の野菜をたくさん入れておかずにした。」
浮世絵を見て,江戸時代の一部だけ見て喜んでいた自分の無知が情けなくなりました。
じゃあ,ほかの地域はどうだったの?
農村でも,貧富の差が拡大していっただろうし・・・
私はまだまだ勉強が足りません。
うまくまとまっていませんが,今回はここまで・・・反省・・・
1.定免制
過去数年間における収穫高の平均を基準に一定の期間,一定の年貢量を課す。
→豊作の時は余剰米を蓄えることができ,それを売却して利得を得る条件がうまれる。
定免でも,大凶作の時は,破免(はめん)といって一時的に定免が破棄されることも時々あった。
(太子町立歴史資料館の古文書講座でも聞いたことがあります。「先年永荒」。学芸員の先生は,「江戸時代に実際にどれだけの年貢が取れたかは本当のところはわからない。」とおっしゃっていました。)(・・・ところで,この「余剰米」は誰のものになるのかな?と疑問に・・・小作人にはいかないんでしょうね。)
続けて『大網白里町史(資料グループ)』より
2.石代納と先納金
石代納,つまり,金納
先納金
年貢収穫時より先に領主に米金を納める
(どこかで聞いた・・・年貢は分割して納める・・・太子町立歴史資料館で学んだ史料「可相納丑年年貢米之事」(文化12年)では,「霜月中急度可皆済者也」となっている。)
先に納める・・領主財政の窮乏化による・・この場合利足(利息)をとる。
続きは後日