新しく人が転入して来た場合、その人を職業や企業名で推し測ろ
うとすることがある。へえ、そうなの、そりゃエリートだ!ある
いは新しい同級生について、日本では珍しいクリスチャンだって、
など。よく知らなくてもイメージを抱いて当面評価が落ち着くこ
とになる。
学生の中にスカウトの指導者がいた。私は少年の頃ボーイスカウ
トに好感を持っていたのと、後に指導者になる訓練を受けたこと
があるので、親しみを覚え一種信頼感を抱いた。それは幸い裏切
られなかった。
人の評価を決めるのは一体その人の所属する組織の名前だろう
か、それともあくまでその人の人柄や力量なのだろうか。当然答
えは後者である。
私の場合末日聖徒として生涯暮してきて、最近は教会の周縁部に
徘徊しているような存在で、急進的な批判仲間と往来することが
ある。彼らは舌鋒厳しく教会と教会内部の教徒を批判・非難して
やまない。欺かれた、失望したとの思いは同情の余地があるが、
それでその人物自身の評価が地に落ちるような言動に終始するこ
とがあれば、元も子もない。反モルと称される人たちに時に見ら
れる状況である。(これは私にとっても警めである。)
以前、スタンフォード大で院生であったKK氏は、指導教官(モル
モン教徒)の人柄に感銘を受けて教会に留まる力を得たと述懐し
ていた。教会は経済的自立を勧めているが、精神的によって立つ
ところを確立する点でも、(不信な者の言葉を許していただけれ
ば)依存することなく独立していくことを選んでいかなければな
らない。(この場合モルモン教会を積極的にとらえるか消極的に
とらえるかいずれにしても。)
Yes, We Are ALL Individuals! [Starlisa's photo ]
うとすることがある。へえ、そうなの、そりゃエリートだ!ある
いは新しい同級生について、日本では珍しいクリスチャンだって、
など。よく知らなくてもイメージを抱いて当面評価が落ち着くこ
とになる。
学生の中にスカウトの指導者がいた。私は少年の頃ボーイスカウ
トに好感を持っていたのと、後に指導者になる訓練を受けたこと
があるので、親しみを覚え一種信頼感を抱いた。それは幸い裏切
られなかった。
人の評価を決めるのは一体その人の所属する組織の名前だろう
か、それともあくまでその人の人柄や力量なのだろうか。当然答
えは後者である。
私の場合末日聖徒として生涯暮してきて、最近は教会の周縁部に
徘徊しているような存在で、急進的な批判仲間と往来することが
ある。彼らは舌鋒厳しく教会と教会内部の教徒を批判・非難して
やまない。欺かれた、失望したとの思いは同情の余地があるが、
それでその人物自身の評価が地に落ちるような言動に終始するこ
とがあれば、元も子もない。反モルと称される人たちに時に見ら
れる状況である。(これは私にとっても警めである。)
以前、スタンフォード大で院生であったKK氏は、指導教官(モル
モン教徒)の人柄に感銘を受けて教会に留まる力を得たと述懐し
ていた。教会は経済的自立を勧めているが、精神的によって立つ
ところを確立する点でも、(不信な者の言葉を許していただけれ
ば)依存することなく独立していくことを選んでいかなければな
らない。(この場合モルモン教会を積極的にとらえるか消極的に
とらえるかいずれにしても。)
Yes, We Are ALL Individuals! [Starlisa's photo ]
人を評価しようと言うのは、モルモンに長く居た人の特徴じゃ無いですか?
どうして、人間を評価する必要が有るんですか?
イエスは、「人を愛しなさい」とは言ったけど、「人を評価しなさい」とは言って無いと思いますよ。
これがよい人間、これが悪い人間、なんて自分で決めてしまって、その秤で他人を秤、自分も測る。
モルモンの哀しい性ですね。
自分はあの人たちより立派だ・・・なんて思って生きてても楽しく無いと思うけどね。
ま、私は、豚ですから、評価は脂肪の付き方でお願いしますね。
以前の職場で二名のグループがさんざん悪態をついてきて閉口したことがありましたが、その人物たちの日常的な言動が皆に呆れられて、私は自然に超越できたことがありました。
(私は評価するどころか、そんな余裕はなく恐れながら耐えていただけでした。)
やまない。欺かれた、失望したとの思いは同情の余地があるが、
それでその人物自身の評価が地に落ちるような言動に終始するこ
とがあれば、元も子もない。反モルと称される人たちに時に見ら
れる状況である。(これは私にとっても警めである。)
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この部分が気に成ってしまって。
元モルモンだった人が、「教会内部の教徒を非難する」と言うのは、長年教会に居た為についた癖じゃないかと思うんです。
モルモンの教義そのものが「人間の評価」です。
神は人を行いによって評価する(裁く)と言うのがモルモン信仰じゃ無いですか?
日の栄の最高の位に行く為に、自分はどんな良い行いをしなくてはならないか・・・。といつも考えてしまう。
もちろん、そう言う考えが好きな人が、モルモンに成ったとも言えますけどね。
「自分達は、選ばれた民で、いつも清く良い行いをして生きている、世の人は酒は飲むしタバコも吸うし・・・信仰心の薄い人たちで・・・。」
って、他人を評価する事で、自己の信仰の正当性を訴えてきた・・。
元モルモンの方は、モルモンを去っても、その特質を引きずっているのではないでしょうか?
私はその様に感じます。
なるほど。
昔、「善行に励み、世の模範になれるよう努める」というような言葉を使って、厳しく北海道の先輩SK教授に叱られたことを思い出します。もちろん、今ではそのようなことをたしなめてくださった方に多少近づけています。
その最後に、こう書かれています。
09:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
09:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
09:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
人間は「私は見えている」と思うところに罪が生じるのかもしれないですね。
私は、豚なので、関係ないですけど。