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ジョセフ・スミスの妻エマ・スミスは、晩年夫ジョセフ・スミスが一夫多妻に関する啓示を受けたことも、本人が多妻婚を実施したこともなかった、と証言したことが伝えられている。(Newell & Avery, “Mormon Enigma: Emma Hale Smith.” pp. 298, 301)。1876年パーレー・P・プラットJr. がユタからノーブーを訪れて会見した時も、1879年2月息子で復元末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長であったジョセフ・スミス3世とアレクサンダー・スミスがミズーリからノーブーを訪れて会見し確認した時もそう答えている。プラットが訪ねた時、エマ・スミスは72歳であった。プラットとの問答は次のようであった。
パーレー・P・プラット Jr.: 「ジョセフ・スミスはあなた以外に妻がいましたか?」
エマ・スミス:「私が知る限りいませんでした。」
パーレー・P・プラット Jr.:「ジョセフ・スミスは一夫多妻について啓示を受けましたか?」
エマ・スミス:「私が知る限り受けていません。」
1879年二人の息子が訪れて同様の質問をした時も、「一夫多妻についても、霊的な意味での妻についても啓示はなかった」と答えている。この場面について上に参照した著者は、エマ・スミスは相反する方向に向かう力あるいは要求・期待に応えようとしたと見ている。一つは「事実」に対して矛盾を避けること、もう一つは「息子たち」の期待に添おうとした姿勢であった。
当時、復元教会はユタへ移った群れが行なっていた一夫多妻制を非難し、教会はそのような教えを教えなかったし実施もしていなかった、始めたのはヤングとその仲間である、とRLDS教会内部の見方を固めていたところであった。母エマは息子の立場と信徒からの信頼を考慮して上のように答え、また、事実に矛盾しないように「旧約の族長制婚」「新しくかつ永遠の結婚」という表現は避けていた、と見る。(啓示そのものの中に「一夫多妻制」という言葉はなかった。)
エマ・スミスは年老いていても、洗練された英語で鋭い感性をもって訪問者にしっかり対応していた。面談した者は彼女の教養・知性に気付き、威厳さえ感じたと伝えている。
ただ、ジョセフ・スミスの多妻婚については、1879年トマス・B・マーシュの息子がエマを訪ねて、夫ジョセフが多妻を行なっていたかどうか尋ねた時、エマは耐えることができず、泣き崩れたという。マーシュは彼女が暗に認めたのだと受けとめた。過去の重い影が頭を離れることはなかったのである。
ジョセフ・スミスが一夫多妻を行なっていたことは、エマ自身がそのことで苦しみ、戦ってきたことで否定することはできないし、また、フォーン・ブロディやR.ヴァン・ワゴナーなどの著によって詳述されている事柄である。
なお、「モルモンの謎、エマ・スミス」を著したニューウェルとエィヴリーは、エマが晩年ブリガム・ヤングを始めユタの教会に対して態度を和らげていたと記し、エマ・スミスの波乱と謎に富んだ人生を、親しみと敬意を感じさせる筆致で描いている。
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