![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/19/a5/d112b475904b6b86f28c9fd5dfded044_s.jpg)
[右下がマーテン・ハリス]
私はモルモン書の見証者についてまだ十分資料に当たったというわけではない。ただ、批判的文献に一部、彼らは文字通り肉眼で見たというより、霊的な目で見たという考えが提示されている。その視点が浮上しつつあるように思われる。それで参考資料が限られているが、紹介しておきたい。
それは三人の見証者のひとりマーテン・ハリスが、1838年3月25日、公の場で次のように語ったことが中心になっている。「自分は肉眼ではなく示現でしか版を見ていない。他のふたりの見証者も八人の見証者も同じである。それで署名することを躊躇したが、説得されて書くにいたった。」(話を聞いたスティーブン・バーネットからライマン・ジョンソンへの書簡)。
ほかに、ジョン・ホイットマーも1839年に「天界の力によって記録が私に示された」と言っている。(ジョセフ・スミス「教会歴史」3巻307頁)。これはモルモン書のエテル書5:3に「版は神の力によって三人の者に示される」とあるのに通じる表現である。グラント・H・パルマーは19世紀初頭アメリカで魔術的な意味で遺失物を発見したり、力を借りたりする考え方が生きていた。そういった背景を考慮すべきであろう、今日の常識(理性主義の視点)で読んではならないだろう、と言う。
金版についても見証者が信仰の目で見、示現のうちに手で触れたとすれば、別世界に属するものであって、死海写本の巻物のように物理的に存在する現物を意味しない、とグラント・H・パルマーは見る。他方、ダン・ボーゲルはジョセフ・スミスが家に持ち帰ったり、幾人かの人に布をかぶせて見せたりしていることにふれて、金版と呼ばれるものは彼が作ったものではないか、と述べている。ただ、私には具体的に材質や形状、重量、作り方など詳細にわたって推測し始めれば、逆にその証拠を求められることになって、説明の信頼性が薄らいでいくように思われる。むしろ、金版についても見証者についても「現象学的留保」epoche'の精神で対処すべきではないか、と思う。
参考資料
・H.Michael Marquardt, “Martin Harris: The Kirtland Years, 1831-1870,” Dialogue 35, no. 3 (Fall 2002): 15, 29, 31
・Grant H. Palmer, “An Insider’s View of Mormon Origins.” Signature Books, 2002
・Dan Vogel, “Joseph Smith: The Making of a Prophet.” Signature Books, 2004, p. 98.
・Earl M. Wunderli, “An Imperfect Book: What the Book of Mormon Tells Us about Itself,” Signature Books, 2013
最初の示現もしくは、金版が物体だったのか、啓示だったのか、いくら議論したところで科学では証明されない200年前の伝説のたぐいになるのですが、ジョセフスミスによって回復された救いの計画やいくつかの儀式が、この先100代経とうが教会員の中で不動のものであれば、それで構わないのではないでしょうか。
現役の預言者たちは、ジョセフスミスが神に選ばれた預言者であると熱心に証するけれども、彼が科学者・歴史学者として優秀な人材であったとは証しないし、少々おっちょこちょいの気がなかったとも決して言いません。
ペテロの殉教は立派であることには変わりないけれども、聖書が伝える内容は、彼がやらかした問題行動の数々なのは明らかです。 その上で福音書が伝えている内容は、そんな問題児の彼でさえイエスはお見捨てにならなかったというメッセージになっています。
>結局のところ科学では証明され得ないであろう存在を信じるかどうかなんでしょうね。
とどのつまり、信じるか信じないかの問題ではなく、教会歴史として、回復の手段を個人個人がどう認識して捉えているかの違いだけでしょう。
現役の預言者は、ジョセフスミスが神に選ばれた預言者であると熱心に証するけれども、彼が科学者・歴史学者として優秀な人材であったとは証しないし、少々おっちょこちょいの気がなかったとも言いません。 ペテロの殉教は立派であることには変わりないけれども、聖書が伝える内容は、彼がやらかした問題行動の数々である。
>結局のところ科学では証明され得ないであろう存在を信じるかどうかなんでしょうね。
とどのつまり、信じるか信じないかの問題ではなく、教会歴史として、回復の手段を個人個人がどう認識して捉えているかの違いだけでしょう。
>その人は突然金版とともに消えて,どこに行ってしまったのかは祖母も分からなかった。
そういえば復活したモロナイはジョセフに現れた時にもどこか異次元な振る舞いでした。
結局のところ科学では証明され得ないであろう存在を信じるかどうかなんでしょうね。
荒井由美さんの「やさしさに包まれたなら」を思い出しました。
小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を 叶えてくれた
やさしい気持ちで目覚めた朝は
大人になっても 奇跡は起こるよ
カーテンを開いて 静かな木漏の
やさしさに包まれたなら きっと目にうつる
すべてのことはメッセージ
かれらも、富山の市会議員じゃなくて、モルモンの神権者なら、辞職などせずに済んだろうにね・・・。
そう思うと、涙がちょちょぎれる。
最初から、何も真剣に信じてなった人は、幸せですね。
「すみません、嘘をついて騙してきました」って何故正直に言えないんでしょうかね。
それならまだ救いはある。
NJさんも、ここで話している話を、自分の子や孫やワードに居る宣教師に話せるんですか?
メアリー・ホイットマーの証言には、興味深い特徴があります。
おそらく天使モロナイかと思われるが、その男は彼女に名を明かさなかった。 金版をナップザック様の袋に入れて、背中に背負っていた。 金版を何枚もめくって文字を見せた。 そして金版もろとも突然消えた。 の4つの特徴を伝えているようです。
http://josefusumisu.com/370/%e3%83%a1%e3%82%a2%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%bb%e3%83%9b%e3%82%a4%e3%83%83%e3%83%88%e3%83%9e%e3%83%bc%e2%80%95%e3%83%a2%e3%83%ab%e3%83%a2%e3%83%b3%e6%9b%b8%e3%81%ae12%e4%ba%ba%e7%9b%ae%e3%81%ae%e8%a8%bc
メアリー・ホイットマー―モルモン書の12人目の証人
ある夕方,家の中のいつもの仕事を終えて牛小屋に搾乳に行った祖母は,背中にナップザックのような物を背負った見知らぬ男性にあった。最初は彼のことを怖く思ったが,その人が優しい親しげな口調で話しかけてきて,祖母の家で今行われている業の本質について説明し始めると,祖母は口では表せないような喜びと満足を感じた。それからその人はナップザックの紐をほどき,金版を祖母に見せた。それは大きさや外見はモルモン書の証人がその後に説明したものと一致していた。この見知らぬ人は金版のページを何枚もめくって,そこに彫られた文字も祖母に見せた。その後,彼は重荷を負うことをあと少し忍耐し,忠実であるように伝え,そのようにするならば祖母は祝福され,そしてその報いは最後まで忠実であるならば確実であると約束した。その人は突然金版とともに消えて,どこに行ってしまったのかは祖母も分からなかった。
新約
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/lds/nt-jst/nt.htm
旧約
http://www5b.biglobe.ne.jp/~shu-sato/lds/ot-jst/ot.htm
すみません、オムナイさん、皆さん。
霊感訳聖書をネット上で見たのは上記のurlのいんみ~さんという方のところで読んだの間違いでした。
オムナイサンではありませんでした。
読ませて頂いています。私はオムナイさんの
サイトのJS霊感訳聖書も読んだことが有ります。
オムナイさんがご紹介しましたモアグッド財団
さんの日本語サイトは私が知る限り、全部で四つ有ります。一番上のurlがモアグッド財団さんのです。
http://www.moregoodfoundation.org/websites
http://morumon.com/
http://morumonkyo.com/
http://josefusumisu.com/
http://iesukirisuto.jp/
http://josefusumisu.com/560/女性の証人とモルモン書
(抜粋)
メアリー・ホイットマーは実際に金版を目にした唯一の女性です。
ルーシー・ハリス
ある晩、ハリス夫人の夢に天使が現れて、この御業を止めないようにと注意され、金版を見せられました。
①古き安定した理想の家族のイメージの推進によって、現実的に大きな益を得ている(もちろん古いゆえの不利益もある)
②自立の精神と相互扶助の精神のバランスが良い。
③既存のキリスト教とイエスの教えのずれを立体的に理解する助けになりうる。
ほかにも色々あるだろうけれども、対外的な利益としてそんなものかと思われます。
「福音の原則の中身」は「それがどのような手法もたらせたか」よりも大切で、必要以上に後者に拘泥することは、世間に対して前者を軽んじさせる危険性があると思います。
ジョセフスミスは、木箱に原版があると吹聴しておいて、好奇心に負けた批判者があけてみたら、でかい蛇が突っ込んであって、ビックリさせたというエピソードは、彼の人格の一部を物語っています。
善意であっても、受けた啓示の説明のために、絵や彫刻で実体化させることは良くあることで、ジョセフが協力者を得てイメージのレプリカを作ってもらったとしても不思議ではないでしょう。
モルモン書の八人の証人の証は、ジョセフから実体がある何かを見せてもらった以上の何も語っていませんし、
「この書物もつを手にするすべての国民、部族、国語の民、民族にこのことをお知らせする。わたしたちは、この書物の翻訳者ジョセフ・スミス・ジュニアから、前述の金に見える版を見みせてもらい、またスミス氏が翻訳を終えた部分を手で触ふれてみた。また、その版に刻ざまれている文字も見みたが、それらはすべて、昔のもののようで、入念な造りに見えた。わたしたちは実際に目で見、手で持ち上、今語たっている版をスミス氏が所有していたことを確しかに知っているので、スミス氏がわたしたちに見せてくれたことを謹しんで証するものである。そしてわたしたちは、自分たちが見たことを世の人々に証するために、各々の名を公にする。わたしたちは偽りを言いわない。神がそのことを証される。」
ダン・ボーゲルの説が正しいとしても、彼らが仮にレプリカであることを知っていても、何ら矛盾しない表現によってサインできる文章になっていると思われます。