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私の宗教上の姿勢

2006-02-10 08:48:31 | プロフィール 個人の記録
1 私の宗教上の姿勢

このブロッグのコメントでも友人からのE-メール
でも、私のモルモン教に対する態度が不明である、
あるいは誰を対象にしているのか分からないと言
われることがある。ここに簡単に私の立場を記し
てみたい。

「真理はあなたがたに自由を得させるであろう」
(ヨハネ8:32)という言葉が私の姿勢を表してい
ると思う。この場合、福音書の文脈ではなく、
「真実とか真相、事実、本当」という意味でのこ
とである。知的好奇心を満たし、理屈を知りたい
自分がいた。人は本当のことを知るとき知的地平
が広がり、自由を感じる、と私は思う。

モルモニズム(キリスト教一般の知識を含む)や
聖書(原語の勉強と高等批評学を含む)を学ぶう
ちに、私は信仰者というより研究者に近い姿勢で
リベラルな末日聖徒になっていった。信仰上苦し
い時期を経て今日に至っているが、今も礼拝に出
席することと基本的な戒律を守ることを続けてい
る。

私なりにであるが、聖書関連の語学や日本語の神
学叢書で学ぶほか、ダイアログ、サンストーン誌、
シグナチャ―出版の書籍などを読んで、その結果
今日の私がある。その間、見習いたいと思った人
物(role model)はスターリング・M・マクマリン
元ユタ大学哲学教授であった。彼はモルモン教会
の保守・反動的な面に対して批判的であり、同時
に反モルモンの迫害に通じるような言動に対して
も反対し、信じる群れの敬虔と信仰を尊重する態
度を持ち続けた。

そして、私は日本にいるとモルモン教会に関する
情報が大変限られているのに対して情報を提供し
たいと思い、日本の末日聖徒が置かれている知的・
情報面のアンバランスな状態を正したいという思
いが私を突き動かしてきた。従って私の発言は関
心を持つ末日聖徒が主たる対象であると思ってい
る。


私の発言が矛盾して見えるのは以上の違った側面
が現れるためであり、またもちろんまだまだ十分
な知識や悟りに至っていないためでもある。

2 [私の改宗]
16歳でお兄さん、お姉さんたちに迎えられた高校生      

 私は1958年1月25日西宮支部で改宗しました。当時浜甲子園にあった宣教師の家で家庭集会を受け、まだ高校1年生であった私は素直にジョセフ・スミスの見神、救いの計画などを受け入れることができました。宣教師の明快な説明を喜んで聞いていた私は、バプテスマを受けるまでにモルモン経を読み終えるようにという課題に答えて、西宮で最初の6人の一人として改宗するに至りました。

 今振り返ってみれば、受験校を自任する男子校にいて、末日聖徒イエス・キリスト教会の楽しい雰囲気にひかれたこと(チラシから予感しました)、当時地方部長をしていたアメリカ人宣教師の人柄、それに大阪から応援に来ていた年上の兄弟姉妹たちが暖かく歓迎し、可愛がってくれたことなどが、私を支えてくれたのだと思います。(理屈っぽい部分の私が目を覚ますのはまだ相当後になってからのことでした。)


阪急幼稚園(西宮北口)で 右端が筆者

 また、今思えば当時アメリカなど西欧の文物に人々は新鮮で魅力的なイメージを持って、特に若い世代が多く教会を訪ねてきました。今と同じく英会話がきっかけとなったり、宣教師から声をかけられたりして来ました。私の知人や同級生などが教会にやってきました。
今とは隔世の感がします。

 私は生来楽観的ではなく、神経質なところがありました。今もそうですが、比較的積極的に生きてこられたのは、末日聖徒になってその教えや先輩たちに支えられて無事に成人し、人生を送ってきたからだと思っています。私の教育(ブリガムヤング大学大学院で言語学)と職業(大学で英語、語学教員)は末日聖徒になっていたことと深い関係があります。

 現在幸せなことに11人の孫に恵まれ、彼らはもちろん4人の子供とその連れ合いの親(聖書の言葉で言えば族長)として、直接・間接の影響を与えていることになります。この家族・親族を前に、私が末日聖徒になったこと、そしてこれから末日聖徒として生きていくことの意義と大切さを改めて認識している毎日です。(2010/01/22 高槻ワードニュースに寄せた文)

関連記事 2011/1/18 生涯求道者のモルモン教徒 心境を記す 英文記事の後に邦訳


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8 コメント

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LDSへの迫害 (トゥゲザー)
2006-02-10 09:36:55
NJさんの研究姿勢がモルモン・フォーラム誌

という結果となって表れたのだと思っております。

MF誌は当時の私に知的栄養分を与えてくれた

有意義で新鮮な書籍でした。



マクマリン教授は傑出した人物だと思います。

ところで「反モルモンの迫害に通じるような言動

に対しても反対し」ということですが、

私がこの5年間(以上)、反モルモンやその他の

立場の方との意見交換を通じて思うことですが、

反モルモンはLDS教会を「迫害」しているのでは

なくLDS教会のおかしな部分を「指摘」している

に過ぎないのです。

しかし、LDS教会にはそれらの指摘に耳を傾け

改善していこうという仕組みも姿勢もありません。



またLDS会員には、我等はすでに真理の御霊に

導かれている故に外部の雑音は邪魔、との

思い込みを持つ者や、ウソやゴマカシでも

教会を素晴らしいものと周囲に喧伝することで

伝道しようとする者、LDS教会がおかしな宗教だと

世間に広まったら自分が困るので護教する者、

教会指導者の発言が矛盾していようが間違って

いようが彼らに同調していれば自分が偉く

なったと思い込む者、オカルトと科学の区別が

つかなくなっている者たちがいて、彼らは

外部からの「指摘」を「迫害」だと読み替えて

いるのです。



上記のLDS会員の姿勢と言うのは実のところ教会

側の指導によって作り出されたものなのであります。

その証拠に彼らはみな活発会員で地元教会で

役職を持っています。

ようするに、LDS教会への迫害を生み出し、それを

強めているのはLDS教会自体なのです。



このような仕組みによって発生した以外の

「迫害」の事例があれば教えていただけませんでしょうか?



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Unknown (あんのうん)
2006-02-11 17:10:18
>私の発言は関心を持つ末日聖徒が主たる対象



NJ氏の後を引き継ぎうる人材が皆無。

質的な面で黄昏を感じさせるシンボリックな存在である。

アメリカではこれを食い止めようとする動きもあるようなのだが。

たとえばアメリカで発生したリベラルなものが10年かかって(実際には1世代かかるが)日本に定着しても既に陳腐化し日本モルモンは黄昏に向かってまっしぐらである。

日本モルモンは自ら考える事を放棄した集団。

個人攻撃は大いにやったが教団そのものを非難した事はないがね。



かつての兄弟姉妹そして偶然出会ったモルモン会員を思うと彼らは一見信仰堅固のように見えるがよく見ると地から5cmほど足が浮いており、目は一点を凝視しているようで瞳は細かく左右に痙攣しているように思えた。

AC(アダルトチルドレン)について書いたのはそうした経緯あってのことである。自らの心の問題を解決する糸口を見つけるべきであるのに、信仰という大義名分の下に自らの人格的問題は棚上げして走り回る姿は滑稽である。



>聖書関連の語学や日本語の神学叢書で学ぶ

団塊第二世代の私は恵まれている。

欧米の受け売り神学、誤訳だらのの翻訳書(翻訳者さえ意味を理解していないのではないかと不審に思うほど)から離脱してソースと史学考古学に基づいてスクラッチで記された神学書が手に入る世代だから。

こうした本はまず読む事自体が大変な作業でありモルモン信者として一定の見解を持つこともまた時間と労力のかかる作業である。

しかしこれが学ぶという事のひとつの断面ではないのか?。神学は学ぶだけではなく信仰にも某かの影響はあると思われるが。
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メディアのバッシングが該当? (NJWindow)
2006-02-16 08:31:18
>このような仕組みによって発生した以外の

「迫害」の事例があれば教えていただけませんでしょうか?(トゥゲザー)



マクマリン死去後時間がたっているのと事例について思い当たらなかったためすぐコメントできませんでした。私が思うに、アメリカにおけるマスコミなどでモルモン教会(教義を含む)バッシングとも言える現象が生じた場合も該当するのではないかと思います。



lds教会自体に原因あり、というトゥゲザーさんの指摘は理解できますが、それでもlds側の信教の自由を脅かすように見えることがあれば、問題があるのではないでしょうか。言論の自由との問題に突き当たるのでしょうか。



以前、香港神殿の公開の時、列に並んでいましたら、北欧から反対者が来てビラを配っていました。私はそれこそ余計なお世話だと感じたことでした。地元の中国人が運動を起こすのであれば別ですが。



近頃、キリスト教書店で反モル文書をあまり見かけないように感じています。私はそれを自然な方向(状態)と受け止めています。









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黄昏?次世代は? (NJWindow)
2006-02-16 08:54:36
-> アンノウンさん



日本のlds教会は黄昏時期にある、という観察は当たっているかもしれません。私も寂しく思うことがありますし、ある意味トゥゲザー氏などの見方(指摘)も同列に連なるのかもしれません。



私自身が年齢や活動の面で「黄昏」時にさしかかったのではないか、と言われたことがあったように思います。そうかもしれないと自他ともに認める境地にあります。



> NJ氏の後を引き継ぎうる人材が皆無。

質的な面で黄昏を感じさせるシンボリックな存在である。



確かに孤独を感じます。しかし、必ずしも悲観的ではありません。教会が提供する以外の情報も認識しつつ、割合弾力的に成熟した信仰実践をする世代が育っているのを身近に感じています。



今や神学や聖書学になじむ必要はそれほど切実ではなく(キリスト教大学からも学部やカリキュラムが消滅している)、違った分野で博識かつ鋭利な宗教理解を示している若い世代の登場を心強く思っています。



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モルモンへの迫害? (トゥゲザー)
2006-02-19 23:29:30


>事例について思い当たらなかったためすぐコメントできませんでした。



ないでしょうね。私も思い当たりません。

ではなぜNJさんは以下のようにお書きになったのでしょうか?

「反モルモンの迫害に通じるような言動に対しても反対し」

事例も思いつかぬままお書きになったのでしょうか?





>私が思うに、アメリカにおけるマスコミなどでモルモン教会(教義を含む)

>バッシングとも言える現象



そんな現象ありませんよ。

公民権法が施行された後も黒人差別教義を続けていたモルモン教会

への風当たりが強くなった時期がありましたが、そういうのはモルモン・

バッシングではないでしょう? ではいったいマクマリンはどのような

迫害に抵抗したのでしょうか? 

いえ、そもそもマクマリンの時代に迫害なんてありましたか?



モルモン会員の中には、伝統的キリスト教会が

「私達はモルモン、エホバの証人、統一教会とは一切関係ありません」

と表記しているのを「迫害だ」と甚だしい思い違いを口にする人たちが

います。



自分たちが伝統的キリスト教に対してとってきた態度を棚上げして

こうした理不尽な言いがかりをつけ、「教会の敵」を自ら生み出し、

ありもしない「迫害」を作り上げています。



カルト宗教は、教団外部に「敵」がいて、「迫害を受けている」こと

にすることが多いようです。

これは、教団側(宗教団体としてではなく、組織幹部の利権)

にとって都合の悪い情報や評価、批判などが流入するのを防ぐため、

会員と外部の交流を遮断するためのもっともらしい口実となります。

返信する
マクマリンの態度は確実 (NJWindow)
2006-02-20 00:59:13
> 反モルモンの迫害に通じるような言動に対しても反対し」事例も思いつかぬままお書きになったのでしょうか?



マクマリンが教会を批判すると同時に教会に対する批判を越えたものに対しても発言したことはよく知られていたからです。事例については、いくらもあると思いますが、文献を調べる余裕を得ていません。(今やダイアログ誌もサンストーン誌も数十年分があちこちにたまっています。)



教会に対する厳しい指摘を理解できますが、・・



渦中からの声と第三者的視点と。日本でも、宗教学会やアメリカ学会などでは、少し距離を置いてモルモンに対する理解ある視点に接することがあります。(実際英語教育に携わる学者からそのような声をかけられたことがあります。)

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Unknown (あんのうん)
2006-02-20 02:52:37
迫害という用語は日本モルモンでも慣用句化しておりスピーチで祈りの言葉で嫌になるほど聞かされたが歴史の共有がないにも関わらず迫害者意識だけは共有する。

おかしいではないか。

日本モルモンは「迫害」を使い過ぎる。

某学会員が「仏罰」という用語を多用しすぎて顰蹙(ひんしゅく)をかっているのにも似ている。

迫害と自ら招いた摩擦をきちんと認識できないという事は分別がないという事である。

つまり言葉に繊細さがないという事は分別がないという事である。

以前もAC(アダルトチルドレン)はBS(ベーシックセキュリティ)の欠如の結果であると書いた。

私には忠実な聖徒であるためにはBSを確立しない事が第一条件であるようにさえ思える。



キリスト教、私が知る範囲、プロテスタントの狭い交友の限りでは他教排斥に何の興味もない世代への交代があるやもしれぬ。

彼等はむしろ妥協でなければ排斥でもない互いに在り合う事に価値を見出している。

あくまで私の目の届く範囲での所感であるが。

私にはこれが教団本位の信仰から個人本位の信仰にシフトしつつあるように思える。

教団側は大変である。



>神学や聖書学になじむ必要はそれほど切実ではなく

私はモルモンとの絶縁に成就してまず浮いた什分の一を日本の神学者の(それも出来る限り海外の流行とは一線を画した人物の)神学書の購入に充てた。

インスティチュートテキストがあまりにも出来が悪い代物だったからである。

実際神学書を読んでからますますその想いは強くなった。

ただ、神学を専門としない限りこの手の書物に深入りする余裕も興味の持続も不可能であることは実体験からの感想である。

ちなみに昨今では神学者はただその職にあるからといって敬愛の対象には全くなりえないようだ。
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Unknown (あんのうん)
2006-02-21 06:48:12
>歴史の共有がないにも関わらず迫害者意識だけは



迫害者意識→被害者意識

の誤りです。
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