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過去の拙速伝道の数々の行きすぎた伝道方法は、日本人に対して礼を欠くものであった。1970年代末から1980年代初めにかけて日本で行なわれた拙速伝道について、フェイスブックのあるグループで最近改めて真剣に意見が交換されている。これまでこのブログでも取り上げてきたが、次の点について指摘しておきたい。
あの当時東京南伝道部で、まだ若い未成年を強引に勧誘しバプテスマを受けさせたことは、日本の良識ある成人(親や教育者、マスメディア)が憂慮したことであった。それは日本の市民に対して礼を欠く行為であり、当事者である青少年や若者の人権を尊ぶべきではないかという観点から言っても、度を過ぎた逸脱行為であったと私は観ている。術語的に言えば、青少年に対するabuse, すなわち「外国人で宣教師であるという立場を日本の青少年に対して誤用・悪用した」、ケースであった。(abuse は「虐待」とも訳される。)
また、法的に言えば、「特定の宗教の礼拝・宗教活動への参加を強制されない自由(消極的自由)」と呼ばれるものに関わってくる。私はこの自由をあからさまに無視したケースであり、無辜の青少年の人権を侵害したと言われても仕方がないと思っている。言い換えれば、勧誘される側の信教の自由、自己決定権に対する重大な侵害であり、カルト視される懸念があった。
(また、敬虔な信徒にとって、あるいは神格者にとって神聖な教えをこのように安易に扱うことは侮辱であったことであろう。また、「伝道」という使命、あるいは意義から見ても、またバプテスマの儀式執行の権威、すなわち神権に対する冒涜ではなかっただろうか。真面目な信徒が深く憂慮し反対した所以である。)
参考:世界人権宣言 20項-2など。
もし神によって導かれている教会ならば、人間的な間違いがあっても、それらも含めて神によって導かれていることになるのではないでしょうか。
しかし、人間が造った教会ならばあらゆる矛盾を含んでいて当然になると思います。
論点は、拙速伝道がどうというよりも、この教会が真実の教会か否か、ということになるのではないでしょうか。
それを抜きにして、末節を論じてみても仕方がない気がします。
私も大阪に住んでおり、ステークは違いますが、いつか実際にお会いしてお話しする機会があればと思っています。
旧約でも、新約でも、ldsの歴史でも皆言えることだと思います。
末節というよりも、そう言ったことを論じられること、矯正していけることが大事(神の教会の資質)ではないかと思っています。
私も語り合うことができれば嬉しい(光栄)です。
伝道中に、東京南伝道部の話はほかの宣教師から聞いた覚えがあります。私が伝道したのはその時代より後ですが。
当時の伝道会長はビジネスライクに伝道を考えていたという話を聞いたように思います。バプテスマの多い宣教師を表彰していたとか。また聞きですので、本当のところは知りませんが。
この教会を神によって導かれているのか、はたまた人間によって導かれているのか、どちらに考えるかによってものの見方は変わってくるのだと思います。
また、神から受けた予言を宣言したのに、自分自身がその通りに従わなかった預言者もいます。
旧約聖書には、間違った予言をした預言者は死ななくてはならないと書いてあります。
ということは、間違った予言をすることもあるということではないでしょうか・・
あくまでも私の考えですが、預言というものは預言者自身が、多くの学びを経た上で、何かしらの選択や決断を迫られた時に〝神ならこういう風に民に言うだろう“という気持ちを述べたものはないかと思います。もちろん直接神の声を聞いたと表現されていますが、実際は確信がそう思い込ませたことも多いと思うのです。
預言者が間違うということは神を汚すことになるので、落とし前をつけなければなりません。私にとって問題は、間違うか、間違わないかということではなく、落とし前をつけるかつけないかということで、その点でけじめがついていないように感じます。
エレミア書の23章を読むと偽預言者について書かれています。
旧約の時代、預言者のいたコミュニティには神の臨在があったと思いますが、そのようなところでも間違った予言は生じたものと思われます。
神に導かれていても、誤った預言は出てくる可能性はあったと強く感じます。
それは預言者の資質によるところも多いでしょう。
イエス以前の律法学者・パリサイ人も該当しますし、イエス以降の人々も誤った教えを流布したことが多々あると感じています。
間違った予言をしたものは死ななくてはならないと書かれてありますが、実際に処刑されないにしても、死に等しい状態に置かれることがあり、次の言葉を読むと、間違いに対する報いを読み取ることができます。
23:37
あなたは預言者にこう言わなければならない、『主はあなたになんと答えられましたか』、『主はなんと言われましたか』と。
23:38
もしあなたがたが『主の重荷』と言うならば、主はこう仰せられる、『わたしが人をあなたがたにつかわして、あなたがたは「主の重荷」と言ってはならないと言わせたのに、あなたがたは「主の重荷」という言葉を言ったので、
23:39
わたしは必ずあなたがたを捕え移させ、あなたがたとあなたがたの先祖とに与えたこの町と、あなたがたとを、わたしの前から捨て去る。
23:40
そして、忘れられることのない永遠のはずかしめと永遠の恥を、あなたがたにこうむらせる』」。
モルモンも、他の教会もすでに〝誤ったことを教えた教会“として永遠の侮辱を受けているように思います。
ルターにとって、カトリックは間違った教会であり、ローマ教皇は間違った予言者と捉えられたことでしょう。
どの教会にもありうることだと感じています。
いつの日か過ちは過ちとしてはっきりと認める必要があると思いつつも、すでに神と世間からある種の罰は受けていると感じています。
世間から、悪い評価を得ることは、すでに神から捨て去られた状態と思います。
ただ、禊をすればまた神の寵愛を受けられるとも思います。
聖書の世界では、悔い改めて主に立ち返れば再び加護を受け、神の恵みを受けられるようになった例も多くあると思うのです。
モルモンもそのような状態にあると考えています。
最初は神に従っていましたが、途中で長老たち(?)の意見を聞かず、若い者の意見を受け入れて、神のみこころに適わないことを行い、どんどん神から離れていき、神も彼から離れていったという話を思い起こします。
正しい道を踏襲しなかったという点で拙速伝道と共通するものを感じています。
このような事象が発生したのは、王にも問題があるのですが、その周囲にいる人々がみこころを理解していなかったということだと思うのです。
この状態が後に正されたのは、預言者の力が機能したのかなとも思います。
ちょっと時間が掛かりましたが・・・・
現代の社会にあって、周囲にいる人々の責任も重要であるという点に特に賛意を覚えます。
このような会員記録は、活発会員と拙速伝道会員の両方に不幸をもたらし続けていると感じます。
私は、このような会員記録は早急に抹消されるべきであると思っています。
しかし会員記録の抹消について、実に多くの教会員が理解していません。驚くことは、私のワードの書記でさえ手続きを知らないという事実です。
また、会員記録の抹消によって、神様の前から断ち切られるような誤った感情を抱く神権指導者の存在も足かせとなっています。
拙速伝道の事実は、会員記録の抹消によって解消するわけではないけど、活発教会員や拙速伝道会員にとって祝福になると思います。
私の強い思いです。
神の教会から絶たれてしまうのを恐れるというのは、一理あるように聞こえますがそれは乗り越えなければならない考えであると思います。
末日聖徒は大菅長について、神に召された義なる人という認識を持っている。 それは正しいだろう。
そして神に召された義なる人だから、神につながっており、それゆえ教会運用を絶対に間違わないと思ってる。 なるほど大管長会は全力で教会を運用するから概ね正しい方向に導かれている。
しかし絶対にそうだという信仰おそらくそれが間違った認識なのだろう。
教会はそんなことは教えてはいなかったはず。人は誰でも不完全と教えてます。 預言者を非難するなとも教えてますが、預言者は間違わないと教えた事がない。
長老定員会の会長に召されたら、神から召されたから絶対に間違わないという保障はない。 というかしくじることの方が多かったりする。 義なる預言者も度々間違うというのが正しい信仰なのだろうと思います。 願望と信仰は違うものです。
拙速伝道については、確かに主が大管長に当時の日本をもっとバプテスマせよとお命じになったんだと思います。 だけどその方法は民(預言者)に任されたんだと思います。 拙速伝道が良いと思ったのかも知れないが義の原則からは外れており、運用を間違った。 結果は必ず生じ、呪いとして大量の反モルモンが生まれて明らかなトゲになっています。
本気でわけがわからんうちのバプテスマはモルモンが憎んだ幼児のバプテスマと同じことです。 義の原則から外れたら神権は働かないので、まともな神権者が行ってもそのバプテスマは無効だったという結果になるのだろうと思います。
神の教会から絶たれてしまう恐怖というよりは最初から繋がらないから、福千年には未信者と共に二回目のバプテスマを行うチャンスを得ることになるんじゃないですか?
これで落とし前が終わるとも思えないが、少なくとも、正しい会員登録の抹消方法についてはもっと公開すべきと思います。 いかに都合が悪かろうが正しい知識の普及は悪ではなく善なので。
>「わけがわからんうちのバプテスマ」は「モルモンが憎んだ幼児のバプテスマ」と同じこと。
この指摘は、当時拙速バプテスマを推進ないし容認した指導者の心にずしりとくるはずです。