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そうそうたる顔ぶれ*が登場する、貴重な記録を60年ぶりに読んだ。著作権の年限を過ぎていると判断されるので、以下やや大幅に引用させていただく形で紹介したいと思う。(*高坂正剛、山谷省吾、亀井勝一郎、椎名麟三、猪木正道、武田清子、小塩力、隅谷三喜男、久山康)
「士族の入信の仕方」
士族とキリスト教の間に深い関係があると聞いていたが、次のような事情が指摘されていて、なるほどと思った。(以下引用)
「志を得ぬ薩長外の士族の入信」
高坂: キリスト教が一番最初に多くの信者を獲得したのは士族です。・・維新のときに、・・薩長の勢力圏の中から締め出しを食ってしまった人々・・が多いのではないか。例えば熊本バンドの場合・・それから高知についてもいえるのではないでしょうか。
要するに特権階級への反撥がある。・・勝海舟にしましても、山岡鉄舟なんかにしましても、キリスト教にかなりの関心を寄せていた。・・それらの人々の持っている一種の気概か気骨のようなものが基督教と関係をもったのではないかという気もします。pp. 54, 55
隅谷: 確かにおっしゃる通り・・新日本の建設と信仰とが不可分の関係をもっていたのは、明治初期キリスト者の基本的特質といえましょう。p.57
久山: 日本におけるイエスの最初の弟子たちが武士の子弟であり、しかも世に志を得ぬ佐幕派や維新に立ち遅れが藩の子弟であったことは重要な事ですね。いま名前のあがった人の外でも、内村鑑三は上州高崎藩、新渡戸稲造は奥州南部藩、柏木義円は新島襄と同じ上州安中の出ですね。
小塩: その反対はどうですか。たとえば薩長関係で、世間的に相当な地位につき得る人であって、キリスト教に積極的にはいった人はいませんか。
隅谷: その典型的なのはさっき申しました澤山保羅です。p. 57
「ピュウリタン的武士的宣教師と士族の子弟の逢会」
久山: ・・アメリカから初め日本に来た宣教師の中にもピュウリタン的であるとともに、南北戦争直後の武士的精神がこもっていて、これが日本の真摯剛直な精神と結びついたことは、大切な点ではないでしょうか。それと関係した事柄なのですが、他の東洋諸国の教会と比較して、その数において劣っていても、その実質において優れていることについて、海老名弾正はこんなことを言っています。
「自分はその原因は我が国に最初に渡来した外国宣教師たちが、ピュリタン的であったばかりでなく、よい意味での武士的な精神に富んでゐたこと、それから当時の若き信者たちが皆よい意味での武士道的な精神に燃えていたということ、そしてこの両者の精神が、真によく一致融合してゐたため、他の異教国に基督教の伝道が開始せられた多くの場合とは全然異なった真によい土台を据えたからである」と。
そして多くの場合、異教国にキリスト教が伝道されるとき、兎角宣教師たちが之に過分の恩恵を施し、甚だしい時は政治的特権を濫用とまではいかなくとも、利用しすぎるほどに用いて、彼らを保護したりするので、その結果、多くの場合与えられた信者を無気力な依頼心の強い、極端に言えば乞食根性を多分に持つ者としてしまい・・p.58
高坂: 小崎弘道はこう記しています。
「私が始めて其会に出でて大いに感激したのは彼の祈祷であった。元来祈祷など宗教臭きことは大嫌ひの私が一旦彼の祈祷を聞くや実に不思議に感ぜざるを得なかった。人々は皆頭を垂れて謹聴して居るのに私一人は眼を開いて彼の祈る態度を凝視したが、彼の熱誠に溢れて出席者のため人類のため、日本及び世界の為に祈る一言は一言より熱烈となり、終に双眼の熱涙両頬に流れ落ちるを見ては、如何に冷淡頑固な私も感激せずには居れなかった。私が求道心を起こしたのは之が端緒で、爾来熱心に聖書を研究し、教理を学んだ」と。p.66 (以上引用)
[感想] 昨今の末日聖徒はどうだろうか。依頼心が強いという表現は当たらないかもしれないが、指示待ち、自発的発想・実行力の貧困、自立・自律精神の欠如、そして教勢が停滞気味にもかかわらず危機意識が見られない点では、大同小異かもしれない。
祈りについては、会を始め、終えるために、大体決まった文句を並べて終わっていないだろうか。心のこもった、会衆の信仰と救い・平安のために祈る声を聴くことは稀である。頼みやすい人に集中したりしている。上に引用したような祈りとは天地の差である。
書名:
久山康 編「近代日本とキリスト教」明治篇、基督教学徒兄弟団(西宮)、1956年。久山康他9名による共同討議の記録。
耳の痛い話です。 改宗当初はクリスチャンとして世の中を少しでも良くしたいとの思いで、聖餐会の開会で日本国家の繁栄を祈ってみたり、や自発的に色々募金(野良猫のための募金とか国土緑化のための募金とか)を行おうとしてみたり、資料室に子供のための絵本を寄贈してみたり、玄関先に自宅にあったアールヌーボー的な飾り台を、教会の玄関先に提供することを監督さんに提案してみたり、色々努力してみたものの、すばらしいと思いますが教会の標準ではない、という回答ですべて徒労に終わってしまった経験があります。
寄贈の絵本も半年ほどで散逸して元通り殺風景になってしまい、何なんだこの教会はと落胆した苦い記憶が残っています。
そのかわりアロン神権が与えられ、正直言ってあまり興味が持てない聖餐会で細々と働く機会を与えられたのです。
半年もしないうちに、典型的な指示待ちモルモンに染まってしまい、神権指導者の極端な体育会系の激には波風を立てないためにその場ではハイハイ言うけれど適当に聞き流してる、三流モルモンとなってしまいました。
日本のモルモン教会組織が一方的に悪いとは言わないけれども、もう少し本気で、規格外の善意に対して付き合いを良くしていかないと定着率のアップは望めないのでは思う次第です。
祈の役割を与える側の監督会が、そうしろって指示を出してるんで仕方ないですね(笑)
私がワードの集会で、聖餐会での祈りについて指導が有った時に、「祈りについて指導者が介入すべきではない」って趣旨の事を発言したのですが、誰も同意しなかった。
NJさんも、その場に居たのにね。
ブログで言ってることと、現実での姿勢とはずいぶん違うものですね。
絵本の寄贈、飾り台提供の申し出などいろいろ努力されたのですね。教会の対応に対するお気持ち、御察しいたします。この教会はよい案が恒久的に定着しにくいという欠点がありますね。図書・資料保管室がその典型のように思われます。私の通うワードでは図書・資料室が廃棄になり、(系図探究のPCコーナーにスペースを譲ることを求められた)、倉庫の一隅にひっそり、ごっそり少なくなって生きのびています。
豚さん、
リンカーンがブリガムヤングを丸太に譬えて、向こう側に行くにはよけて通る、と言ったそうですが、手引きに固執するタイプの人で耳を貸す気配のない人には、私はリンカーンに倣います。
伝道/七十人・・・宣教師と協力すること
先祖/大祭司・・・家族の記録、神殿
福祉/長老 ・・・経済的自立、教育、職業、結婚、家族を強調
それ以外は、個人の趣味やビジネス、余計なお世話、場合によっては、教会活動に障害とみなされたり・・・
TPPが頓挫していなければ70年に延長されていたかもしれない著作権。良かった一面かもしれません。
>[感想] 昨今の末日聖徒はどうだろうか。
大枠同意します。
しかし、何事につけ先駆者というのは積極的で激しい一面がありますね。
わたくしの世代も団塊の世代からは無気力、無感動、無関心などと揶揄されました。
昨今もこれだから「ゆとり」は。。なんて日本の未来を危惧する言葉のなか、むしろあらゆる分野で「ゆとり世代」は世界資質になりつつあるようです。
ニッポンモルモンもそうなって欲しいと思いますし、確信もしています。
http://diamond.jp/articles/-/80089
・ヤクルトの山田選手をスターにした杉村打撃コーチのすごい指導法
杉村氏は自分の教えられたスタイルではなく、選手との「すり合わせ」を徹底していました。
・ゆとり世代の若手社員は職場の人間関係づくりがうまかった!
「若手社員の成長を阻害する先輩社員の未熟さに頭を痛めています」
・ゆとり世代を受け身にさせる先輩社員の誤った指導法
「イマドキの若手社員は主体性が低い」と言い切っており、さらに若手社員の伸び悩みを加速させているようです。
上司は部下を育てるためにすり合わせを行うことが重要です。
NJさん、「君子危うきに近寄らず」って言うのは、「良きサマリや人」の例えでは、イエスに非難されてる人の事ですよね。
私は、NHさんとNJさんの「良き隣人」ですので、スルーはしません(笑)
皆さんそうやってスルーしてきた結果が、今のモルモン日本なんでしょうね。
豚は、ブーブー言うのが性分なので、出来るだけスルーせずに行こうと思ってます。
そんなこと言ったら怒られちゃいますね。
なぜこんなタイトルにしたのか?
それは、ロンブーの田村淳さん著の「日本人失格」(集英社新書)という本を読んで感動したからです。
淳さんは太陽・海王星が射手座でコンジャンクションの人です。射手座って海外という意味合いあるし、大らかで器も大きく、かなりアバウトなところもあり、いい意味で人の言うことを聞かなかったり、壮大な夢を抱いていたりします。
この本読んでるとホント淳さんって射手座なんだなあ、って思いました。
本の帯が、淳さんの顔写真とともに「この国はなぜ僕には息苦しいのか?」って書かれてます。
日本は太陽牡牛座でもあり、島国でもあり、礼儀・礼節を重んじたり、努力や忍耐を強制したり、いろいろな規制があったり、と確かに息苦しい面も多い。
淳さんは、今の芸能界そのものもかなり規制規制で息苦しくなってきてる、と本に書いてます。
」http://ameblo.jp/gekishi4704/entry-12251954433.html
何か符合するところもあって、興味を覚えました。言われてみると「日本人失格」みたいなところがあって、喜んでいいのか、嘆かなければならないのかと思ってしまいます。実は大変日本的な自分を知っているからです。
まぁね、蓼食う虫も・・・