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C・トレモンタン「へブル思想の特質」を読んで得たこと (やや長文)

2019-02-20 23:46:33 | 聖書

 [クロード・トレモンタン]

この本は決して読みやすい本ではないが、今まで得たことのない視点を得ることができた。著者は1925年生まれのフランスの哲学者(教授、故人)であって、聖書の釈義学者や神学者に新しい見方をもたらそうとしたわけではない。しかし、納得できる、深く新鮮な分析と指摘に富んだ書物である。

哲学的な術語と論旨の展開に戸惑いながらも、同時にユダヤ・キリスト教的視点が優先され、聖書の縦横な引用に会って信仰の伝統内で書かれていることが感じられた。中心的な主題に、ヘブル語の「魂」の概念、「創造」という営みの観察、生き物が中に秘める力(ダイナミズム)とそれが向かう方向、そして信仰などが独自の哲学的洞察から、時に重複しながら語られる。実際、本の題にエッセイ(粗描、試論)と断っている通りである。

まず「魂(たましい)」について。人間(感性を持つ存在)は、数多くの有機的要素(器官)を持つ肉体とそれらに生気を与える魂から構成されている。そして、魂から分離された肉体は死骸でしかない。それでヘブル語では肉体だけを示す語を持たないという。このようにヘブル語は霊魂 / 肉体の二分法を知らないので、魂を肉体とは別の見えないものとは考えない。へブル語で魂とは人間のことなのである。人間が魂を持つと言ってはならない、人間は魂であると言わねばならないのである。へブル語は人間というこの蝕知できる、感性的で、感情を表わす生ける存在を魂と呼んでいる。それでヘブル語は生ける人間を指し示すのに「魂」nephes という語、あるいは「肉」basar という語を区別せずに使用する。これはヘブライ語聖書を読む時に助けとなるよい解説である。

次に「創造」は神が行なうことで、人がするのは繰り返し得る「製作」であって、本質的に二つは異なる。この創造はわれわれの間で、われわれの周りで行なわれ続けていると言う。歴史は神の「働き」と人間の行動とが協力する一つの業である。聖句に「わたしたちは神の同労者である」(Iコリ3:9)とあるように。このように人間も携わる創造的行動は神の「働き」と共生する。後者が前者を支え、前者を生み出し、前者を完全なレベルと自由に押しやると言う。それで「あなた方は神々である」(ヨハ10:34)と言われることになる。神の力(δύναμις, dynamism)は人間の行動の中に働くと言い、「私たちを強くして下さる方によって、何事でもすることができる」(ピリピ4:13)を引用する。そして、今や人類が出現し、活動する姿を頂点と見、そこに創造の業が集中して継続されている、とさえ述べる。人間賛歌に聞こえる。

聖書の世界では創造、生成が不断に行われていて、そこでは「萌芽」から発して創造の業が展開していくことを気づかなければならない。例えば、植物が宿している力(δύναμις, dynamism)に沿って、まだ見えない果実の方向に向かうのを見通すのである。見えるもの、花に固執してはならない、と説く。内的な力、内在的な創造の胎動に気づいて参与(協力、助力)できなければ全く分かっていない、と言う。

著者は更に進めて言う。何か生きた存在を前にして、その相手(対象)に何らかの特性(意義)や可能性を感じ取る(知覚する)ことは、受動的ではなく、そこに対話、相互の流通、交換がある。そこで何の寄与もできなければ、いわば病人である。感じ取り、交流できる能力を持つ者には次の言葉が当てはまる。「おおよそ、持っている人は与えられ、いよいよ豊かになる。」見抜く力があって寄与する者が豊かになる、というのは、「情けは人の為ならず」の道理で、自分に返ってきて(自らが成長して)豊かになるというわけである。

更に、信仰とは悟りである、信仰とは、ある所与(生きた存在[者]、神も含む)の内在的な意義(意思、精神、生命、特性など)を読み取ること。悟りとは感じ取る、読み取る能動的な働き、ないし行動である、と語る。この「霊的悟り」は聖霊に助けられて生じる(コロサイ1:9)と説教者のように記す。難しいが上のようなことを悟るように努めて、行動を促されて生きていけば、受動に終ることなく、能動的に生きてゆけることを指しているのだろう。

以上、読みなれていない哲学書から、読み取れる範囲で得られた収穫を要約してみた。この本は、小沼政弘氏の薦めを受けて読むことができた。貴重な提案をいただいたことを感謝している。

 

紹介した書籍名:

C.トレモンタン著、西村俊昭訳「へブル思想の特質」創文社版 1963年

Claude Tresmontant, “Essai sur la pensee hebraique.” 1956

 



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16 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
霊の存在 ()
2019-02-21 18:41:00
>このようにヘブル語は霊魂 / 肉体の二分法を知らないので、魂を肉体とは別の見えないものとは考えない。

その根拠がよく分かりません。

そもそも、創世記2章7節には、「神は土のチリで人間を作り、命の息をその鼻に吹きいれられた。」と書いてあります。

これは、肉体と霊がはっきりと別の物だという事を意味すると思うのですが。

他にも、聖書には悪霊とか出てきますし、霊が肉体を持たずに単独で存在するという視点で書かれてある部分は、少なからずあります。

モルモンンは、すべての生物はまず霊の形で創造された、と言う教義ですから、この著者の視点とは真っ向から食い違いますね。
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要するに (教会員R)
2019-02-22 08:15:24
肉体と霊が不可分とするヘブルの文化があって、それよりも古い別の文化(肉体と霊を識別している文化の創世記神話)をヘブルの文化が拝借した時点で聖典に齟齬が生じて理解しにくくなっているのでしょう。

さらにまた、イエスの死後に異邦人に伝わることで(肉体と霊を識別している文化の)哲学に影響されて余計に分かりにくくなったものと思われる。

イエスを基点に考えてヘブルの文化に軍配が上がるとすれば、キリスト教は全て失格になってしまうことになる。
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要してない? ()
2019-02-22 13:08:41
何の根拠もなく断言できる人は素晴らしい!!

そういう方の話は横に置いといて・・・。


>それでヘブル語は生ける人間を指し示すのに「魂」nephes という語、あるいは「肉」basar という語を区別せずに使用する。

へブル人が、「Kol-hannephes」と「Kol-basar」が同じ事を意味している。と言うのは、それが同じ意味の言葉である(例えば、カレーライスとライスカレー)と言っていいのでしょうか?

ローマ人への手紙8章の冒頭から引用します。(長くてすみません)

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

ここでは、明らかに肉と霊を区別している。対比させている。

私の憶測で、全く根拠はないが、人間はこの世に生きる「肉の者」でも有り、神と共に生きる「霊の者」でもある。と言う解釈なのではないか?

やっぱ、哲学は豚には向いてない・・・。
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要は (オムナイ)
2019-02-22 15:14:24
ギリシャ語とか英語に訳された聖書というのは本来のヘブライ思想とはずいぶんかけ離れてしまった。

ということでしょうね。

それでも残骸のように、ヘブライ思想の痕跡があると。
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課題、話題が沸き上がります (NJ)
2019-02-22 17:48:23
コメントされた3名の方は、いずれも「そうですね」としか言えないレベルの高いことを述べられました。

まず、豚さんがヘブライ語を引用されたので、どこから引用されたのか驚きました。とにかく、指摘されたことはごもっともです、と申し上げます。

トレモンタンはギリシャ的な思考と対比して書いていて、二元化はそのせいと言っているようです。

少なくともへブル思想には、魂とか英語でいう soul という概念が二元論ではない形でヘブライ語聖書に出てくる、という点で私は理解が前進したと感じたわけです。(ほかにも学んだことがいくつもありますが。)
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Unknown (Unknown)
2019-02-23 01:30:31
ローマ人への手紙の作者と書かれた目的を考えれば、それをヘブル思想と言うのには無理があるのでは?

それと聖書だけを取り上げてこう書かれてあるから(あるいはこう書かれていないから)という狭い範囲でヘブル思想を語るのもどうかと思います。

一番の問題は末日聖徒は、LDS教会から教え込まれた解釈以外を知らないのに、その内容が聖書学的に正しいと根拠なしに思い込んでいることです。そうしたバイアスの下で研究者の著書を読んでも理解はできないでしょう。

LDS教会発行の書籍を脇に置いて、まともな聖書注解書から学ばれることをお勧めいたします。
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バイアスは必要 ()
2019-02-25 15:44:30
>ローマ人への手紙の作者と書かれた目的を考えれば、それをヘブル思想と言うのには無理があるのでは?

確かにパウロは、生まれながらにローマの市民権を持って居たようですが、同時にベニヤミンの出で、ファリサイ派に属していたれっきとしたユダヤ人です。(聖書の記述では)、さらに当初はキリスト教徒を迫害していたという記述から、かなり熱心なユダヤ教徒の思想家だったのではないでしょうか?

そこから、私は、彼がへブル思想の持ち主だと考えます。
 よろしければ、「ヘブル思想と言うのには無理があるのでは?」と思う理由を教えてください。

聖書だけと言われれば、確かに範囲は狭いですが、少なくとも、このブログでの、共有できる数少ない書物だと思います。

多種多様な文献から引き出してきても、互いの共通認識が無ければ、理解しようがないと思います。

>そうしたバイアスの下で研究者の著書を読んでも理解はできないでしょう。

意味は違うかも知れませんが、私の勉強した電気の方面では、バイアスは時に必要なものです。
電子回路では、あらかじめかけたバイアスが、基準値の役目を担います。

宗教でも、全く宗教観を持たない人同士が宗教について話しても、宗教を理解するのは難しいのではないでしょうか?

私は、モルモンと言うバイアスが有るから、それを基準として、キリスト教を認識できるのだと思っています。

私はモルモンの宣教師と出会わなかったら、聖書を読むことも無く、キリストについて考えることも無かったでしょう。

何処から登ても、山の頂は一つじゃないですか?
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Unknown (教会員R)
2019-02-26 08:04:37
パウロの書いたローマ人への手紙8は、

神を喜ばせるために開かれている、真のクリスチャンであるためのゲームのルールの説明と考えると分かりやすいでしょう。

このゲームの勝利条件は、「イエスの説いた霊的に生きるの意味を悟って生涯を終えること」であって、プレーヤー(真のクリスチャン)でいられる条件は「肉体の死について考えないこと」につきる。

ここで言う「罪」とは反則(肉の死について考えたり問うこと)であり、その罰は「死」(退場命令を受けること)と考えれば、すべて説明がつきます。

■キリスト・イエスにある者(プレーヤーとは)は罪に定められることがない(者のことである)。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則(ルール)は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

■これは律法の要求(ルール)が、肉によらず霊によって歩くわたしたち(プレーヤー)において、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者(退場者)は肉のことを思い、霊に従う者(プレーヤー)は霊のことを思うからである。

■それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである(ルールはルール)。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。(当たり前だ)

■もし、キリストがあなたがたの内におられるなら(プレーヤーであり続けるなら)、からだは(アダムの)罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている(プレーヤーとして生き続けられる)のである。

■イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っている(プレーヤーとして活動中)なら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる(肉体の死という現象は存在しない)であろう。

■兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である(人間誰でも死ぬ)が、肉に従って生きる責任(死ぬ死ぬと考えなければならない責任)を肉に対して負っているのではない。

■なぜなら、もし、肉に従って生きる(肉体の死を考える)なら、あなたがたは死ぬ外はない(ルール違反によって退場しかない)からである。しかし、霊(考え方)によってからだの働きを殺す(死ぬ死ぬと考えない)なら、あなたがたは生きるであろう(永遠にプレーヤーで居続けられる)。
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Unknown (Unknown)
2019-02-27 07:12:58
豚さんへ

お返事どうもです。

私、コメントしてから考えてみたのですが、このトレスモンタンさんが言ってる『ヘブル思想』というのがそもそも何か?それを私らの方が捉え違いをしているのでは?ということに気が付きました。

私は『ヘブル思想』というのはユダヤ人の伝統的なものの考え方でそれは旧約聖書の中で顕著になっているもののことだと考えてこの記事を読んでおりましたが、トレスモンタンさんがその意味で使っていないかも知れないと思い至りました。

この点を間違えると最初からボタンの掛け違いが起こるわけですね。豚さんはどういう意味で『ヘブル思想』を捉えていらっしゃるのですか?

とりあえずその前提で話を進めるとして、パウロはユダヤ人であり、かつては伝統的なユダヤ人の思想を持っていたので多くのキリスト教徒を迫害しておりましたが、聖書によれば劇的な改宗をしたため、自らの『ヘブル思想』を捨て(あるいはそれから抜け出し)キリスト教と言う新しい思想に飛び込んだのだという認識です。

その新しい思想を伝えるのがローマ人への手紙を含むパウロ書簡であるため、新約聖書をもって『ヘブル思想』の根拠とするのはいかがなものかと思うわけですね。ただし先に述べましたように、トレスモンタンさんが言う『ヘブル思想』が何なのかまずはっきりしないとどうにもならないのですが。
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Unknown (Unknown)
2019-02-27 07:20:58
>私はモルモンの宣教師と出会わなかったら、聖書を読むことも無く、キリストについて考えることも無かったでしょう。

それは私もそうですね。しかし伝統的なキリスト教への理解を進めれば理解されていくと思いますが、末日聖徒イエス・キリスト教会の教えていることとはキリスト教ではありません。

ありませんと言い切ると反発する末日聖徒ももいるでしょうから言い換えますと、伝統的な店で修業を積んだ職人が握る寿司と、バイトの店員が作る回転ずしの違いだと言えば的確かなと思います。
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トレモ情報・・・ (たまWEB)
2019-02-27 08:32:50
「クロード・トレモンタン教授は自著「ル・プロブレーム・ド・ルアーム」の中でこう述べています。「すべてのプラトン哲学やデカルト哲学の伝統のように,人間は……魂と肉体とで成っている,と言うのは不合理である。……人は,わたしは魂を『持っている』と言うべきではない。そう言えば,その所有者は,彼が所有する魂とは異なるものになるからである。人は,『わたしは生きた魂である』と言うべきだ」― 180,181ページ

「ヘレニズム世界の『知る』とヘブライズム世界の『知る』では、その内容が違います。
トレモンタン著『ヘブル思想の特質』やボーマン著『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』などが、そのことを指摘しています。ヘブライの世界では、「知る」ことは、全人格的な交わりを意味します。単に呼ばれたら従うようなことではありません。見分けることだけでもありません。その羊のために命を捨てるほどに守ることです。そうして、命を得させるのです。

「一つの種から多くの実を結ぶ「木」にたとえる。

生物発生、創造の運動に根本的な重要性を見る。時間は出産・宇宙的成熟の働きを測る尺度と見る。

積極的。

「『ヘブライ人キリスト』の著書トレスモンタン(Claude Tresmontant, 1925-1997)はフランスの哲学者(科学哲学・中世哲学)で、トレモンタンとも表記されます。既訳書には『ヘブル思想の特質』(西村俊昭訳、創文社、1963年)、『テイヤール・ド・シャルダン』(美田稔訳、新潮社、1966年)、『パウロス――キリストの秘義の解説者』(岳野慶作訳、中央出版社、1978年) 、『哲学の方法――経験科学と形而上学』(豊田仁美訳、レグルス文庫、1985年)、『現代科学にもとづく形而上学――今日、神の実在の問題はいかに提出されるか』(道躰章弘訳、水声社、2003年)があります。『ヘブライ人キリスト』は道躰さんによる訳書第2作になります。1983年にフランスで刊行された本書で著者は、新約聖書の四福音書はギリシア語ではなくヘブライ語で書かれたものだと分析します。「ヘブライ語からギリシア語、ギリシア語からラテン語、ラテン語からフランス語に、表現が改変され、歪曲され、終いにはわけの解らぬものになる。情報の本意が伝わらぬ。ギリシア語やラテン語の翻訳を放棄してこれを単に転写するだけの仏訳者等の悪癖ゆえに、情報は重大な改変を被る。もしくは遮断される」(32頁)と嘆じる著者の綿密なテクスト読解に圧倒されます。

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URLは・・・ (たまWEB)
2019-02-27 08:40:02
https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j-rb/101975761
https://www.tamadech.jp/sermon/content.html?id=714&d=20100418
http://blog.livedoor.jp/singa_lion/archives/1063826110.html
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 (たまWEB)
2019-02-27 08:42:06
https://urag.exblog.jp/d2013-10-27/
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著者の名前 (ダイエット★継続中)
2019-02-27 09:55:34
トレモンタンか、トレスモンタンか?
検索するとどちらでも出てきます。

フランス語は綴りにあっても発音はしない子音がありますからね。どちらがより正確なのでしょう。ご存知の方がおられましたらご教授お願いいたします。
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へブル思想 ()
2019-02-27 11:16:16
>豚さんはどういう意味で『ヘブル思想』を捉えていらっしゃるのですか?

私は単に「旧約聖書を編纂した人たちの考え方」と言う意味で使っています。

唯一神、創造主、イスラエルの守護神、人間を超越し君臨する神。
そして、その神に統治され、支配される人間。

神は自分に似せて土から人をつくり、神の息を吹き込んだ。

そんなことですかね。

それは、厳密に言うと、へブル人全体の思想ではなく、へブル人の中の宗教関係者の思想だと思います。
私は、へブル思想と言っても、聖書を通してのその物しか知りません。

タルムードも一部読んだことは有りますが、深く研究したわけでは有りませんので。

新約聖書については、やはり、根底は、旧約聖書の中に有り、キリスト教の思想はユダヤ教の思想の延長線上に有ると思っています。

キリスト教を起こしたのも、ユダヤ人ですし、広めたのもユダヤ人だと考えます。

そのキリスト教的ユダヤ思想と、ギリシャ神話が融合してヨーロッパの思想、延いては、現在の欧米思想に強く影響しているのかと思います。

そんな事で、ローマ人への手紙を引用しました。

私は、基本的に、「思想」を作るのは宗教だとは思っていません。
宗教もその一つでしょうが、一番大きな影響を与えるのは、人間の生活環境だと思います。

旧約聖書を読んでいると、当時のヘブライ人が、ほとんど宗教家の言う事を信じて居なかったことが分かります。

普通に、ほとんどの人々が、神の事や戒律を信じて守ていたなら、あんなに何度も何度も、預言者を差し向けて、警告を発する必要は無かったでしょう。

旧約聖書は、神の言葉と、律法を盛んに唱えていますが、同時に、人々は、そんな事聞く耳を持って居なかった、宗教者を信頼していなかった、神を信じて居なかった事が分かります。

当時の人達の生活にとって、神の存在なんてどうでもよかったのでは?と思うほどです。

聖書は、ごく少数の信仰者と、大多数の不信仰者の物語でだと感じます。

霊だ肉体だ、って言うのは、一部の宗教オタクの思考の中に有っただけとも思えます。

現在の私たちも、同じようなものじゃないですかね?

話がそれてすみません。


>伝統的な店で修業を積んだ職人が握る寿司と、バイトの店員が作る回転ずしの違いだと言えば的確かなと思います。

私は、家で食べる手巻き寿司が美味しいと思いますし、カレーも家のカレーが好きです。

お好み焼きは、自分で作るのが一番おいしいとかんじます。

味音痴なんでしょうね。それとも貧乏人だから?(笑)
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クロード・トレモンタって・・・ (たまWEB)
2019-02-27 20:18:23
https://www.youtube.com/watch?v=ZkyX7TOkfMg
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