教義と聖約(20:61,62)には、何であれその時に必要とされる教会
の業務(business)を行うためと書かれている。今日その主な業務
は、1 過去6か月のステークの状況をステーク会長会と訪問幹部
が点検する、2 ステーク・ワードの神権指導者の訓練、3 教会
の幹部・指導者を支持する、4 ステーク役員の解任・支持、5 メ
ルキゼデク神権の聖任を承認する、6 説教、証、音楽により教会
員を霊的に鼓舞する(霊的に満たされる大きな楽しみの機会
[spiritual feast]と期待される)。
このように見てくると、事務的な事柄を執り行うことが主要な目
的とされていたことがわかる。新約の時代に異邦人の改宗者に割
礼を求めるべきかどうか、エルサレムで使徒や長老たちが論じ合
って結論を出した(使徒15章)例が記憶されるべき大会であった。
なぜ大会(conference)の目的を改めて考えたかと言えば、上の6
番が大きいと思って赴いても会衆の耳が肥え、心が熟練され研ぎ
澄まされて、説教が凡庸であれば居眠りを始めている人たちが目
に付き始めたからである。訪問幹部より地元の指導者・会員の誠
実な証の方が身近で感動を呼ぶことが少なくない。
参考 Hyrum M. Smith and Janne M. Sjodahl, “Doctrine and
Covenants Commentary,” 1979, p. 874
Encyclopedia of Mormonism, Conferencesの項
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詰まらない集会は今後も詰まらないと思います。
平信徒ができることはあまりなくて
でもつまらないと投げてしまうのではなく
自分にできることは何かと問題意識をもって参加することが自分にとっても教会にとっても有益なのかな
と最近は思います。
モルモン書や聖書の中から題材を取り、「これはこうなのだ!」と言う、教義の解き明かしにより、信仰を高めると言った話が全くと言っていいほど無い。
大会の話を聞いて、キリストの贖いに感動したり、救われた事への感謝を持つと言った事が無いですね。
宗教指導者の話って言うより、営業部長の訓示みたいな感じが多いですね。
ワサッチさんの始めの3行に類することですが、私は岡町(豊中市)の礼拝堂完成40周年記念の催しのニュースの方に興味を覚え、楽しみにしているといった心境です。
> 教義の解き明かしにより信仰を高める
確かにそのような説教が聞かれなくなっていると言えるでしょう。以前そのような説教をする幹部が訪問したことがありました。(十二使徒の訪問がなくなったことも関係している?)
そんななかで個人は何ができるんでしょうか?
それとも教会はすでに人にとって不用な物なのでしょうか?
私はいまのところ教会以外に霊性を学んだり育んだりできるところを見つけられていません。もちろん他宗派でも霊性は学べると思いますが自分にとってはモルモンなんですね。
いまここで何ができるのか…。
NJさんはどう考えていますか?
「何ができるか」さしあたって教会の中で出会う人々(家族を含む)のために何ができるか、何をすべきか(自分の状況に照らしてですが)と考えることができるのではないか、と思っています。
教会に集う人々も隣人なのですから。
自分が得ることができたものを、時宜にかなった方法で継承していくことか、などと考えたりします。
より一層指導者に柔順になる、とか言ったことではなく。
岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
>岡町が礼拝堂奉献40周年記念をやりたい、と思い立った平信徒がいてそれができるのは自然でよいことの一つであると思います。
NJさん、間もないので御存じないかもしれませんが、NJさんの所属ワードも、ユニット設立40周年だと思いますよ。
1070年大阪万博の前の年ぐらいかと思いますので。
たしか・・私はまだ生まれてなかったような気が・・・。
尼崎であれば希望(意識)しています。昔の方たちとお会いできれば大変楽しいですから。ただ、私に中国行きの話が浮上してタイミングが微妙な状況です。何にしても自分は提案しかできないで、地元で中心的な立場にある人の協力を得ないといけないですから。
ご指摘ありがとうございます。