[bookofmormonseminary.blogspot.jpより]
モルモン書を読む度に「キリストの教義」と言う言葉が何を指すのか、頭をひねることが多かった。最近も第三ニーファイ11:28, 32, 35, 39, 40に「わたしの教義」とあって、調べてみた。前後をじっくり読んでも、教義らしいものが見つからない気がしたからである。(ほかにIIN31:21, 32:6, IIIN2:2にも見つかる)。
このことについて述べた資料もなかなか見つからず、やっとJ.W.ウェルチ編「モルモン書再探究」(1992年)に、N.B.レイノルズの解説を読んでそういうことなのかと理解するにいたった。
それによると、同様の聖句をまとめた結果、ここで言う「教義」(英語はdoctrine。gospel とも言われる。レイノルズ)とは「人がキリストのもとへ行く(言いかえると救われる)方法」を指し、明瞭な六つの点からなる方式を言う。すなわち、1 キリストを信じる、2 罪を悔い改める、3 水に沈めるバプテスマを受ける、4 聖霊を受ける、5 終わりまで耐え忍ぶ、6 神の王国に入る。つまり、信仰個条4条にある「福音の原則と儀式」と重なるのである。
この同じ教義の要点がモルモン書の場所によって、六つのうち一部しか含まれなかったり*(IIN33:4 イエスを信じると終わりまで耐え忍ぶ)、ただ単にキリストの教義としか出てこなかったりして(ヤコブ7:2、IIIN2:2・・)私にとって分かりにくかった。結局「教義」という言葉が、何か深いもの、宗教の教えを体系化したものを予想させるからであり、やや硬い形式的な言葉なのである。それは英語でも同じである。それに対しBofMでは、救いを得る方法、救いに至る方式といった意味で使われている。
それで、参考までに、わかりやすい話し言葉の英語にしたモルモン書では「キリストの教義」の部分が次のようになっている。「これがキリストの教えたことである」(Anderson, IIIN11:35),
*この簡略化した表現をレイノルズは「分割表現」(merismus)の例と見る。古典に用いられる修辞技法で一部が全体を表すと言う。
参考
・Lynn Matthews Anderson, "Easy-to-Read Book of Mormon". Estes Book Company, 1995.
・John W. Welch ed., “Reexploring the Book of Mormon” Deseret Book & FARMS,1992. Chapter 75 based on research by Noel B. Reynolds.
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レイノルズBYU名誉教授に(ある程度)敬意・好感を抱いていましたので、得心がいったというわけです。彼は米政治が専門で、BYUの副学長を務めた人です。穏健な保守的立場から教会関連の執筆活動もしていました。