以下末日聖徒の場合を記してみる。もちろん、人によってここに
あげる事柄を問題としない、あるいは無視することもあるし、そ
の人の探求の程度、探求にかけた時間、そして信仰の姿勢によっ
て対応の仕方あるいは解決法は異なってくる。
以下、直面すると思われる問題をあげてみたい。
1 一夫多妻が実施されていたこと、黒人に神権が与えられてい
なかったことに対する疑問。これはすでに承知して改宗している
か、いずれも過去のことであって今日では状況が異なるので問題
にされないことが多いかもしれない。
2 新約、旧約聖書に記された奇跡をどう受けとめるか。モルモ
ン教会は直解主義の伝統から、文字通り受けとめるように教える。
神は何でもできないことはない、自然の原則を越えて奇跡を可能
とされることがある、と説明する。それに対し、聖書学などを学
んでいくと、信じる群れが伝承を伝えていく際に付加した可能性
が見えてくる。
3 進化論、科学 / 宗教の問題。改宗して間もない頃、この教
会は進化論を否定していると教えられた。しかし、BYUに留学し
ていた時、日本からの帰還宣教師である学生がこの教会はそれほ
ど狭量ではない、進化論を受け入れる度量の広さをそなえている、
と言うのを聞いて驚いたことがある(1)。 私の目はその時を境に
開かれていった。また地球の寿命を6千年少々と見る考え方に対
して、創世記の一日を無限に近い時間の単位と取る方が自然であ
るというldsの科学者の説明を読んで納得するに至ったのであった。
4 保守的解説 / 進歩的・弾力的解説の相違。あるいは、直解
的 / 非直解的解説、一時「鉄の棒型」 / 「リアホナ型」と分類
されたことがあった。lds教会は聖書の言葉を文字通り受け止め
る直解主義(literalism)で、それは分かりやすいけれども保守的
に傾く。それを代表するのが少し前のジョセフ・フィールディン
グ・スミス(2)とその流れを継ぐ婿のブルース・R・マッコンキー
で、今日までその影響力が強く残っている。聖典そのものと末日
聖典のみをもとに解説を試みる姿勢は多くの信者にとって明快で
あるが、聖書の原語や歴史、背景知識、これまでの研究成果をほ
とんど参照しない記述は、研究指向の会員には受け入れ難い。
5 批判的神学(Higher / lower criticism)が示す諸矛盾。例、
モーセ五書の文書説は大変説得力を持ち、従来の解釈を覆すこと
が多い。創世の二つの物語も霊的創造を持ち出す必要がなくなる。
また本文批評の視点から見れば欽定訳聖書の底本がその後の写本
発見や本文批評学の成果を反映していないものであり、ldsの多
くの読みや解釈が苦しくなる。
6 教会歴史の問題。ジョセフ・スミスの最初の示現に数通りの
バージョンがあることなど教会が提示してきたものとは異なる物
語がしばしば明らかになること。
7 聖書、モルモン書とも宗教書であって歴史書ではない。特に
モルモン書は19世紀の要素を反映した虚構(フィクション)の可
能性があるということ。これは最近浮上した深刻な問題である。
しかし、フィクションの問題は旧新約聖書にも数多くあるのであ
って、結局聖典をどのように受けとめるかの問題ということがで
きる。
8 アメリカの教会であって、アメリカの文化と不可分でありま
た強力な中央集権体制であること。
いくつかの関門をあげてみた。以上の問題に遭遇して教会を去る
人がいるが、去る人ばかりでなく留まる人も多数いる。では、留
まる理由は何であろうか。いずれこのことについても取り上げて
みたいと思っている。この記事を読んだ方々からご意見をいただ
ければ幸いである。
(注) (1) BYU生は1935年当時進化論を否定していたのは36%に過
ぎなかったが、1973年には81%にのぼり保守化している。しかし
モルモン教会は本来進化論を否定はしていない。http://scienceblogs.com/gnxp/2009/02/which_religious_groups_are_cre.php?utm_source=sbhomepage&utm_medium=link&utm_content=channellink
http://www.sltrib.com/faith/ci_11679755
(2) ジョセフ・フィールディング・スミスはB.H.ロバーツと、次
いでジェームズ・E・タルメージと宗教と科学の面で激しい論争を
繰り広げたことがあった。スミスはその後影響力を持つに至った
が、大管長の地位に就いた時は、すでに高齢に達していて在位期
間も短かく、彼の以前の見解は教会を代表する公的なものとして
認められていない。
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しかし教会の教えていることを信じて、それを敢えて捨てました。
それには膨大な困難と葛藤がありました。
しかし教会と予言者を信じていたので、その教えていることを信じ、進化論を捨て創造説を受け入れたのです。
ところがその教会が運営する大学で、その教えを述べていた帰還宣教師が「この教会はそれほど狭量ではない、進化論を受け入れる度量の広さをそなえている」と言ったということですが、それならば、誰が人々を狭量にしたのか?答えていただきたいものだと思います。
この話は以前にも書かれていましたね。
NJさんがこのときを境に目を開かれたとの事ですが、この話を読んで私もまた目を開かれました。
モルモン教義が完全に破綻し、教会が信者を裏切っていることが理解できたのです。
このお話を思い出すたびに、無責任な宗教に対する破壊の意欲が強まるのを感じます。
「モルモン書」に霊的な意義を見いだしているならば
おなじくジョセフが創設した共同体に所属することにも意義を見いだすことができるのではないでしょうか?
とくに信仰にかかわる霊的な世界は人と人のかかわりの中でしか継承していけない部分があると思っています。
神の実在を信じ、その神が「モルモン書」や「教会」の中でその力を現していると信じているならば
「聖書」や「モルモン書」が虚構を含むこと受け入れても教会やその正典は意味を失うことはなく信仰は発展していくのではないでしょうか?
そういう現実を無視して、教会は本来進化論を否定していないなどとおっしゃるのはいかがなものでしょうか?
パスカルの賭け(パンセ)
「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」
すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が、結果的に一つの選択となるからだ。
賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。
反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。
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<事実の信仰>
事実の子たれよ。理論の奴隷たるなかれ。
事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。
事実はついに相調和すべし。
その宗教的なると科学的なると、哲学的なると実際的なるとにかかわらず、
すべての事実はついに一大事実となりて現わるべし。
われら、理論の奴隷たるがゆえに、しばしば懐疑の魔鬼の犯すところとなるなり。
神の言たる事実にのみたよりて、われらの信仰は磐石の上に立って動かざるべし。
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どちらも心の余裕を感じる言葉でした。
大切なのは教会の価値観を通じて幸福を得る事だと思います。
良き人生を歩ませてくれ、良い子供たちを育てる助けをしてくれた教会の価値観を子供たちも試行錯誤しながら歩んで欲しいと思っています。
賭けと損得勘定で信仰を語るところが興味深いですね。その人が何を大切にしているかを反映していらっしゃるのでしょう。
その価値観が相対化してきているから問題のでは?
教会の価値観に裏付を与えてきたものを失って
いままで絶対だと信じてきたものが相対化されていく問題ではありませんか?
その価値観は私とあなたを幸福にしたかもしれません。
しかしそれは全ての人に時代を超えて当てはまるものなのか
という問題が生じたのではないでしょうか?
>しかしそれは全ての人に時代を超えて当てはまるものなのか
という問題が生じたのではないでしょうか?
事実はことごとくこれを信ぜよ。
その時には相衝突するがごとくに見ゆることあるとも、あえて心を痛ましむるなかれ。(^^)
どこかの遺跡には最近の若いものは。。。と愚痴が書かれているそうです。古くて新しい問題なのでしょうね。
昔読んだ聖徒の道に「モルモン経探求」というのが3部にわたって特集されたことがありました。(ジョン・L・ソレンセン)
学者畑の方が書いたものだったと記憶していましたが、今はPDFで提供されています。
2月から6月にかけてです。
すこし、拾いだしてみます。
モルモン経にかかわる情報については, 見当違いの「証拠」やあて
にならない論理、そして矛盾しな結論といった問題を抱えるように
なってきている。
それゆえ, これまで行なわれてきた末日聖徒による比較研究の多くは,
聖典分析の面でも, 考古学上の諸事実という面でも、誤った情報を
与えられてきている。
そうしてみると, 考古学には考古学固有の限界があることがわかる。
そのために考古学者たちは, 自分たちの発見に 限られたかつ曖昧
な資料を基にして、筋の通った, しかし決して確定的ではな
い推理をすることを余儀なくされているのである。
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結びの言葉は末日聖徒の真理全般について言えるのではないでしょうか。
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私たちは、いかなる意味でも恐れの気持ちでこうした研究の推移を見守っている必要はない。
私たちが望ことは、ただ真理が明らかにされることことだけである。
真理を除いてほかに終わりまで持ちこたえることのできるものはない。
そして、いかなる場合であれ、あるいはいあかなる話題であれ、真理を明らかにし、真理を宣べ伝えることによって主のみ業が損なわれることはない。
それ自体が真理だからである。
私たちの先達の多くは、その望みに従い、真理を明らかにした業績のゆえに、名声を受け、私たちの尊敬と感謝との対象になっている。
しかし、たとえその人々が、ときにその考え方や推論で過ちをおかしたからといって、驚くに及ばない。
私たちの後に続く世代の人々が、現在まだ説明のつかない福音の真理の一部でも大々的に明らかにしてくれるときが来たら、私たちもやはりこの時代に、誤った概念を持っていたり、間違った推論をしたりしていたことがわかるであろう。
モルモン経自体の内容からも、そしてまたモルモン経に関しても、新しい真理を見つけ出し、それを受け入れることができるように準備をしておくことは、とりわけ教会員に託された大切な使命なのである。
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こういった姿勢で教会員や教会が真理に対して臨んでいる限り、私は教会や会員を信頼し安心していられます。
また、そのよに自分も努めることによって、主を信頼していられるのでしょう。
2月から6月にかけてです。
1985年です。
交差対句法的に最後にいただいたコメントから始めて答えていこうと思っていたのですが、9つのコメントに増えていてすぐできそうにありません。乞うご容赦。引越しで、このPCでインターネット接続ができるのは明日までになりました。
>破壊の意欲が強まるのを感じます。
破壊した後にどのように再建するか
そちらの青写真も同時に提示する責任が
少なくとも考えていく姿勢を示す責任が
私たちにあると思っています?
そのように感じさせてしまったとしたら私の本意ではなかったので、私も責任を感じます。留まる理由・意義について次のテーマとしたいと思っています。
数日前に届いたサンストーン誌に、社会学的な視点から留まる人たちの心理が書かれていて興味深く読みました。
モルモン教会は会員に対して無責任です。それは改善されなければいけません。しかしその認識無くして何も始まらないでしょう。
まずモルモン教会の現実に対しての、きっちりした認識を持ち、やがて改善の意識が強まり、無責任な教会でなくなれば、それが一番良いことじゃありませんか?
ただ、くだらない屁理屈で護教し、モルモン教会の問題から目を背けさせようとしている人々は、あらゆる努力を払っても取り除かなければならない障害だと私は思っています。