[韓国語の例。Aser Lang. School のサイトより。]
先日神権会のレッスンでモーサヤ書15:7の「御子の御心は御父の御心にのみ込まれてしまう」(平成改訂訳)という表現に、教師は見慣れない言い方でおやっと思ったという。
イエスは十字架の上で死を遂げるが、思いは天父の思いに託す、という文脈である。調べてみると、明治訳は「そは子の旨は既に父の旨に全く服したればなり」とあり、昭和訳は「子の心が全く父の心に従った」と明治訳をたどっている。
ここの表現 “the will of the Son being swallowed up in the will of the Father” は、旧約聖書の同様の表現 swallow up, be swallowed up (ヘブライ語 ba:la’a ) からきていると考えられる。原語は「1 貪欲に食べる、飲み込む、2 (受け身で)圧倒される、3 滅ぼす」の意味である。
用例を見てみると、文字通り「のみ込む」が出7:12、民16:30 などにあり、比喩的な意味で詩21:9、25:8 などに用いられている。私はモーサヤ15:7の場合、比喩的にとらえて意訳するのがよいと考える。上の教師のように、えっ、と違和感を感じさせないのが優れた訳だからである。
(「のみ込む」が文字通りの意味と比喩的な意味、日本語では理解する、英語 swallowでは真に受ける、我慢する、など二重の意味を持つのは原語に遡らなくても、見られる例である。それでもキリスト教聖典の場合やはり聖書の原語を参照すべきである。)
平成版は明治訳に比べて、字義通りの訳(literal translation )に戻っている傾向があると考えられる。
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