[山崎渾子(みなこ)氏、2015年関西学院での発表時]
岩倉使節団が1872年米国上陸後、大雪のためモルモン教徒の街ソルトレークで二週間以上足留めされ、モルモン教徒と交流があった。この時のことを、従来私たちは後の日本伝道のよい準備になった、と聞いてきた。例、「世紀を越えて」、高木、マッキンタイヤ「日本末日聖徒史」など。ただ、高木は工部大輔 [中央官庁次官] 伊藤博文、外務少輔山口尚芳と司法大輔佐々木高行の間にキリスト教解禁をめぐって意見が対立していたことに触れるなど、当時の状況を詳述している。岩倉具視がこの時禁止令を廃止する意思がないことを表明したことにも触れている。
30年にわたって、岩倉使節団の報告書「米欧回覧実記」に見られる信教の自由について研究してきた聖心女子大学教授(2006年当時)山崎渾子(みなこ)氏は、日米の末日聖徒の見方とは違って、上記佐々木や実記の著者久米の視点を紹介していて注目した。
一行の間で日本における信仰の自由について論議され、伊藤と山口が佐々木に禁教をいつまでも続けるのは困難である、解禁に踏み切るべきである、と言ったところ、佐々木はこのような重要な事柄を出発前に決めないできて、途中で論じるのは誤りであると答えた。翌日このことを大使岩倉公に伝えると、「決して今回は解禁しない」と答えたという。
著者は久米のメモを引き、「信仰の自由論もモルモンの例を見ればわかるように限界がある」、という判断を紹介している。なお、伊藤博文は性急な「飛び切り論」者と呼ばれ、久米は彼の信仰自由説に批判的であった、と見る。一行はユタに留まることによって、「はからずも信仰の自由政策をとる米国政府のモルモン教徒への対処について見聞することができた」のであった。
参考
山崎渾子(みなこ)、「岩倉使節団における宗教問題」思文閣出版、2006年、pp. 75-77。
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http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/d7d96c642cffe87fb19f4e0f4ded329c
岩倉 フリーメイソン
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E5%B2%A9%E5%80%89%20%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3
徹頭徹尾のメイソンであったヒーバーCキンボールは、ブリガムの古くからの知己であって、ブリガムがバプテスマを受けたと聞き、教会に加入・・・教会支配層(英国関連)と明治元勲らは(欧州・英国からの)、フリーメイソンつながりに・・・
ブリガムの正体・実像や如何
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%A5%D6%A5%EA%A5%AC%A5%E0%A4%CE%C0%B5%C2%CE
それを解禁したのは、明治政府発足後5年ほど経った1873年2月24日であった。
この解禁の理由は、岩倉使節団から本国への要望が有ったことは確かだが、それは「信教の自由」等と言う人権に対する配慮ではなく、あくまで欧米政府からの圧力によるものです。
江戸幕府末期に、締結を迫られ交わした「日米和親条約」は日本にとって不利益な事が多く、明治政府は早くその条約を改定したくて、交渉したが、改定の条件の一つとして、「キリスト教を弾圧するな!キリスト教を解禁せよ!」と言う条件を強く出されたので、仕方なく解禁することに成った。
岩倉使節団がモルモン教徒とたまたま遭遇したこととは、まったく関係が無い!と思いますがね~。
モルモンと岩倉使節団にそんなに深い関係は無かったはずですけど・・・??
豚さんのコメントとブログ記事本文の間に相違はないと思います。森有礼や伊藤博文が信仰自由説を推進したのは、そうしないと条約改正が実現しそうもないと見たからで、(圧力に直面した)、今日的な意味で人権に対する配慮といった観点に根差すものではなかったと私も思います。近代国家になるためには、とその方向に向かったのでしょう。
ユタに滞在することになったのは、むしろキリスト教解禁に慎重になったと山崎さんは読んでいるわけですから、豚さんの指摘と相違するものではありません。
私が注目したのも同じで、日本のlds教会内で使節団がlds教会に好意を持った、あるいは伊藤とパイプができたことに注目してきた傾向がありますから、別の視点を山崎さんの記述に見て掲げたわけです。
このスレッドの趣旨はNJさんのおっしゃる通りだと解釈しております。
私は、モルモンジャパンの我田引水体質に対する意見を書いただけです。
モルモンジャパンは、日本のスポーツマスコミと同じように、(自国の選手を)何でもかんでも良いように言う傾向が感じられます。
その結果、自己の正しい評価が出来なくなってしまって居る様に思います。
岩倉使節団がたまたまユタに立ち寄ったことは、その後の日本のキリスト教感には全く影響を与えていなかったと思います。
ま、良いところを探して持ち上げるのはファン心理としては理解できますが、関西のプロ野球チームのファンの様に、贔屓の引き倒しって感も見えます。
ファン(扇風機)と言うのは煽り立てるものですがね。