[われ異邦人なる汝等にいふ、我は異邦人の使徒たるによりて己が職を重んず。]
magnify という語はモルモン書ヤコブ書1:19 (2:2) に、magnify our office の形で出てくる。普通、現代英語でmagnify は make large 「大きくする」という意味である。それで昭和訳は、「私たちは力いっぱいの努力をした」と訳されていた。現在、平成訳は「自分たちの務めを尊んで大いなるものとした」となっている。
magnify は、聖典でも「大きくする」という意味で使われることがある。例、歴代志上29:25、創世19:19、教義と聖約132:64。しかし、聖書や末日聖典では多く、特に目的語に「務め、召し」(office, calling) がくるときには、ローマ11:13の”I magnify mine office” (τὴν διακονίαν μου δοξάζω [doxazo]) の表現を引き継ぐものと考えられる。これは留意すべき大事な点である。
ところでこの "magnify (δοξάζω, 英語で extol, 「讃美する」) one’s callingは"、もう過去の話になるが、教義と聖約84:33 の和訳に「全力を尽くして遂行する」と訳されたことがあった。(同じ表現が24:3, 66:11でも使われた。1967年昭和訳)。それで真面目な日本人が懸命に教会の責任を果たそうとして、疲れ切ってしまうことが生じた。
今は「尊んで大いなるものとする」訳され、「讃美する」と「大きくする」の両義を折衷したものとなっている。英語 magnify の歴史を見てみると、14世紀末に「称賛する、賛美する」という意味で用いられ、1660年代になって「拡大する」という意味が加わり英語独特の発展をとげている。
1989年ヒンクレー第一副管長は、総大会の説教で magnify の聖書の用法「尊ぶ、重んじる」にも触れて説教している。
[参考]
ローマ11:13の翻訳
「わたしの務を光栄とし」(口語訳)
「自分の務めを光栄に思います」(新共同訳)
「自分の務めを重んじています」(新改訳)
「敬重我的職分」(中国語訳[和合本])
現代英語訳モルモン書ヤコブ1:19
“We worked very hard … (L.M.Anderson, 1995)
“We increased in our commitment…. (T.B.Wilson, 1998)
この二つの訳では「拡大する」という現代の意味でとらえている。
www.etymonline.com
沼野治郎「全力を尽くして召しを遂行する - - しかし、中庸を忘れないで」モルモンフォーラム10号(1993年春季)
召しを重んじると拡大するというニュアンスから、上から言われてハイハイと勤めを行うのでなしに、積極的に召しを遂行していくの意味は含まれてはいないだろうか。
逆はお役所仕事に相当する。
全ての責任は下の者に負わせよ、全ての名誉は上の者が受けよ、がモルモン教会の運営スタイルなんですね。ひどい話です。
http://www.geocities.jp/waters_of_mormon/forum/index.html
モルモンフォーラムを取り上げさせて頂いたきっかけにもなった記事です。
昔は結構な原理主義者で教会の責任に苦しみを感じていたので救われた思いがありました。
現在のフランス語の語感からも「称賛する、賛美する」という意味があります。
又、画家が王様を前にして肖像画を描く時、その王様への尊敬、偉大さ、栄光「らしさ」などを描く状況にこの言葉も使われると思います。
一方、実際にその人、物がその状況になくても、例えば「大きくみせる、かける」と言ったニュアンスで使われる意味合いもあると思います。
おそらく、この使用法から英語の「大きくする」が生まれ、発展したのではないかと想像します。
ですがモルモン教会用語は英語が起源であると見るべきであり、聖書のように千数百年前の外国語の語義を意識する必要はありません。
理由の説明は不要だと思います。
http://www.thesaurus.com/browse/magnify
「Magnificent Seven」
彼らが戦ったように職務を果たしてこそ初めて自分の召しを magnify したと言えるでしょう
やはり「全力を尽くして遂行する」は正しい意訳なのでは?
> やはり「全力を尽くして遂行する」は正しい意訳なのでは?
以上のような直感的論理はよく理解できます。実際、現代英語の語義に向かう傾向というか影響を私も認めます。
しかし、「モルモン書のどのページにも聖書(欽定訳)の痕跡(echo)が見られ聖書の影響を強く受けていることがわかる。それと19世紀アメリカの英語の両方が組み合わされている」(M.D.トマス)(当ブログ2011.12.16記事)こと、「ジョセフ・スミスが聖書の本文を分解・再構成して新しい物語を生成した」と捉える研究者もいることに注目しています。BofM(JS)は過小評価も過大評価もできない書物(人物)だと思います。(当ブログ2008.7.12記事)
それで、バプテスマ、愛(慈愛)などは聖書に遡り、偽善売教(priestcraft) ,神権時代(ldsが言う語義、教義と聖約)などは聖書に遡らない語になります。私は重要な語彙は聖書の語彙に遡って語義を確認することが欠かせないと考えています。エンダウメントもルカ24:49 endue (力で覆われる)に遡ることが分かります。
adieuについては、弁護しようと思いません。JSが少し気取って「さらば」と書いたものと見ています。(今日、普段人々が別れる時、滅多に「さようなら」と言わないで、いろんな言い方をするように、adieu も英語に入っていたと説明する人もいます。)