「忌(いみ)」
他との接触を避けねばならぬ者とそれを取り巻く者との間に、絶対に
守られなければならぬ信仰感覚によって保ち持続される状態をいう。
≪物忌みの展開≫
・三重県度会(わたらい)郡→「忌(うま)れ」
・香川県三豊あたり→「忌(おそ)れ」
・広い意での呼び方→「忌(ひ)」・「服」=ブク・ボク(服忌の服の意)
・「穢(けが)れ」も「清さ」も「忌」
これらの忌を犯すと、罰・祟りを受けた。
中世以後には「物忌(ものいみ)」という語を多く使う。
① 忌を守らねばならぬ状態をいう。
祭りに奉仕する者がすべての外から来るものを
避けようとする場合。
② 忌を守る任務にあたる者をいう。
物忌の父・母、物忌役の娘や巫女を言う場合。
③ 特別に清いものをいう。
神の用にしか立てぬものにつけておく一種の徴章(しるし)や、
忌衣の模様のような場合。
古くから忌(ひ)は人に属するもの・日・土地に属するものなどがあり、
その制限はよく似ている。
山の神の春秋の祭りの日は午前中山に入ってはならないとか、
地神祭りの「金忌(かないみ)」とは農耕用の金物をいっさい使わぬこと
などは、「イミ」とか「ダチ(火物ダチ・青物ダチ)」と呼び、
ショウジン(鶏精進)ともいう。
≪忌みの内容変化≫
「イミ」・・・嫌(きら)うというのではなく、一日中行いを謹んで、
農作などを控えるということ
「ナエミノイワイ」・・・播種後四十九日・五十日目に苗をとらず
祝うとし、「苗厄(なえやく)」ともいう。
神が苗代へ降り賜うと信じたゆえであろう。
すなわち、「ヤク」と「イミ」と「イワウ」の連関が考えられる。
忌を犯すと身に罰・祟りを受けた印象は、斎戒を意味する事から禁忌
の意となり、転じて厭悪(=いまわし)の意義さえ生じた。この過程には、
神が人の間に天降られるために人は銘々謹慎したのだが、後には畏怖
のあまりそうすると考えるようになり、伊豆諸島のように海南坊(カイナンボウ)
などの怪物・異人などの来臨を説くこととなった。
≪別火生活≫
〔壱岐の島の例〕
葬式時、身内の一定の者だけが分け食う物が、「火の飯」といわれる。
「火」・・・「忌」の義
「火が悪い」・「火が清い」などと用いる。
「ヒデ」・・・忌飯料・香典を意味する。
忌むものは、別火の生活をするゆえに、「イミ」のことを「火」ともいう。
正月十五日に、青少年戒の行事のひとつに、浜・野などに籠をつくり、
そこで煮炊きしたものを食い合う(イソモチヤキ)こと、自分の家の火を
用いぬ盆籠・辻飯なども、忌火(別火)思想の現われであり、通例月毎
の下弦の一夜は、物忌みの日であり、その次の日に祭りを行う。
全国で行われている、「とんど」・「どんどやき」など。
↓↓
「とんど・どんどやき・左義長へ (後日更新予定)
「忌≪いみ・いむ≫ ☆ 2 」は→ こちら
「忌≪ひ≫ ☆ 3 」は→ こちら
『日本民族語大辞典』桜楓社:石上堅著
【 おみくじ 】
神社・・・御神籤(御籤・御御籤とも)
寺院・・・御仏籤
くじ=偶然を利用して物事を機械的かつ公平に決める方法のこと。
おみくじ=「くじ」に神意を求める方法
普通のくじとは違う一線を画すが為に、
丁寧語の「御」「神」という文字を入れる。
≪おみくじの誕生≫
平安時代の末ごろ
物事の善し悪し、重要事項の決定、勝敗の決定、後継者人選、
物事の順序の決定などの際、神の意思を知るための方法として始まった。
≪主なやりかた≫
短籍方法・・・竹・木片・紙片などに人名・事項などを書いておき、
神様に祈ってから、ひとつを引き出す。
≪神社のおみくじは鎌倉時代から≫
☆南北朝の歴史物語中の記述・・・『増鏡(ますかがみ)』
「四条天皇崩御の知らせを受けた第3代執権の北条泰時が
鶴岡八幡宮でおみくじを引いて、後継の君を決めた」
☆室町時代の中ごろ(正長元年〈1428〉)
将軍・足利義持の急死のため、次期将軍決定のための
くじ引きが、京都の岩清水八幡宮で行われ、足利義教(よしのり)
が第六代将軍となった。
コレ以後今日に至るが、神様の目前でくじ引きを行うことで、
神意をより正確に把握する目的があったと思われる。
≪おみくじは神意の表れ≫
つまり、単なる吉凶判断は禁物ということ。
今後の生活に生かすべきもの。
大吉・・・油断大敵
「あとは下がる」と考えて気を引き締めるべき。
凶・・・・・新たな出発点
「自分を見つめなおすチャンスをもらった」と考えればよい。
読み終えたおみくじを境内の樹木に結びつけるのも悪くないが、
神様からのメッセージとして自戒の意味で持ち歩き、
新しいおみくじを引いたとき、神社に納めるのが最良のやり方である。
『図解知ってるようで意外と知らない 神社入門』 渋谷申博:著
あらら~、
今まで大吉だけを一年間のお守り代わりに
財布に入れて持ち歩き、吉凶や吉でも
あんまりよくないこと書いてあったら
境内の樹木に災難祓いに結び付けていたけれど、
ちょっと考え方違うみたいですね~。
自戒のため・・・かぁ、
じゃあ、
どっちかいうと全ておみくじは持っていた方が良いみたい、
だって何が書いてあったか忘れちゃうもんね~。(笑)
去年のを「有難う御座いました」と
新年にお納めする方がいいってことね。
あ、去年でなくても、良くないのは
次に引いたときに納めればいいのか、
次からはそうしようっと♪
大吉でも油断大敵!
わかっちゃいるけどやっぱり喜んじゃいますね。
≪喫茶≫
【国語】 きっさ
茶を飲むこと。「喫茶店」
【参考】
喫茶とは仏教独自のものではなく、古くから中国に伝わる習慣であった。
ただ禅宗では団体生活を送る中で、日常の節目ごとに全員が集まって
茶を飲む茶礼というきまりがあった(『禅苑清規』一巻、赴茶湯)。
このようなこともあって茶は禅宗と深く結びついてやがては日本において
禅の精神が取り入れた茶道が生み出されるに至った。
≪喫茶去≫
【禅語】 きっさこ
☆『国語の中の仏教後辞典』 (東京堂出版)
中国唐代の禅僧、趙州従諗(じょうしゅうじゅうしん:778~897)が
修行僧に言った語として有名である(趙州録)。
「お茶を飲みに行け、お茶でも飲んで出直して来い」
という意で、相手の不明を叱責する語である。しかし、後には、
「お茶を召し上がれ」の意に解され、お茶を飲むという日常の営み
そのままが悟りであるという意にとられるようになった。
~以下『禅語喫茶去』様HPより引用させて頂きました~
☆『 訓註 禅林句集』 (改訂版)
「まあ、お茶を一杯召し上がれ」
☆『茶の湯 禅語便利長』 (主婦の友社)
「喫茶はお茶を飲むの意味、去は意味を強める助字。
従って、お茶でも飲もうよの意味」
☆『禅語字彙』 (柏林書店)
「茶でも飲んで行け」の機語。
☆『禅語辞典』 (恩文閣出版)
「喫茶し去れ」お茶を飲んでから出直してこいの意味。
☆『禅林名句辞典』 (国書刊行会)
「むずかしい話は抜きにして、まあお茶でも召し上がれ。
お平らに、お楽にという意味」
【 趙州喫茶去 】
この言葉は次のような話にちなんでいます。
趙州禅師のところに二人の修行僧が来た。
師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧一: 来たことがありません
師 : 喫茶去
もう一人の僧に趙州がたずねた。
師 : 前にもここに来たことがあるか?
僧二: 来たことがあります
師 : 喫茶去
院主が師に尋ねた。
院主: 前に来たことがない者に『喫茶去』とおっしゃり、
前にも来たことがある者にも、『喫茶去』とおっしゃる。
なぜですか?
師 : 院主さん!
院主: はい。
師 : 喫茶去
~ 引用 ココまで ~
【 『碧巌録』 第九五 】
長慶:煩悩を断ち切った阿羅漢でさえ煩悩たる貧瞋痴(とんじんち)
の三毒があると如来は説いておられる。
保福:説くのは一つであっても、受け取り方は聞くほうによってわかれる。
長慶:やはり如来が説法した語がある。ただ唯一無二大乗の法のみ
あって、二無く三無しだ。常に大慈大悲の一言一語ある。
保福:如来語だの衆生語だの区別することが既に執(とら)われである。
長慶:如来のありがたい言葉も耳が不自由ならば聴けぬぞ。
知れきったことを聞くのは聾同様、云うても無駄だ。
保福:貴公は第二義門に落ちて注釈をしておりはせんかな。
という二人の問答(要約)ののち、
―― 慶(長慶慧稜、854~932)云わく、
作縻生(そもさん=いかに、いかん)か是如来の語。
保福(従展〈じゅうてん〉?~928)云わく。喫茶去。――
(意味)長慶が、「如来の語とは如何」と尋ねた。
是に対して保福は何と答えたか。
「まあお茶でも飲んでいけ」と。
「喫茶去」はお茶席によく掲げられる文字だが、上記のように
辞書にいよっては解釈がいろいろあるようだ。ネットで検索したら、
「茶を飲んで去れ、お茶でも飲んで出直して来い」という意味では
決してないという注意書きした喫茶店も多々見つかった。
―― しかし、
私はこちらのサイト様のご意見が一番納得しました→ 『喫茶去とは!?』
日本における茶の道の完成者、千利休ももちろんそのことの意味
をよく知っている男だった。その上で利休は、こうも云った。
「自分の亡き後、茶道は広まるだろうが、お茶の心は廃れるだろう」
確かに利休の時代のお茶の心は、心の修行、禅の修行へと繋がり、
悩み多き辛いものとなっていたに違いないでしょう。
でも、また、時代が変わりお茶が大衆のものとなってしまったからには、
今現在をありのままに受け止めて、「茶を喫する」ことは、やんわりと
人の心が癒されるものになってしまったとしても、それもまた、現代の
お茶の心と言えるのかもしれません。ようは、それぞれの見方で、
見る人によっては変わってしまうものだから、答えはひとつではない。
こだわりを捨てること・・お茶を頂くという動作は変わらない。
今、そのときそのときを大事にしましょうということなのだと思います。
日常生活の中にこそ仏法があるのですから。
≪参考に≫
『碧巌録』
宋時代(1125年)に圜悟克勤によって編された。雪竇重顕選の公案百則に、
垂示(序論的批評)、著語(部分的短評)、評唱(全体的評釈)を加えたもの。
入矢義高、末木文美士、溝口雄三、伊藤文生4名の校注が、岩波文庫と
ワイド版が上中下巻で、現代語訳版も末木等の「碧巌録研究会」により、
岩波書店上中下巻で刊行された。末木文美士 『「碧巌録」を読む』(岩波書店
〈岩波セミナーブックス〉、1998年)も出版されている。
旧岩波文庫版『碧巌録』全3巻は朝比奈宗源校注だったが、一穂社で復刻されている。
同じ禅者で花園大学学長も務めた大森曹玄 『碧巌録』上・下(タチバナ教養文庫:
たちばな出版、1994年)がある。(ウイキペディアより)
『国語の中の仏教語辞典』 森 章司:編
『碧巌録提唱 下巻』 西片擔雪:著
―― 最近の友人達との話。
「最近、なんでこんなに子供の自殺が多いのだろうね。」
「死ぬ気やったら何でもできると思えへんのかなあ?」
「やれることやれ、ちゅうねん!せめて親に相談するとかぐらい
してもらわんと勝手に死なれたらたまらんわ~。」
なあんて話から出るわ出るわ・・
身近な友人、親戚、知り合いでの自殺者がいるとのこと。
いつも、「えっ! なんで~?」と思うんだって。
親にも廻りの友人達にも先生にも相談してなかったらしい。
けれど皆殆ど、なんとなく噂(?)のような感じで知っているとか、殆ど
遊んだ事のない子の自殺でもメールで回って来て知ったりするらしい。
また、自分の息子が結婚して幸せ一杯だと思っていたのに、
たった新婚3ケ月で新妻が自殺した人の話も聴いた。
彼女の場合は、欝のような病気だったのかもしれないが、
はっきりはわからず、誰も彼もそれこそ新郎の方も突然の事で
納得できない、受け入れることができない状態・・・
母親としては息子が心配で心配で仕方がないのだという。
しかも相手の親にはDVとか思われて責められたのだとも・・・
もちろん誓ってそんなことはしていないし、彼女におかしなところも
無かったという。
「親とのおしゃべりは、小さいころから癖のようにつけた方がいいね。
出来るだけ“後でね”ということは避けたほうがいいね。一旦もういいやっ
て思い込むと二度と自分の気持ちを言わなくなるし、学校であった事
さえ言わなくなるから。」
毎日話をする友人達の子供たちは、どちらかというとよくしゃべる子たち
なので他人事のように思っていたけど身近にも聞く様になったと自分の
子にも気をつけねばと心配している。
『損得でくらべる宗教入門』という本で著者中村圭志氏は、
「日本語に「宗教」という言葉があったわけではなく、明治になって欧米の
文献を訳すに当たって「religion」の訳語としてこの字を当てはめただけで、
全くの近代の「流行語」なのだ、と書いている。
~ 以下引用~
もともと釈迦オリジナルの悟りというのは、人間の欲望の空虚さを見抜いて
心がぶれないようにするものだった。神も仏もどうでもいいのである。
対するイスラム教には、「アッラー」と呼ばれるはっきりとした概念があるが、
日本の「宗教」教団の信者は自分とこの神様がなんという名前のどんな神様
なのかわかっていないことも多い。
極端にいえば、我々にとって神様とはお飾りであってライフスタイルだから、
教団員どうしお互いに助け合うことが「神様の道」であり「人間の道」なのである。
「宗教」にちゃんとした定義があるわけではないし、世界各地の伝統のライフ
スタイルや「生活の知恵」を定義しようとすること自体無謀で、学者や役人の
驕りだと中村氏はいいきる。
まあ、神頼みなんぞを始めると、家族は不満に思うかもしれない。
しかし、ここで頭の体操、究極の選択だ。
①家族を棄てて自殺する。
②家族を巻き込んで心中する。
③家族を棄てて宗教に走る。
④家族をなんとか丸め込んで宗教に走る。
のどの選択肢が望ましいかといえば、自殺だの心中だのより宗教に走った
ほうが(③か④)断然いい。死んで花見が咲くものではないからだ。
(ヒント:死にそうなほど困ったときは、あなたの思いつくあらゆる選択肢を
数えあげなさい。その中の一番実質的な得の多い選択肢が、とりあえずの
貴方の答えだ。これはユダヤ伝来の考え方である。
宗教とは人を安易に死へとお誘いするようなものではない。
命根性汚くこの世に踏みとどまることを命じるのが宗教の本筋である。)
~引用 終わり~
悩んだ時とにかく大事な事は「我に返る」こと。
宗教は知ることが大切であってそれが真か偽かなんて論証すること
はできない。今自分がイメージして考えたり行動したりしているのは、
今ここにいる自分自身(我)が主体であることに変わりないのだから・・・
まさに、天上天下唯我独尊(※)である。
~「故事ことわざ辞典」より~~~~~~~~~~~~~~~~~~
※天上天下唯我独尊
【読み】てんじょうてんげゆいがどくそん
【意味】 この世に個として存在する「我」より尊い存在はないということ。
人間の尊厳をあらわしている。
「唯我独尊」はこの世に自分より優れたものなどないという
思い上がりの意味でも使う。
【注釈】 釈迦が誕生したとき、四方に七歩ずつ歩き、一方の手で天を、
一方の手で地を指して唱えたという『長阿含経』の話に基づく。
「我」は釈迦本人の意味ではなく、個々人であるとする。
それぞれの存在が尊いものであるということ。
「てんじょうてんがゆいがどくそん」とも読む。
【出典】 『長阿含経』
【注意】 「自分が一番えらい」というような、うぬぼれの意味では使わない。
誤用例 「この世の中を自分が支配して、天上天下唯我独尊にしてやろう」
【類義】 唯我独尊
【対義】 -
【英語】 -
【用例】 「自分と意見の違う人がいても、天上天下唯我独尊の気持ちで
理解し合えるよう努めたい」
最近は、宗教を信じない日本人が多くなったと言われるが、
宗教って中村氏の言うように本当はその国ごとのライフスタイルなのだと思う。
先祖代々やってきたから自然とそのスタイルにはまってしまっているのだと。
特に日本においては、強制されたような時代もあったから殆どの人々は、
人間が社会で生きていくためのルールやモラルなどを教えるのに都合いいもの、
もともと信用するというより、概念としてとらえてきたものではないだろうか。
今現代の子供たちに願う!
宗教を信じる信じないなどどうでもよい。
しかし、次のことわざは覚えておこう。
「天上天下唯我独尊」 (上記の※を見てね)
この世に存在する「我(=自分自身)」より尊い存在はないということを
しっかりと胸にとどめ、人間誰しも、親であれ友人であれ、誰であろうと、
相手も皆そうなのだからできるだけ仲良くしてほしいし、
お互いの自分自身を、命を、大事にしてもらいたいです。
そしてどんな生き方でもいいから生きてほしいです。
袈裟(けさ)
【 袈裟の真実 】
袈裟=チーヴァラ(サンクスリット語)
〔着る、装う〕 衣類、特に仏教僧がまとう襤褸(ぼろ)着。
“チーヴァラ” とは「着物」のこと、特に「仏教僧」の衣をさす。
チーヴァラは一人につき3枚必要→三衣tri-clvara
三衣・・・袈裟衣kasata-vasanaともいう。
ボロ布を継ぎはぎして一枚布に仕立てた衣。
三衣を体に巻きつけるのが、仏陀が定めた修行僧のコスチュームだった。
≪ 袈裟 ≫
①下半身用
腰巻(ルンギー)・・・畳大の布 (下着は普通つけない)
②上半身用
①と同大またはやや小さめのショールを上半身にかける。
汗を拭いたり、頭に被って日差しをよけたりする。
③全身用
ショールの上に重ねる。(1x 3mぐらい)
外套用の布、または大ショール。
女性・・・一番華美な豪華なおしゃれ着
男性・・・礼装
北インドの冬は寒いので毛布みたいなものを巻いて
受戒や乞食に出かけたり、王などのパトロンに
招かれた時着用する。
③の全身用の礼装が日本での「袈裟」の原型となった。
インドでは基本的に①~③までは、俗人も出家も変わらない。
≪ 仏陀の独創性 ≫
当時のインド女性は、母性の象徴として乳房を露出していたし、
腰巻の布もモスリンのように透けるものが好まれた。
禁欲を強いられる修行僧の前に、こんな女性がうろちょろしていると、
修行どころではなくなってしまう。
そこでブッダはエロティシズムを封殺するために、女性である尼さん
への第四、第五の布の着用を義務付けた。
④サロン(腰巻の下につける)
今のペチコート
⑤乳房を隠すための布
・ブラジャータイプのもの
・膝丈のスリップタイプのもの
≪ 袈裟の着付け ≫
1) 胸を⑤の布で覆い、④のペチコートを付ける。
2) ①の腰巻を巻き、前面をたたんで、紐で締める。
3) ②のショールを二つ折にし、右脇から左肩へと巻きつける。
4) その上を③の大ショールで覆う。
古代インドでは鳥獣葬が行われているところが多かった。
林の中に死者を放置して、ハゲワシやジャッカルがついばむに任せる。
そのかたわらにも僧侶はいた。
死者を弔うのではなく死者の身ぐるみを剥いでいたという。
ゴミ溜めや屍林からあさってきた汚臭をはなつボロ布をつぎはぎして
仕立て直した、出家=世棄人(サンニャーシン)の衣装だった。
材料としては、屍体から剥ぎ取ったものがもっともよし、とされた。
インド人の衣装
男・・・白
女・・・赤青黄など色鮮やかのものを好む
僧衣・・・きたない色の衣(=カシャーヤ・ヴァサナ)
不浄な布をパッチワークした色が判別できないもの
「カシャーヤ」が中国で音訳→ 「袈裟」
ヒンディー語で「カーキー」となり、
イギリスに伝えられて、カーキ色の「カーキ」になった。
「袈裟」も「カーキ」も、もとをたどれば同じ、色褪せたカーキ色
(枯れ草色・土埃色)の衣こそが、世俗的な価値観を放棄して
乞食(こつじき)に生きる出家の象徴だった。
『図説 インド神秘事典』 著:伊藤武 参考
立派な絹の羽二重や金襴緞子の袈裟ならばそれはまがいの袈裟、
いやいやこうなるともう、日本仏教はやっぱり別なもの、
日本独特の仏教に変化しちゃった~と考えた方がいいですね。
もともと出家とは世俗的なもの全てのものを放棄するもの、
ってことは裸で出て行くってこと、そして、生物の輪廻を信じるならば、
屍は土へと帰り、いずれ何かに生まれ変わる。
そして持ち主のいなくなった衣服を土に帰す前に、
もうしばらく使わせてくださいね、というようなところでしょうか。
そうならば、屍体から衣服を頂戴するのを最良の材料とするのも納得、
自分が修行するため生きるための食事を人に乞う「乞食(こつじき)」
もそういやそうかぁ、と妙に納得しました。
先祖の代わりに食べていただく食事をその子孫から布施して頂く
「托鉢」はまた違うものなんですね。
昨日、タイではお坊さんが托鉢で頂く布施の食事が高タンパク質、
高カロリーなものばかりで、肥満の僧が増えてダイエットに励んでいる
というニュースをTVで観ました。
人々は我がご先祖様へ美味しいものをと願い、どうしてもそうなる
のだそうで、お坊さんもそういう人々の気持ちを察して、
残さず頂いているからだそうです。
なんとも皮肉な・・
ご先祖を思う心がお坊様の健康を害するとはね。
日本では、お坊様は精進料理を修業のため行っておられ、
一汁一菜というような質素がよいとなっていますね。
お弁当を頂いたから、あるいはお供え物を頂いたからと
必ずしも全てを自分だけで食べるわけではありませんね。
ところ(国)変われば、いろいろ変化するのは当然かもしれません。
何でもその時代ごと、合わせていかなければ廃れてしまうもの、
長い目でみれば、
どこの宗教も少々は変化して来ているのでしょうね。
【重陽の節句】
詳しくはこちら→こよみのページ様HP【重陽の節句・菊の節供)】
重陽の節句はたびたび出てくる中国の重日思想から発した祭日。
重日とは月の数と日の数が同じ数字となる日付、めでたい特別の日付と考えられた。
9が重なることから重陽の節句は「重九(ちょうく)の節供」とも呼ばれる。
次に重陽の陽ですが、中国伝来の陰陽説によれば、奇数は陽の数、偶数は陰の数
とし、9は一桁の奇数としては一番大きな数なので「陽の極まった数」として陽数を
代表する数と考えられた。ということで「陽の極まった数の重日」が「重陽」となった。
【 菊の節供 】
関東・・・菊の節供はトオカンヤで、十月に入ってからが多い。
十月十四日の夜を十夜といい、あの世で菊の花の品定めがあるという。
そこで菊をとり、墓辺に捧げる。
日本では白菊
中国(唐来物)は黄菊(中国の黄色信仰によるものか)
関西・・・亥の子の日(武士・農夫・商人の亥の日と区別をつけたり、
二月の初亥を春亥の子といい、田に神降り、十月亥の子に、
倉・山などに戻るとし、餅を備える)
また、菊の花房をつけた餅を親方に送ったりする。
都の九月の重陽の節供と、田舎とでは、菊も稲も九月では早すぎる。
田舎の農村で流行らなかったのは、稲刈りの時期で忙しいのにそんな悠長な
ことしてられんわい、というようなところでしょうか。
庶民の生活においても、今でこそ早咲きの菊などはさいているけれど、
本来菊は晩秋にかけてが見どころ、9月9日じゃあ、少し早すぎて、
行事としてはだんだんに忘れられて廃れてしまったようですね。
東北地方・・・菊の日を大切な節日とし、またこの日の晴雲によって、
翌年の豊凶を卜する例もある。
また大晦日に菊の枝を炉にくべてその香りをきく。
『壒嚢抄(あいのうしょう)』
「九月九日には、菊の花は『鬼の眉』と呼び、酒に入れてのむと、病を去り命ながし」
『今昔物語』
三善清行が備前ノ小目、賀陽良藤が妻に逃げられて気落ちしている時、
狐の女性からの使いが菊の花に手紙をつけて持ってきて契っている。
『雨月物語』
「菊花の契り」(丈部左門と赤穴宗右衛門別れにあたり、重陽の節供に戻り、
菊花を汲もうと左門に約束したが)幽閉されて果たせず、自刃して幽鬼となり訪れる。
≪中国小説のなかの菊と寿命の話≫
『喩世明言』
「菊慈童伝説」・・・菊花の霊薬を菊水(菊酒)とした
周の穆(ぼく)王に仕えた慈童は過ちを犯したため、虎狼が充満する酈県山
(りけんざん)に流された。王はこれを哀れみ‘法華経’の二句を授け、毎朝
これを唱えるようにといった。慈童は忘れぬようにと仮小屋の側に生えている
菊にこの句を書きとめたところ、この菊に溜まった露が下の流れに落ち、
谷川の水が‘天の霊薬’になった。慈童がこの水を飲むと天の甘露のように
美味で、虎狼も恐れて近かづかなくなり、しかも慈童は不老不死の長寿を得て、
800年あまり経ってもなお少年の童顔であった。
魏の文帝の時、慈童は仙術を文帝に授けた。帝はこれを菊花の盃に伝えて
万年の寿をされた。これが“重陽の宴”の始まりという。
(参照HP→「重陽の節供と菊の特集ページ」様より引用)
『荊州記』
周知の中国南陽県酈県の北32kmの谷水は、菊群生があり、その花の滴り・雫・雨など
で洗われた水で、甘く芳しく菊水と呼び、その領域に住むものは、その水を用いるゆえ
120・130歳の長寿だと伝えている。
重陽の節供の起源は中国では2000年前の前漢時代だといわれている。
1989年には中国の「老人節」 になり、 中国ではこの日、茱萸(しゅゆ=ぐみの実)を袋に入れて
丘や山に登ったり、 菊の香りを移した菊酒を飲んだりして邪気を払い長命を願うという。
現代では昔ながらの行事は、今の生活に合わせて日付を決めたり、
少々都合いいように形骸化されてしまっていることが多いようですね。
でも、長寿を願う行事や昔ながらの行事が全く無くなってしまわないのは、
やはり、自然と関わる生活が一番健康にいいと身体が感じているからかも知れませんね。
【 物忌場所 】
古くは、海浜または海に通じる川の淵などに作られたもの
↓
村落が山野に深く入ると、大河の枝川や池・湖の入りこんだ所など
を選んで、ユカワダナ(差し出し棚・湯河板挙)を作った。
その地で生まれ育った女子は、その村落の神の嫁となる神女で、
物忌み籠り・修行をし、成女戒を受けはたした後は、女子皆この
資格を得ることができた。その中から選りだされた兄乙女(えおとめ)
が、この棚造りの建物(サズキ・サジキ・タナとも言われる仮屋)に
住んで、神の訪れを待っている。
↓
こうした処女の生活が、後世伝説化して水神の生け贄といった型に入れられる。
【 手布(たな) 】
訪れる神のために地機(じばた)を設けて、タナ(手布)を織っていた。
その手布による神忌布・神忌衣は、神の身そのものと考えられていた。
この印象が外国から渡来した置部・海部伝承の信仰を受け継ぎ、
今に残る深淵・大河・渓谷の掟・滝壺の辺りに、筬(おさ)の音がするとか、
水底に機織る女がいるとか伝える――若い女とも婆様ともいうが――
村落から離れての生活(人の近寄れぬ所)のためその年齢は不明になる。
これは、常世神とそれを迎える巫女の姿であり、
特に初秋の水神祭りが、農作の豊穣を祈願した夏祓えと同じく、
川水に供物・流し物をし、機織る女(たなばたつめ)
――銀河の織姫星が持つ常世神――牽牛星と輪郭がそっくりゆえ、
漢文学に溺れた藤原・奈良時代の歌人を喜ばせた。
七月七日・・・星祭の支配から選ばれた日取り
本来は季節の交差点に行ったいわゆる「ユキアイ祭」であった。
歌人だけでなく、「※乞功奠(きこうでん)」の星の故事を学んだことは、
手習師匠などの感化もあるようだ。
※「乞功奠(きこうでん)」~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔技巧を乞う奠(=祭り)の意〕陰暦七月七日の行事。牽牛(けんぎゆう)・
織女の二星を祭って、手芸・芸能の上達を祈願する。中国から伝わった
行事で、日本では奈良時代から宮中で行われ、のち七夕として民間にも
普及した。(三省堂大辞林より)
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【 田端祭・種播祭・タナマツリの古型の残存 】
根源・・・農作予祝祈願
「田端祭」「種播祭」「タナマツリ」ともいう。
「タナ」・・・種子のこと
「タナバタ」・・・田端すなわち水口
苗代播種の日の祭りが行われ、炒豆・焼米とともにキリコという小さな
切り餅を苗代の水口に供え、寄ってくる子供などに分けてやるが、祭壇
には桜などの季節の花を供えるほかに木の枝なども立て、鳥の羽や鳥
の足形のワラ細工などを置くのも、神の形代であったかもしれない。
七月六日の晩にこの祭りをして願い事を書き、神迎えをした立ち物に
吊るし、笹竹などに茄子・胡瓜など農作物の実物、あるいは模型を吊るし
祭って、七日の早暁にその竹を流すか、田畑の中央に挿している。
六日に棚を軒下に造り、「七夕棚」と称しているのは、古形で、
藁製、また胡瓜・茄子の牛馬を神の乗り物として供えている。
盆の精霊迎えと同様のこの七夕祭りは、年の切り換え日に、
新たなる年の神(山の神・農の神・祖先神)をこの棚に迎えるひであり、
六日の晩は年越しにあたるのであろう。
それで流しものの行事が行われたのである。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
【 棚(たな) 】
陸地のタナ・・・山の傾斜の少し緩やかになった部分
これはタイラ(平)と呼ぶほどには広くもなく、その上に完全に
平らかでもない場所である。丹那・棚場・タナエ(棚合い)とも
いう地形、上方で急傾斜地の場所に対する緩傾斜地にあたる
ものがタナであるが、流れにのぞんだ平地がタナとなる。
水上のタナ(タチともいう)・・・魚が水中にいる深度、魚のいる層位
人間の生活の中のタナ・・・木の板を渡すこと
必ずしも物を乗せる台でもない
船のタナ・・・波除の側板
物見櫓造りのものを、サズキ(サジキ・銭敷)に対し、
懸崖造(かけづく)りのものをタナという。
盆だな・・・カンダナ
壇や囲ってあってもタナという。
小塚を土で作ってもタナという。
古くは「板擧(タナ)」とも書く。
【 穀物(たなつもの) 】
「日本紀」・・・保食神〈うけもちのかみ〉(宇迦之御魂〈うかのみたま〉)の神物語
古代の穀物霊のひとつ――ウカ・ウケ・ケは食物のこと
水田種子=タナツモノ(米)
陸田種子=ハタツモノ(粟・稗・麦・豆)
後には両者をタナツモノとしている。
沖縄・・・穀霊を「ユリ」という。
新麦の初穂祭りに麦粉の供物を庭に投げつけ、
女房を悪口した咎で、この穀神に見放されている、
古来の信仰・・・大歳の客譚・竜宮童子譚・白米城譚
(穀霊が特定の人に憑きまわる)
【他説】
☆タナブ・タナル=「孕(はら)む」意に源を持つ語かもという説。
☆穀類は小粒なので小さい神の呪力を与えるという説。
【 手布・手巾(たな) 】
物忌み用のごく小さな布切れ。
それで最も穢れやすい局部を覆い隠した。
その布を織る女性がタナバタツメ(棚機津女)という聖女。
≪古事記――湯河板揚(ゆかわたな)≫
神を迎えるには、水辺に棚状に差し出し設けた桟橋式の棚(湯河板揚)
の上に、地機(いざり機〈ばた〉)を据え、神への布を織っていた。
使う長さだけの布をいうことになり、用途によって長短の布になる
わけで、帯とは関係はない。
≪出産の時のオブイ手綱(児を背負うためのもの)≫
ウブの神・産神(うぶがみ:後天魂の一つ)迎えとして、馬を率いて山の神を
迎えにいくが、馬を飼わぬ家では、この背負いタナを持って行き、安産の後
には、再びこれを持って、産神を神社か分かれ道、または山裾まで送って行く。
すなわち、神を背負うにも、このタナを用いることが原義に近い。
☆褌(西日本)・手拭い(東北地方)・腰帯までものちにタナというようになった。
≪物忌み中のしるしのもの≫ (タナバタツメと説くのは否とする説)
「額髪結在染木綿(ひたいにゆえるしめゆふ)」風の聖女のシルシ。
もともと神事や神秘な労働のとき用いるもので、
秋田県あたりで、ヒロタナ、ハナタナと呼び、年頃に相応しい色合いを付け、
労働をするとき女が目だけ出し顔に巻きかぶる、秋田県・新潟県のハンコ
タナ(手拭い半分の幅のタナの意で害虫よけ・汗よけ用)もそのひとつ。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
七夕(2)へつづく。。。
≪夏≫
【国語】 なつ
春と秋の間にある暑い季節。
旧暦では立夏から立秋まで四・五・六の三ヵ月。
現在は六・七・八の三ヵ月。
天文学的には太陽が夏至点(6月22日前後)に来るまでの三ヵ月間をさしていう。
【仏教】 げ
①夏安居(げあんご)の略。
インドには雨季があり、この雨季の間は草木や小虫が生命を育む時
なので、外出中に知らず知らず踏み殺す事のないようにと、4月16日、
地域によっては5月16日から3ヶ月間洞窟や寺院などの一定の場所に
集まって止住し修行すること。
雨季に行う反省と学習会。
②一年をさしていう。
一年を一夏、五年を五夏という。
【参考】
夏安居はインドにおいては古くから広く行われていた風習で、仏教者が
夏季に修行のために旅するのを、他の宗教は夏安居を行って、殺生を
避けようとしているのに、仏教はなぜこれを行わないのかという人々の
避難を受けて、釈尊もこれを仏教の中に取り入れたと伝えられる。
それ以降、夏安居は仏教教団の中でも重要な行事となり、この3ヶ月間
は出家者にとっての厳しい修行の期間となった。
7月15日(あるいは8月15日)=自恣(じし)
夏安居が明ける日。
この日に教団の全員が集まり、3ヶ月間の反省会が行われた。
↓↓
のちに、施餓鬼会、お盆となった。
この日に布施をすると餓鬼の世界で苦しむ人々をも救いとる
ことができるという言い伝えが生じたもの。
仏教教団では、この自恣(じし)の日が、新年にあたり、
この日を起点として年数を数える。
仮面をつけて踊る姿が「夏」・・・象形文字
人が仮面をつけて踊る踊りを「夏=仮(カ)」と呼ばれていた。
「夏」つまり「仮面」は「おおう」ものだから「大きい」という意味がある。
中国の偉大な民族という意味から「夏」という国名も使われ、
「中華人民共和国」の「華(カ)」もずっと使われ続けている。
季節の「なつ」もまた「火(カ)」のように暑い季節であるため、
「カ」と呼ばれていた。
そこで「カ」の季節をあらわすために、踊りの「夏(カ)」の字を
借りて用いるようになったのである。
『国語の中の仏教後辞典』 森 章司:編
『知ってるつもりで知らない漢字』 漢字の愉しみ研究会:著
“釈迦” “イエス”・・・・・歴史的・肉体的存在を重視した時の呼称。
“仏陀” “キリスト”・・・・肉体性・歴史性を捨象とし、衆生・人類の「救済者」
である側面を重視した時の呼称。
≪在家信者の救済者としては仏陀≫
『マハーパリニッパーナ経』(『小乗涅槃経』ともいう)
釈迦の入滅前後の出来事をリアルに描いた経典(史実に近いもの)
釈迦が晩年に接触していた人物はほとんどが在家信者
出家した弟子はあまり登場しない
涅槃のとき、侍者は阿難(あなん)アーナンダーただ一人、
ゆえに、釈迦は引退していたらしいと思われる。
釈迦の最後を看取ったものも2~3人の比丘を例外として、
在家信者たちだった。
釈迦は最初は小乗仏教として理念を燃やし、出家者のみに教えてきて
いたが、途中から、在家者をも救いたいと思って釈迦自身も知らず知らず
大乗仏教の道を、仏陀としての道をすでに歩んでいたのだろう。
そのため、弟子達との間に乖離が出来たのだろうではないか、
入滅前は孤独だったのではないだろうか、とひろさちや氏はいう。
≪古代のインドには「永遠」はない≫
古代のインド人は輪廻転生(りんねてんしょう)を信じていた。
地獄・餓鬼・畜生・人・天の5つの世界を、われわれ人間は生まれ変わり、
死に変わりして流転転生する。
5つの輪廻の世界で輪廻転生がインド人の常識だった
蘇生しなくても必ず再生する(生き返る)から蘇生は奇蹟とならなかった
↓
紀元1世紀ごろ(=大乗仏教が興起するころ)
輪廻の世界は修羅(阿修羅)の世界がおかれ6つになる。
【釈迦の時代の四姓制度】
① 婆羅門(〈バラモン〉プラーフマナ)・・・司祭者。知的エリート階級。
② 刹帝利(〈せつていり〉クシャトリヤ)・・・王族。支配者階級。
③ 吠舎(〈べいしゃ:毘舎ともいう〉ヴァイシャ)・・・庶民。
④ 首陀羅(〈しゅだら〉シュードラ)・・・隷民。肉体労働者階級。
このうち、婆羅門が「宗教的人間」だが、釈迦は刹帝利に属するから
「政治的人間」。その釈迦が、釈迦国を捨てて出家したとき既に「政治」
を放棄していた。出家後の頻婆娑羅王の仕官への誘惑をもきっぱりと
断絶していたのである。
★『死んだ子を生き返らせる薬』の話
インドはコーサラ国の首都、舎衛城(しゃえじょう:シュラーヴァスティー)に、
クリシャーガウタミーという名の女がいた。彼女の名はガウタミーであったが、
あまりにも痩せていたので、“クリシャー(痩せた)”の名を冠して呼ばれていた。
彼女もたった一人の男の子を失った。
クリシャーガウタミーの生家は貧しかった。ところが、幸運にも彼女は旧家に嫁いだ。
いや、それが幸運か否かはわからない。旧家に嫁いだが故に彼女はいびりに遭った。
いじめ抜かれたのちに、クリシャーガウタミーは男児を産み、それでようやく婚家に
地位を獲得した。その男児が死んだ。
彼女は半狂乱になって、舎衛城の街を死体を抱えて走り回る。
「どなたか、この子の生き返る薬をください!」
彼女の叫び声に、だれもどうしてやることもできない。そこに釈迦が来る。
「わたしがその薬を作ってあげよう。」釈迦は言う。
そして、その薬の原料になる芥子種(からしだね)をもらって来いと命ずる。
「ただし、その芥子種は、これまで死者を出した事のない家からもらって来る事。」
釈迦は条件をつけた。
クリシャーガウタミーは、舎衛城の家々を尋ねて回るが、そんな条件に合う家はない。
どの家も死者を出している。
そのうちに、彼女にもわかってくる。死による離別を体験したのは自分ひとりではない。
誰もが悲しみのうちに生きている。それがわかった時、彼女の狂気は鎮まった。
「女よ、芥子種は手に入ったか?」
戻って来たクリシャーガウタミーに釈迦が訊く。その質問に彼女はきっぱりと答えた。
「世尊よ、芥子種はもう不用でございます。」
彼女は釈迦に願い出て、出家して尼僧となった。
このような話をひろさちや氏は仏教における奇蹟という。
奇蹟に対する解釈が仏教とキリスト教ではちがうはずだと氏はおっしゃる。
仏教では奇蹟を神通(じんずう)という。
その能力が超人間的であるから“神”といい、また自由無碍(むげ)である
ところから“通”と名づける。不思議な力である。
この不思議・不可思議といった言葉も仏教語であり、「奇蹟」に通じる言葉と
いう。人間が思議できない、おもいめぐらすことの出来ないものが「不思議」
「不可思議」であるという。
【六神通】
1 神足通(じんそくずう)(神境通)・・・自由に欲する所に出没できる超能力。
2 天眼通(てんげんずう)・・・千里眼。遠くのものを見ることの出来る超能力。
3 天耳通(てんにずう)・・・普通の声のすべてを聴くことのできる超能力。
4 他心通(たしんずう)・・・他人の心中を読む超能力。
5 宿命通(しゅくみょうずう)・・・自分および他人の過去世の生存のあり方を知る超能力。
6 漏尽通(ろじんずう)・・・仏教で得られる「悟りの智慧」のこと。
“漏”とは「煩悩」であって、現在の生が苦であることを知り、その
煩悩を全て断じて、二度と迷いの世界に生まれぬことを悟る超能力。
【三明(さんみょう)】・・・特に重要とされるもの
1 天眼通・・・自分及び他人の未来世におけるあり方を知る能力。
2 宿命通・・・自分および他人の過去世の生存のあり方を知る超能力。
3 漏尽通・・・仏教で得られる「悟りの智慧」
これだけは、仏陀にしか獲得できない超能力とされるようになる。
布教における釈迦は不必要なときには神通を使うべきではないとして、
六神通の使用を避けていたが、必要なときには使っていた。
(たとえば、同じ宗教者(プロ)などに対しては徹底的に神通を使って闘い、
相手を説き伏せて弟子としている。)
ある時期、釈迦の侍者をしていたスナクシャトラが釈迦に神通を見せてほしいとせがんだが、
必要がないと神通を示さなかったので彼は仏教教団を去ったという。
また、コーサラ国による釈迦国の殱滅のときにも釈迦は神通を禁じた。
原因は釈迦国の人々がコーサラ国の国王に非礼したことにあるとされ自暴自得
なのだが、釈迦は故郷に対する愛情表現として、釈迦国に通じる街道の枯れ
木の下で座禅をし、コーサラ国の将軍がそれをみて軍を引き返すということを
三度繰り返した。
「世尊よ、どうして枯れ木の下で座禅をなさっているのですか?」
「将軍よ、枯れ木といえども、親族の陰は涼しいのです」
そして、これ以上やったり、将軍を説得したりすることは軍人になり政治家となってしまうと、
「問題解決」となる政治的行動となるのを避け、あくまでも「愛情表現」に留めた。
「釈種(しゃくしゅ)、〔=釈迦族〕は今日、宿縁すでに熟す。今、まさに報を受くべし」
と言って、みずからも座禅を中止した。4度目、将軍は釈迦の姿を見なかったので、
そのまま軍を進めて、釈迦国の男女を一人残らず殱滅したのである。
これが、「仏の顔も三度」ということわざの由来とされている。
(参考URL→ こちら)
【釈迦が教えた「あきらめ」】
滅びる運命にあるものはどうしたって滅びる。ジタバタしても仕方がない。
それが釈迦の基本的態度であったようだ。
釈迦が人々に与えた「救い」は、本質的に「あきらめ」であった。
〔明らめ〕
① (心の)曇りを無くさせる。
② 明瞭にこまかい所までよく見る。
③ (理にしたがって)はっきり認識する。判別する。
④ 事の筋、事情を明瞭に知らせる。弁明する。
⑤ 片をつける。処理する。
〔諦め〕
⑥ 断念する。
現代の日本語では、「断念する」の意の方が強いが、古語においては
「(理にしたがって)はっきり認識する」のが基本的な意味である。
釈迦が与えた救いは、このような意味での「あきらめ」であった。
クリシャーガウタミーに対しても、釈迦は、死んだ子の生き返る道理
のないことを彼女に「あきらめ」させ、それによって彼女を救った。
スナクシャトラがいくら懇願しても、釈迦は神通を使わなかった。
釈迦にすれば、神通を使わなくても人々を「あきらめ」させることが
できるのだから、使う必要がなかったわけだ。
【釈迦が説いた「智慧」の宗教】
仏教語の「無明」=心理に暗いことをいう
「無明」がゆえに人間は迷い、苦しむ。
「無明」の闇は「智慧」の光によって消滅する。
光によって破られぬ闇はない。
釈迦はその「智慧」を教え、その「智慧」によって「無明」は克服され、
人間の苦悩も克服される。
その「智慧」を教えるため教団を作り、「智慧」を磨くにはエリートを養成する
しかないと最初は思っていた釈迦だが、本当はその「智慧」は誰もがもって
いるものだと気が付いたのだと思う、とひろさちや氏はいう。
最初はそれに気づかず、煩悩にまみれて世俗に生きる人間は「智慧」
を磨けぬ、と差別の目で人間を見ていたとしても責められない。
しかし、全ての人々に対して平等に接したことはその時代においては
超人的なことだったといえる。
釈迦は在家の人間とも接触していて、晩年は教団の指導を殆どせず、
在家信者たちの救済活動をしていたらしいことから、いかなる人間にも
生得の「智慧」があることを気づき始めたのだろう。
それは、普段は眠っていて、釈迦の人格に触れたとき突然、活性化する。
ずーっと後になって、その「智慧」を「仏性(ぶっしょう)」と呼ぶようになった。
釈迦は、あらゆる人間に「智慧」が具わっていることに気づきはじめていた
が、それを活性化するのに釈迦という偉大なる人格が必要だということに
釈迦自身は気づいていなかったようだ。
そして釈迦の入滅500年後現れたのが、肉体を持った釈迦ではなく、
時間と空間を超越した「仏陀」の説いた仏教が大乗仏教である。
『釈迦とキリスト』 ひろ さちや著:参考