【 五月節供 】
端午の節供・五月五日の節供。
菖蒲(しょうぶ)・蓬(よもぎ)を軒にさして物忌み中もしるしとし、
鯉幟(こいのぼり)で祖先神を招きよせ、その依り代の武者人形を
飾り、粽(ちまき)・柏餅を供え祭り、災厄を追いはらい、おさがりを
揃って飲み食う。
三月の雛節供に対して行う。が、中部日本や四国地方の一部では、
五日またその前後を「女の家」「女の夜・宿・屋根」などといい、
この日・夜だけは、勇ましい人形に宿り災厄をはらってくれた先祖神
に仕える女が威張れるとしている。
★東京都伊豆大島(旧岡田村)
四日の宵節供に、主人が茅を束ねた棒で主婦の尻を叩きながら、
「五日のショウブひとしょうぶ」と唱える式があった。
五月は皐月つまり田植え月であって、別にイワイヅキ・ツツシミヅキ・
カミサマヅキ・オモヅキなどと呼ぶ所があるとおり、田植という祭り
のために、清く慎み深く過ごすべき時であった。
その月の初めにあたり、早乙女として、田植の折の主役
(サンパイ・タロジ――田の神をもてなすオナリ・オナリド役)を果たす。
「女の屋根」の示す意味は、女が菖蒲・蓬で葺いた屋根の下に
物忌み慎みの生活をする。すなわち、香りの高さが、魔力・厄災を
はらい、清め霊魂の鎮もりをもたらすとする。
蓬は草餅とし、その蓬の葉を干して作った綿状のもぐさに火をつけた
香り、それらは菖蒲湯の香り同様、除災・鎮魂の呪力・威力を示す。
★岡山県・・・「牛の菖蒲」という。
人より一日遅れて六日に牛小屋に葺く。
この日、石合戦(印地(インヂ)打ち)をするのと同じく、
農作占いの印象も含められている。
そして、男児の節供へと中国風の節の折目に、
子供の厄はらいに転換してきたのである。
【 女の夜・女の家 】
女の天下とも。
新嘗めの夜は、神と巫女と共に新米を食う晩で、神事に与らぬ男や家族は、
他所に出払ったのである。
「万葉集」(巻十四)
「誰ぞこの家の戸おそぶる。新嘗(にふなみ)に吾が夫(せ)を
やりて、斎(いは)ふこの戸を」
――この家の戸をこじあけようとするのは誰だ。新嘗祭りのために、
夫をはじめ家族残らず他所へ行かせて、私が謹んで、神祭りに
こもっているこの戸を叩くのは――(三四六〇)
神社が祭りを専門に行うようになり、家々の祭りがだんだん行われなくなると、
家々の処女や主婦が、巫女としての仕事を忘れてしまうことになる。が、
徳川の末頃まで、一時上臈(いっときじょうろう)などといって、女の神人を祭り
のために、臨時に民間から択びだす風があった。と思えば神来臨して、家々を
訪問する夜には、いわゆる女の家が実現したのである。
沖縄でも地方地方の祭りの日に、家族は海岸に出て、女だけが残っている
風がかなり多い。
本土では、五月四日の晩から五日、すなわち、五日の節供を女の夜ともいう
のは、田植に預かる早処女の物忌みにこもっての生活を中心にしていう。
≪女行事から男行事への移行≫
この日取りは、現在では男の節供になってしまったが、蓬・菖蒲を、物忌み
の標示(しるし)に軒に挿し(女の屋根)、男性の近づくのをさけて、女ばかり
が清浄な生活をしていたのである。
それが後には、女同志の懇親の集まりのようになり、さらに、男を近寄せて
はならぬとの注意が、かえって男を呼んで客にし、馳走することとなり、
男祭り風に転じた。
なお、九月十三夜を、姥月・女名月といい、女が幅を利かす日といっている
のも、収穫を控え、田の神送りをするための物忌みの折であり、また作業
に対する霊力を、月にすむ祖霊にむかって、魂乞いをした印象からの命名
であろう。
★岩手県・・・二月九日をオカタボンダシ
(旧家をオカタ――上流婦人のことから主婦の意となる)
この日だけ、女房を追い出せという。
★京都山科・・・十二月晦日にタナオロシといって、亭主が女房の欠点を
いいたてる行事がある。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
【 端午 】
5月5日の節供の称。端五とも書く。
端ははじめの意味で、午と五とが同音であるため、中国において
古くから両者が共通して用いられた。五が陽数に当たり、3月3日
(重三〈ちょうさん〉)、9月9日(重陽〈ちょうよう〉)などと同様に、
陽数が重なるためめでたい日とされ、重五(ちょうご)とも称した。
平安時代宮廷では、5月3日に六衛府から献じた菖蒲・蓬を4日に
主殿寮(とのもりょう)が所々の殿舎の軒に葺き、5日には糸所から
菖蒲の鬘(あやめのかずら)を献り、天皇をはじめ群臣がこれをつけて、
五日節会に臨んだ。また、この日典薬寮から菖蒲のつく御案(つくえ)
を献り、群臣に薬玉(くすだま)を賜った。
中国の古俗では、端午には野外に出て、薬草を摘んだり、蓬で作った
人形を門戸かけ、蘭を入れた湯で沐浴し、菖蒲をひたした酒を飲むなど
の習俗があった。
これは病気・邪気などをはらう目的で行われたものであり、わが国の
宮廷の行事をはじめ、民間習俗の中に同類の様相のみられるのは、
これら中国から移入された習俗に基づくところが少なくないとみられる。
五月節供などと称するわが国の民間習俗では、この日菖蒲や粽を軒
にさし、鯉幟・武者人形を飾り、また柏餅・粽を作る。
この節供を男の子の節供とし、3月の節供と対比させる考えが一般的
となっているが、各地の習俗をみると女性に関する伝承も多い。
この日を女の家・女の宿などと称する地方は広く分布し、嫁の里帰り
の日と伝える所もある。これらの例は元来、5月が皐月、つまり田植え
月であったことと考えが深いと考えられる。
皐月は田植えという祭りに際して斎戒禁欲し、田の神を迎える月であった。
その月の初めに早乙女として祭りの主役をなす忌み籠りをし神を祀った。
節供に軒にさす菖蒲・蓬などは元来は緑の草の葉で祓い清めるためにも
用いられた習俗の残存と考えられる。
【 こどもの日 】
国民の祝日の一つ。5月5日。
昭和26年、児童憲章と共に制定された。
わが国では、中国伝来の行事として、旧暦5月5日に端午が祝われていた。
こどもの人格を重んじ、子供の幸福を祝う日である。
この日は世界子供の日でもある。
『日本祭りと年中行事辞典』桜楓社 編者:倉林正次
≪リンク集≫
宮崎神宮 御田植祭→ 早乙女による御田植写真(2009年)
ハレ着(紺の単衣に赤い帯、白い手ぬぐい、新しい菅笠)の早乙女
は宮崎農業高校の生徒、みこ、保育士たち11名さん達のお写真、
38年(2009年時点で)ぶりだそうです。
住吉大社 祭りと年中行事→ 御田植え
住吉では儀式を略することなく、当時と同じ格式を守り、華やかで
盛大に行っている祭りとして、重要無形民俗文化財に指定されている。
雛祭 (3) ≪立雛から座雛へ≫
≪立雛≫
庶民の母親が伝承させた素朴な紙立雛。
祖先が雛神や常世神となり、穢れを祓い守ってくれるとの考えから。
仏教・・・死後33回忌が済むと、位牌を寺に納めたり、墓地に埋めたり、弔い上げ
(頂に枝葉を残した生木塔婆=ウレツキ塔婆を立てる)が済むと、死者は
仏から神になり、祖先神の仲間に入ると信じられてきた。
神道・・・死即神であるので、雛神になり災厄祓いをすることは
当然の事実となっていたのである。
≪座雛(すわりびな)≫
手作りの雛より商品雛の派手な雛に目移りする母親が増えた。
それに雪洞(ぼんぼり)や篝火などの火によって、常世神からその家の祖先神に転生
させて、雛を依代としてそれに宿りこめ、子らの守護霊にしようとする母親が少なくなった。
↓↓ 本来の雛祭の意味が薄れてきた。
大名・公卿好みの調度品が増え、黒漆塗・牡丹・唐草模様の金蒔絵を施したり、
代々の家紋散らしだと皇室の紋までをあしらって、這い上がり者の本性をさらけ出す
ものまで出てきた。
≪徳川三代将軍家光の寛永以後≫
土雛・張子雛が座雛に適していた。
着付雛までもが大きな座雛になった。
平安期以後の公卿・武家の姿態を手本に、古今雛、座雛、
きわめて地味な直衣雛がまるで雛の色直しのように作られた。
嫁ぎ先へと持ってくる場合、それぞれの家の先祖霊の宿りこむ依代と考えると、
同一の毛氈の上に同席するのもどうかなと感じ出す頃、江戸商人の儲け根性も
加わり、「段飾り」ができた。
≪五代将軍綱吉の元録時代前後≫
江戸ではすでに七・八段飾りができていた。
【一段目】
屏風を後ろに幕・御簾を前につけた段に男雛・女雛を先祖霊の依り代として祀る。
~以下の段に迎えた先祖を祭り喜ばせて、快く幼児の厄払いをして頂ける為~
【二段目】
酒すすめ役の三人雛(官女風で中央に杯を持つ座雛・左右に酒器を持つ立雛)
~またその家の祖霊に転生させる呪術用の火として雪洞・篝火が灯される~
【三段目】
五人囃子(扇拍子・小鼓二人・太鼓・笛役・・・宮廷雅楽の真似ではない)
~先祖を喜ばせる祭りであるが故、明るく楽しい猿楽のお囃子が入る~
≪京阪地帯段飾り≫・・・宮中生活の模倣
二段で屋根なしの御殿造り
随身・衛士、左近の桜・右近の橘
≪徳川十二代将軍家慶時代≫・・・現代風の関東・関西混合型
江戸育ちの其角が京都に出向いた折、座雛・段飾りになったのに驚き、
「段の雛 清水坂を一目かな」と作っている。
★昭和三年以前は、皇室とは反対に男雛は向かって右
「記・紀」の崇神天皇(御間城入彦命)の御名が危ないと、大彦命に少女が教えた歌、
「御間城入彦命はや、己がををしせむと、ぬすまく知らに、ひめなそびすも」
「ひめなそび」は「雛遊び」の初見とするのは誤解。
昔皇族方は皇居の神嘉殿中にそれぞれの生命の象徴として、緒に結び目を
作りそこに、生命を結び込めてかけておいた。
それが盗まれたり損なわれると、当人は死ぬと信じられていた。
「その玉の緒を結びっぱなしにしている」と採るのがよい。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
≪リンク集≫
「古今雛」は→ こちら
はっきりと綺麗なわかりやすい画像です。
「御殿雛」は→ こちら
江戸時代の雛人形→ こちら (かなり詳しく載っています)
雛祭 (2)≪流し形代≫
常に身辺に置いてその者の心身の災厄汚穢を移し宿し込める、
撫でもの風の天児(アマガツ・台に十文字形に細木を組み骨とし、両手――横木から裾に
白木綿(ゆう)をたらし、白木綿を丸めて頭部にしてその頂に、黒糸の毛三本をさげる――
漫画オバQ風の立雛人形)や這子(ホウコ・白木綿の縫いぐるみで、手・足・頭それぞれ
でっぱらせ頭部の長目のもので後世の這はい人形の原型で、物によりかけたたせたり
横にしておく人形)が、古くから穢れや災厄を負わせて、流し捨てたり焼却したりした。
これが、撫で物――流し雛の系統となる。
★和歌山県粉河地域・・・泥製の頭に紙着物をきせた豆雛人形
体を撫でまわし三月三日に、紀ノ川に流し捨てる。
↓↓
それは同県加太の海に集まる。
≪加太は淡島信仰の根拠地≫
加太神社の所在地で、淡路島に背をむけた小さな社ながら、淡島願人が墨染衣に
黒布張りの笈を背負い、国中を巡歴して婦人の諸病平癒・育児祈願の代参依頼と
して、その髪・写真などを預かり、鉦をたたき国内一巡の後、社に戻り祈祷を行い
海に流す。古くは箱に雛鳥飼い持参して、鳥占いをし庶民の信仰を深めた。
社寺の縁日に山雀の御籤(みくじ)ひきがその面影を感じさせる。
≪災厄・汚穢流しの淡島縁起≫
住吉神社の姫が女の業病にかかったので、社の片扉をもぎとりそれにのせて住吉
の海へ流した。それが加太の海に流れついたので 、淡島の流雛の原型になったと
土地では伝え、神社側では、神功皇后が三韓遠征の帰途、この社に詣で大国主命
と少彦名命との形代(黒鳥帽子・赤袍・金袴の大国主命が右胸に小さく白地に金線
模様の少彦名命を抱いた図の厚紙製)で、息子御体を撫でられ息を吐きかけ、加太
の海に流したという。
≪現在の紙雛≫
守雛として頌布されている。
三月三日に簡単な木舟二艘に、古雛を山ほど積んで流している。
すでに雛人形が常世神の呪力で、災厄・邪霊を追払う役目を果たしたことが、
雛人形がそれを吸い込み宿し、背負い込んで持ち去ってくれる役、すなわち
流し雛に転じことになる。
★鳥取県の流し雛・・・白塗り、泥首に赤紙着物・金袴の男女紙雛を竹で、桟俵ポッチ
(藁粗製)に寝させ抑え、供え物をして晴れ着の娘たちが流す。
それは元来、大きくなった折、乳が良く出るようにと祈願するものであった。
↓↓
大祓い・夏越祓の連想も加わって、災厄・穢汚を背負わせ流すものとなっている。
『鳥取県流し雛の館』様HPはこちら→ もちがせ流し雛の館
流し雛の歴史・行事・展示など詳しく載ってます。
★東京都大田区洗足池地帯・・・昭和55年頃から赤坂弁慶堀で行っていたのを移して、
人形を鳥取から取り寄せ抽選で200名(昭和56年)だけ
溜り水の洗足池に流させ、穢汚流し――流し雛とし最後に
池から拾い上げ、古雛と共に焼却する侘しい姿になっている。
『源氏物語・須磨の帖』(三月巳日)・・・流し雛
「陰陽師召して、祓へさせ給ふ。舟にことごとしき人形のせて流すを見給ふ。」
『源氏物語・紅葉賀の帖』(若紫)・・・人形遊び(十才以上のするものではない)
「ひいなをすゑて――三尺のみづしひとよろひにしなじなしつらひすゑて、また
小さきやどもつくりあつめて奉給へるを、所せきまであそびひろげたまへり。」
『枕草子』・・・※「遊ぶ」
「すぎにしかたのこひしきもの、枯れたるあふひ、ひいなのあそびのてうど」
緋毛氈を敷き、立雛、調度を並べその前で遊ぶ。
※「遊ぶ」・・・本来、「神事をする・祭りをとり行う」義
★静岡県賀茂郡(伊豆半島天城山の線から南半分の地域)
昔、家々の母が、他の地方同様、木・泥・紙・布などで、娘のために造った
立雛を並べ飾り(近頃は商品化の雛が多い)、その前でママゴト・アネサマ
アソビを、山中の村でも「磯アソビ」と呼んでいる。
もちろん、蛤やさざえなどが供えられ、手に入らぬ都会などでは、
飴・餅・金花糖細工などの磯物を供えている。
古くから、七・五・三歳の厄除け(幼年戒)の行事として、海岸・磯辺・河原などに、
三月三日に出て炊事をし、一日遊びくらし、「浜降り・磯遊び」などといい水を浴び
水を飲み、身を清めて食事をする。それは、遙々と祝福に来てくれた
雛神(先祖霊・常世神)を送る作法であり、「食いわかれ」の呪法なのである。
中国渡来の上巳の節供の影響だけではなく、野遊び・山遊び・磯遊びが、
古くから行われて幼児・少年・青年戒として行われていた。
その主催者は氏の故老であり、祭られる神は、氏・家・村の先祖であり、
それが象徴化されたものとなっている。
木製・・・・・東北地方のオシラ神・コケシなど
紙製・・・・・紙人形・張子
土製・・・・・土偶
紙布製・・・押絵
金属製・・・鋳物
石製・・・・・自然石・彫刻
★鹿児島県・・・糸雛系(母親の子供の厄除け雛)
広く紙製である。黒糸の髪が黒紙で作られ、襟元を十二単風にし、胴は
思いおもいに母親が彩色し折ったり、円筒形にもする。
雛人形は東国から西へと進んだ。
その商品化したものを中心に考えると四通りとなる。
それも後に、日本橋の十軒店だけで扱い、頭・胴・手足・衣装など部分的に
各地で作られ、卸商の手によってまとめ仕上げられた。
≪着付雛(きつけびな)≫
現在の内裏雛と呼ぶようなもの。
埼玉県の岩槻・越ガ谷・尾久など。
公卿の姿態を手本に衣装・服飾をつけた古今雛・直衣(のうし)雛
≪土(つち)雛≫
土偶・塗料に赤色を多く用いるので赤物ともいう。
埼玉県今戸や東北地方。
≪押絵雛≫
埼玉県三ヶ島村や秋田県。
押絵雛:参照→ 松本市の歴史を感じる物HP様『松本押絵雛』
≪張子雛≫
千葉県柏・埼玉県粕壁・金沢・高松。
張子雛:参照→ 『手仕事や 彦兵衛』(張子の豆雛)様
張子吊り雛:参照→ select goods & gift 和のSAIT様
最初は立雛であり、庶民の母の手作り雛はごく粗末なものであったことは、
浮世絵・草双紙の挿絵・柳多留の川柳などでもわかる。
「紙びなへ棒を通してボロをさげ」(柳多留十九回・天明)
「紙びなに角力とらせる男の子」(同三十三回・文化)
「えんこしてゐなよと娘雛を立て」(同三十四回・文化)
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
東博の浮世絵展示室様→こちら(元画像をお借りしました)
≪美味しそうなリンク集≫
スイーツ大好き委員会様ベジフルレシピ→ 「イチゴのミルク桜雛餅」
「ヒーナ」・・・古くは「ヒナ」は伸ばして呼んでいた
↓
「ヒヒナ」・・・仮名書き
↓
「ヒイナ」
↓
「ヒナ」・・・現在
≪意味はヒナタ(日向)≫
祖先がこの島国にたどり着くとそれぞれ山を背にして東南に開けた
日当たりが良く、住むにも耕作にも良い所を捜し求めて住み着いた。
そこからさらに、そうした日向の土地を探して、次から次へと移動した。
≪ヒナツメの役目≫
ヒナツメ・・・先祖に守護を乞い願いまつる女性の呼び名
男祖霊・・・ヲビナ
女祖霊・・・メビナ
ヲビナとメビナとを一対にして祭る。
子孫の為に、災厄・邪霊を追はらい祝福をもたらすものと信じていた。
次々と日当たりの良い土地を求めて移り住み、ヒナタ(日向)が
ヒナ(鄙・地方・辺土)と感じられるようになる。と、その古い祖先の
住んだ日向(ヒナ)の国を学者ぶった偉そうな方々が「ヒュウガの国」とか
「ヒムカの国」とされているが、ヒナからトヨ(豊)・ツク(筑)・キビ(吉備)・
アキ(安芸)・ナニワ(難波・ワ・倭)・ヤマト(ワ・倭・大和)などと呼び、
その部族は移動した。
日の当たりが良い土地―――――「ヒナ」
↓
古く遥か祖先を埋めてきた土地―「トコヨ(常世)の国」と呼んだ
日当たりの良い土地ゆえ、作物豊穣の富有、従って長寿の国、
富み足りた温暖の地であるので、人情細やかな愛情の国と信じており、
祖先の霊魂はいまだに満ち足りた生活をし、子孫を愛するあまりに、
季節の変わり目ごとに常世神として、それぞれの家を祝福に来る。
それが中国の「上巳(じょうし)の節供」の流入によって、類似の多い
ところから三月三日に期日が決まり、中国で水辺に出て、水を飲み
生命力を強化し、さらに草もちを供え食って祖先を祭る。
これは災厄・悪霊を追うはらう祭りになっている。
宮中では、曲水(ごくすい)の宴となり、盃を受け流し水を飲んだのが、
風流ぶって和歌競詠などと意味のないものにされたり、
黒酒(クロキ――果物の噛み酒―塩辛風の黒色の葉に盛れる醸酵物)・
白酒(シロキ――白米を噛み器に吐き溜め醸酵させた白色の酒で、
葉に盛れるモロミ状の物)の白酒(シロザケ・清酒に米や麹や味醂、
濁酒などを混ぜた混成酒、特有香気と甘味があり、ビールより
アルコール含量は多い)を供えて、先祖を祭る。
先祖は必然的に男女一対に考えられ、中国で考妣と呼ばれる者に
当てはめてもいた。それで、ヒナは一対のことを意味するとも。
≪ヒ≫
「日嗣」とか、「産のヒダチが悪い」とか、「ヒ弱い子」などと用いられる、
母の胎内で与えられた生命力――先天魂(タマ・ココロ・チ・キ)の
ひとつにヒを意味する。
≪ナ≫
魚・菜・名のように、成長するのにつれてその名の生命力として、
外部から身体に入って宿りこむ後天魂(タマシイ・ウブ・イツ・ザエ・
ワザ)のひとつのナとする。
≪ヒ≫≪ナ≫この二つを一括して霊魂(ヒナ)とし、その威力を年毎に
強化しに、ヒナの国から、ヒナの神(先祖霊)が来られるとし、迎えて供え
物をし祭り馳走をし、唄い、舞い、「お雛様送る、来年もまたござれ」など
と唱えて送る。来年を期待できる常世神になっている。
もともと神の姿に形を与える事は、臨時の場合の祭りに限られていた。
ヒナ祭の源は臨時のものであったと思われる。
災厄・悪霊を追払いたい時にいつでも行った。
それは、古く東国地方ではじめた。
中国の大宮(おおみやめの)祭りの形式を真似たものであった。
柱の根方に竹の枝に、布のちに紙で、三対の男女の形代(かたしろ)
(人形の姿を形どったもの=人形)と一人の従者の人形を緻(キヌガサ)
の下に吊るし(住吉踊の縁起飾り物・正月初詣での繭玉風に小判・鯛・蕪・
当たり矢・大黒・恵比寿などをビラビラ吊るし下げた縁起物風に)神職が
四手をさげた竹・榊を左右上に振って邪霊を追はらうようにやはり振って
災厄・悪霊除去をしてのち、たてかけておく。
この男女の形代を用いて災厄・悪霊駆除行う。
この現法は次第に西へと進み行われ、北九州地方ではヒメゴジョミヤノメ
と呼ばれるが、やはり人間の穢れをうつし流すものにはなっていない。
この宮祭の形代が、雛人形の原型であり、ひな祭りの源である。
そのため、雛を人間あるいは神の縮小模写=ヒナガタ・ミニチュアーの意
とする説は採らない。
≪日本の人形の初見≫
『神功紀』
「芻霊(スウリョウ・芻は乾燥した草で、霊はレイと普通よむ)」とある。
人質としていた微叱許智(みしこち)を朝貢使として来朝した三人が、
新羅に帰る時に微叱許智を忍び連れ出し、対馬を過ぎて草人形を
作り、病気だとして床に寝かしておき、人目をごまかし逃がした。
よって、新羅朝貢使を火刑にしたとある。
やはり、外来種の人形となる。
≪雛祭りの本来の意義≫
旧ヒナの国――常世国から予祝に遙々臨んでくる男雛・女雛の祖先神――
常世神に災厄・悪霊を追いはらってもらう祭りだった。
それが、子供の厄歳である七歳・五歳・三歳の時、後代になって七五三の
祝いとなる。現代風にいえば、反抗期にあたり心身ともに変化する年齢。
男女の別なく、ために雛祭をしなければならず、災厄・悪霊を除去し、その
生命力を雛人形に宿りこんだ祖先霊によって、更新してもらうことになる。
次回は 「雛祭 (2)≪流し形代≫」編です。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
疫鬼を追い払う俗習。 鬼やらいともいう。
元来、中国では周礼に則って熊皮を被り、黄金四目の面をつけて
玄衣朱裳をまとい、戈楯を執る方相氏が鬼を駆儺する式を演じた。
≪日本での追儺≫
陰陽道の行事としてとりいられた。
文武天皇慶雲3年(706)に疫病が流行し、百姓が多く死んだので、
その年の晦日に土牛を作って鬼やらいしたとあるのが初見。
これは臨時の行事であったが、恒例年中行事化したのは、
文徳天皇斉衡元年(854)12月30日以降のことである。
『延喜式』
大舎人寮の舎人が鬼となり、舎人長の演ずる方相氏が黄金四目の
仮面をかぶり、玄衣朱裳を着て右に戈、左に楯をとる。彼に従う振子
という8名の児は桃弓・葦箭・桃枝を持ち、それぞれ鬼を打擲する。
この除夜の追儺は、やがて寺院の修正会(しゅしょえ)・修二会の時に
行われ、年頭の招福攘災的意義を民間にも拡めることとなった。
この追儺の鬼になる家は鬼株・鬼講などといって特定の家が決まっている。
鬼になるときには、シオゴリをとって潔斎する。
室町時代には、節分に豆を撒いて鬼を追う習俗が知られる。
民族的には、豆まきは節分に限らず、大晦日に行うところもある。
豆を撒くのも鬼を追い払うのではなく、神に対する散供と考えられる。
寺院の追儺も、民間の豆まきも、その折に出る鬼は必ずしも悪鬼ではなく、
むしろ悪霊を鎮圧する善鬼の性格を示しているとみられる。
【 参考リンク 】
≪鬼やらい≫
鬼追・鬼打・追儺(ついな)ともいう。
古代に中国の追儺が伝わり、疫鬼を追払う式が宮中で行われた。
『蜻蛉日記』に「儺(な)やらふ儺やらふ」と騒ぎののしる様がのべられている。
厄祓いの行事。
大年・節分・寺院の修正会に行うほか九州の鬼火も同類。
災厄をもたらす精霊としての鬼を追払い、豆で目玉をつぶすというのが
一般的な理解である。本来は身についた摘みけがれを豆や銭に移して
流す固有信仰と関係があった。
それは伊勢の津の観音堂の「鬼押え」の行事にみられたように、に
けがれを負わせ漁師たちが青竹で散々打ちのめし血まみれになるのを
大杓子で押さえ、うんといじめたほど豊漁とさえ考えられるようになった。
伊勢津観音「鬼押え節分会」→福豆まき参加者募集中(1/31締切必着)
尾張国府宮→儺追い神事・儺追い行事一覧
大和法隆寺西円堂→追儺式
薬師寺→花会式(修二会)
≪修正会(しゅじょうえ)≫
「しゅうしょうえ」「しゅうせいえ」ともいう。
毎年正月、各宗寺院で修する年始の法会。
宮廷に、唐の内道場と同じものをもうけ吉祥悔過を催したのに由来する。
これが、平安中期以来修正会と呼ばれ、正月の上旬ないし中旬に、
ほぼ一週間営まれる。結願には、どやどや・堂押・押合・だだおし・
会陽などが行われる。
岡山市西大寺観音院では、旧12月24日のコトハジメ、26日餅搗き
(修正会の御供餅)、27日深夜のシンギトリと続き、旧正月1日から
14日まで修正会が開かれる。
読経の間に楊製の福枝(牛王枝)で床をたたく。
結願の14日深夜に会陽、いわゆる裸祭が実施される。
すべての燈火を消して牛王紙に包まれたシンギが投下され、
裸の人々がシンギを獲得せんともみあう。
このように修正会にはたぶんに民間の正月行事が習合されている。
参考:和歌森太郎 『年中行事』(昭和32)
「仏教儀礼の民族性」(『仏教民族』2) 『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
obiログ2012年1月20日の記事「節分のお化け」は→ こちら
【節分】
立春の前日、
太陽の運行関係で決まり2月はじめになる。
陰暦の正月がこのころなので両者の行事に混乱がある。
中国では、節分を農事初めとして祝ったが、日本でもこの時節に
事実上の農作業が始まり、冬から春への折り目があった。
この時、忌みの生活の期間があったことは、佐渡の忌みの日や、
伊豆諸島のヒイミサマの行事からも推測される。
また、除夜に行った追儺(ついな)の行事は室町期に民間では
節分の豆まきに変わっている。節分の行事については、
物忌みにこもった本来の意味が忘れられて、外から邪気悪霊が
入ってくるのを防ぐための行為のように考えられるようになった。
行事としては次のようなものがある。
① 鬼やらいと厄払い
寺社で年男が「福は内、鬼は外」と唱えて豆をもって鬼を打つ。
厄落としに銭や女の湯具を捨てた。
② ヤイカガシ
柊(ひいらぎ)に鰯(いわし)の頭をさして戸口にさすのが多い。
信州では鰯をくしに刺し「大根の花の虫の尻焼き頭焼き」と唱え、
つばをはきかけて火で焼く。渥美半島ではトベラを焼きその葉を入れて
豆まきの豆を炒るなど、悪臭をかがすことによって疫病を防ぐ。
にんにく・髪毛・タラ・グミの枝を焼くところもある。
③ オニノメツキ・メカゴ
④ 豆占
⑤ もぐら追い
⑥ オバケ
関西ではオバケといって変装する行事があった。
この夜、初夢をみるといって室町時代に船の絵をしいて寝たものが
江戸時代には宝船の絵に変わっている。
「大阪方言事典」から
=オバケ【お化け】=
年越(節分)の日、老女は若い時代を追憶するために島田や手鞠髷に結い、
若い娘は早く良縁があるように丸髷などに結って縁起を祝ったもので、これを
お化けと称した。明治末年頃まで、この「お化け」の風習は残っていた。
戦前、節分の日に、若い娘たちの間に日本髷がはやり出したとき、これを
お化けといっていた。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
参考:「北新地の歴史探訪(ものしりガイド)」HP→ http://kgnet.jp/history.asp
一番下の記事『節分のお化け』です。
「オバケ」について詳しく載っています。(画像有り)
その中から一部抜粋させて戴きました、感謝!参考: 「お茶屋ブログ」はこちら→ 「節分お化け」
(京都宮川町「お茶屋しげ森」様)
「舞妓さん」「仕込み体験」「舞妓になるには?」もわかります。
リンクさせて頂きありがとうございます。
「お化け」、私にとっては懐かしい言葉です。
着付け講師時代、初めて花嫁の授業というものが出来た時、
学院長自らが着せ付けをされた事がありました。着付け講師の方々が、
これから生徒さんたちに教えるための要領をご伝授戴いたのでした。
そのときのモデルとなったのが、私のお師匠様でした。
着せ付けが終わりかけた頃、
「ほらほら、お化けになったでしょう~♪」
って言われたんですが、一番若かった私と地方出身の方が意味がわからず、
(へっ?)っていうような顔をしていたんでしょうね~、
廻りのご年配の方々は知っておられたようで、どっと爆笑されました。
すかさず「おばあちゃんが綺麗な着物着たり、若い格好することよ~♪」
と教えてくれました。へ~そうだったんだ、と思ってはいたんですが、
それが節分の日のことだとは知りませんでした。
今回、調べてみて最後の≪⑥オバケ≫をみたとたん、
あ~、これか~!と何十年ぶりかにはっきりと理解できました。
節分の日に呑みに出たことないもんね、見たことないのはあたりまえやんね。
と、PC検索して面白い記事に出合って納得したのでした。
昔は一般家庭でもされていたようですが。。。
・
あっ!!
≪コスプレ≫
あれって、「オバケ!」(もいてる)やん!
かつては成年式と呼ばれ、子供の社会から
大人の社会へと仲間入りし、社会の公認を得るべく重要な儀礼。
男子・・・15歳
女子・・・13歳
労働・婚姻・戦闘の能力を具備するものとみなされて
成年式が行われ、以後一人前の社会人として遇された。
公家や武家社会における元服・烏帽子着の儀礼は著名だが、
一般庶民の間でも普遍的な慣習であった。
山間部では、昔は男子が17,8歳になると、
成年式に登山をして肉体的試練を得、神仏に参拝して加護を得、
かつ性的経験をする(帰りに遊郭へ寄る)という意義があるものもあった。
こうした事例は広く分布する。
古くは「穴打ち」などの試練を課し、「死」「再生」をなぞらえた事も考えられ、
成年式における名替えの習俗はこの観念に由来するとみられる。
このときに擬制的親子関係が結ばれることが多かった。
≪儀礼の装飾≫
頭部装飾型・・・剃髪・結髪、烏帽子着用
腰部装飾型・・・褌・腰巻を贈られ着用
身体装飾型・・・鉄漿(かね)つけ(=おはぐろ)・入墨
≪仮の親を村の長老などに依頼する≫
成人となった若者を家長(実親)から引き離し、
村共同体の統制化に服さしめる意義があったと考えられる。
≪成年式にあたる儀式的なもの≫
家族・親族内で行われる私的なもの
村人の前で集団的になされるもの
若者組、娘組への入社式 など
≪成年式の呼称≫
兵児祝い・褌祝い・鉄漿付祝い・ゆもじ祝いなど。
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』弘文堂:参照
そういや~、
村人などの前で集団的に行われるものの名残りとして、
近畿のある成人式では、寒中の海に上半身裸
(褌のときもあったような・・)でつかる(みそぎ)っていうのを
TVのニュースで毎年観てる気がします。
あ、今日観たのは中学生?ぐらいの子もいたような・・・
昔は、庶民の暮らしでは家が苦しくて、13や15の年で親から離れて
暮らし、奉公や親方などについて暮らすということもかなりあったのでしょう。
いや、苦しくなくても人に預けられる事もあった。農村などでは、
村民の協力無しには年貢を納められない所も多々あったでしょうからね。
それらはもう大人としての行動とみなされたものだったのですね
ちゃんと性教育でさえも現実的にしっかりと社会上でなされてきたのですね。
男と女、生と死、それらをしっかりと見つめることを、
いやがおうにも普段の生活の一部として社会的に課せられていた。
人の道として本来のあるべき姿のような気がします。
それを思えば現代の日本で成人といわれるハタチって、もうかなりの大人。
少々甘やかされてるって気もしないでもないですね。
でもまあ、それを許しているのが現代の社会ですから、
仕方が無いのかもしれませんね。
とにもかくにも、成人式を迎えたハタチの諸君、
大人としての責任感だけは持つように頑張ってください!
年越・年夜・年の晩のこと。
掛取りに歩く近世的な商家の風が一般的になって、今では
慌しい歳末の日としての印象が強いが、古くは日暮れと
同時に1日が始まると考えられていたので、この夜には
終夜起きていて来臨する歳神をまつるための厳重な物忌
を行ったらしい。神社に参籠したが、現在元旦未明に神社
に参るのはこの名残りだと思われる。
今でも寝ることを戒めてこの夜寝ると皺(しわ)がよるとか、
白髪になると言うところがあり、寝ることをイネヲツムという
忌言葉で表現したりする。
この晩に長く起きていれば長生きをするといって、子供
たちを無理に起こしておくような所もある。
青森県上北郡・・・ケツマクラで寝てしまわないようにするため。
(一家の者が炉の周りに幼長の順に人の尻を枕にして眠る習慣)
近畿地方・・・ヨネンコウ(夜寝ぬこと)
またこの夜、お頭つきの魚を用いたりして、正式の食事を
する風が広く行われている。雑煮を食べるところもある。
香川県・・・まないた音
(まな板の上に魚をおいてかんかんとたたいて歳神様を招く)
歳神様は既に家々に来ておられ、除夜の夜食で人々は年取り
をしたのだから、新しい年の始めを起きて守ろうとしたのである。
除夜は古い時代には、一年の終わりではなく、新しい一年の
始まりであった。
除夜の夜食が即ち、現在の元旦の食物と同じ意義であった。
炉には太い薪を加えて火を絶やさないで新年まで燃やし
続けることも最近まであった。
神社の境内で夜中大火を焚いたりもする。臼・鍬・鎌など
の諸道具に注連(しめ)を張って餅を供える地方は多い。
家の内外とも年越しの準備は全て終わっており、赤々と
燃える炉の火を中心として、一家団欒でこの夜をすごす
のが、昔から除夜の光景であった。
この夜は家の人々だけでなく牛馬や道具も休ませて、
やはりめでたく一つ歳をとらせなければならなかった。
『年中行事図説』柳田國男監修:民俗学研究所偏集より
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』 弘文堂
前にTVのケンミンショー(?)だったかで、大晦日の晩
におせちを食べる所があると言っていました。
「え~!」という声も多々あり(うちもそうだった)が、
調べてみて納得、ほ~、そうだったのか~!
歳神様をお迎え(拝)してご一緒にお祝いさせて頂いて
から眠るというのが昔の人々の習俗だったようです。
うちの実家の父の場合は、毎日0時きっかりに神仏の
新しいお水を供えられるように用意していました。
もちろん一旦眠ってから起きていたけれども・・・
現代の生活に合わせて残るべきところだけ残ったみたいですね。
とうとう、
今年も今日一日と なりました。
東日本大震災という大変な年になってしまいましたが、
まだまだ家族離れ離れ、家も足りていない被災地の方々を
思うと申し訳ない気持ちですが、自分たちがなんとか年を
過ごせることに感謝です!
来年は更なる復興に繋がることを祈っています。
今年一年、
ブログご訪問・コメント戴きましてありがとうございました。
来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
何方様も、よいお年を・・
六月一日は氷の朔日とも呼ばれ古来意いろいろな行事があった。
室町時代には、宮中でも幕府でも氷の餅を献上したり進物する日とされていた。
大阪府北部の各郡、福井の南条・今立郡、岐阜県古城・大野郡に及び、
また熊本県御船町にまで分布している。
氷を食べる例は少ないが、この日雪が降れば豊年だという言い伝えの
ある土地もある。主として、正月に搗いた餅で作ったアラレや、カキモチを、
多くは凍み餅にしておいて、この日に神に供え贈り物にしたり、朝食の後
に食べたりして、厄除けとするのである。
正月の尊い供物が、
なお威力を保持しているという信仰から生じたまじないの一つ。
石川県・・・ヒムロノツイタチ、
兵庫県・・・氷餅ヤスミ
岐阜県揖斐郡徳山村・・・氷茶(正月の(※)餅花を豆と共に炒って食べる)
氷を炒るともいう
≪「歯固め」と呼ぶ地方≫
歯固めの餅を食べる日とされる地方もある。
(正月の餅や豆炒を食べて身体を丈夫にすることをいいあらわしたもの)
青森県西津軽地方、岩手県各郡、秋田・宮城・山形各諸県、北陸地方、
大阪、山陰地方九州南部の屋久島に至るまで、歯固めと呼ぶのが一般的。
富山県・・・鬼ノコウベコワシ、鬼の骨
福井県坂井郡・・・オニツイタチ
鹿児島県肝属郡・・・ホシ
≪「尻あぶり、ケツアブリ」という地方≫
埼玉県西部の各郡
六月一日の早朝に、小麦藁やバカヌカを燃やして、家内一同その火にあたる習わしがある。
(腹の病気が治り、また腫瘍が出ない、またこれをしないと田に虫がつくという
虫祈祷をする地方もあり、東北では蚕送りをするところもある。
≪「焼餅節供」という地方≫
岡山県邑久郡、愛媛県大三島
小麦の焼餅を作って神仏に供える
(麦の収穫祭にあたる名称であり作法である)
≪「キヌヌギツイタチ・ムケノツイタチ・ムケゼック」ともいう≫
蛇が皮を脱ぐ日だといい、あるいは人間の皮もむける日だともいって、
それについての禁忌をともなっている。
蛇が桑の木下で皮を脱ぐ脱皮新生の日とし桑作へ行くことを戒めている
所は東日本に多く、かつてこの日が物忌すべき日であったことをうかがえる。
こうした禁忌は、おそらく物忌・謹慎から生じたものと思われる。
ハヤリ正月といって、世の中の悪い年に、もう一度正月の式をして
年取り直しをしたりするのもこの日が多い。
大きな改まりの期待をもって物忌謹慎すべき日と考えられていたらしい。
1日と限らずに全体をみると、旧暦での半夏(はんげ)などのように、
忌み慎むべき日としている日は多く、田植終了後の月として、物忌が
期待される月であったらしい。
6月には祇園の祭りで代表されるように水神祭が顕著であり、
一日はそれらの物忌開始の日だと考える事ができる。
↓
川入り朔日は十二月一日に関係する。
ナゴシ、川浸り
【夏越し(ナゴシ)】
旧暦六月晦日の行事。
かつては宮中や各神社では、身の不浄を祓い災いを防ぐために、
大晦日と同じように、この日にも大祓えが行われていたが、民間に
おいても、同じような意味をもってナゴシの行事が行われている。
ただ民間のおいては、祓いよりも禊(みそぎ)の要素が強い。
≪ナゴシの語≫
山口県から北九州にまで分布
牛・馬を川で1日遊ばせるというのが一般的
人間の禊祓が家畜にまで及んだ風習だと考えられる。
島原地方・・・牛馬のほか人間も海水で身を清めるという。
関東地方・・・藁の人形に木刀を持たせて川に送り流す所もあり、紙人形に
家族の名を書いて神社に納めるなど、形式化して残っている。
≪ワゴシ祭り(茅の輪くぐり)≫
また、この日神社の鳥居の下で竹に茅(ち)を巻きつけて作った
茅の輪をくぐって、罪・穢れを祓う習俗も近畿地方を中心として
一般的、ワゴシ祭などと呼ばれる。
茅の輪は蛇を形どったものだと言われ、祇園の祭りなどと関係
しつつ六月に顕著な水神の祭りと関連があるものだろう。
6月は田植終了後の月として、物忌が期待される斎月だとみな
される一方、大いなるあらたまりに入るべき月とも考えられる。
これらナゴシの行事も先祖祭りを前提として解されており、正月に
対しては、6月末の水無月祓え、六月祓えがあって、かつては暦制が
1年を2分していた証左されているようだが、まだ、未解決の点が多い。
「茅の輪」画像、参考HPはこちら→ 夏越祓≪茅の輪神事≫
『年中行事図説』柳田國男監修:民俗学研究所偏集より
『日本民族辞典 大塚民俗学会編』 弘文堂
十二月一日は、一年の最後の月なので、
「乙子の節供」「乙子の朔日」などと呼ばれる。
乙子(おとご)=末っ子の意
「川渡りの朔日」「川浸りの朔日」ともいう。
餅をついて水神に献じ、それを食べる風習がある。
餅を川に投げたり、食べたりすると水難をまぬかれ、
河童にとられることがないという。
川に餅を投げる前に、餅で腹をなでたり、耳をなでて、
「よい耳をきけ、悪い耳きくな」と唱えてからする例もある。
馬を飼っている家では、川からその餅を拾ってきて食わす
と、馬の水難予防になるという。
また、この日には造り酒屋をはじめ、水を多く使う家々では、
井戸に餅を投じて水神をまつる風がある。
この日に必ず食べると言う食物には、餅、団子、小豆飯に粥と、
土地ごとに種類は変わっているが、共通の点は米であり、その
米はもちろん今年の新米であったと思われる。
山形県・・・川浸り餅といって、よし竹の割れ目に赤紙と白紙を
重ねて三角形に折ったものをさして水神に供え、
萩餅または鏡餅をあげる習わしがある。
和歌山県の那賀郡・・・糯米を食べぬと、十二月中に川へまくれこむという。
鹿児島県の肝属郡・・・ネバリモノ朔日といって(※)粢団子を食べる事にしている。
佐賀県の馬渡島・・・粥節供ともいい、粥を煮て食べ、この日を正月のはじめとする。
この日は粥を食べない内はどんな小さな橋でも渡っては
ならないという所もある。小豆を食べないで戒める所もある。
中国地方・・・食物を膝に塗る風習がある。
また、茄子を食べなければならないとしているところもある。
朝鳥の鳴かぬ間に、茄子を食べると水に溺れないなどという。
鳥に遅れるとその節季の掛払いに遅れるともいう。
広島県東部・・・膝塗りと呼ぶ
鳥取県・・・師走祭と呼び、萩の餅をこしらえて両膝と両肱とに塗り、
川でころばぬまじないがある。
京都府の中部・・・朝鳥の鳴かぬ間に、漬茄子・酒粕・カリンを食べ、これを
返す借りんと呼んでいる。
物を返すことをこの地方でナスというからである。
≪川渡り節供の起源≫
川に餅を供え、鬼が食べている内に逃げたとか、牡丹餅を食べていたために
時間がかかり、鬼にくわれずに済んだなどの話がある。
十二月一日になぜ水神をまつるかはよくわからないが、六月一日に水神を
まつることと対照させて考えるべきである。
仙台地方では、炉の四隅に焼き豆腐を串にさしてたて、それに水をかけて
火防のまじないをする風が古くからあった。
この日を「水こぼしの朔日」または「水こぼしの正月」とも呼んでいる。
行事そのものは豆腐の普及以前からあったものと思われ、正月を迎えるため
の準備であったろう。
『年中行事図説』柳田國男監修:民俗学研究所偏集より
※粢(しとぎ)とは
≪秋田粢菓子、一乃穂≫様、ホームページより →『しとぎばなし』
「粢(しとぎ)」・・・「水に浸して柔らかくした生の米をついて粉にし、それを
水でこねて丸めた食べ物」のこと。
「餅の原型」ともいわれ、古くから神前のお供えものとして
欠かせない存在、たまご形のものが一般的で、これに砂糖を
加えればお菓子に、火を加えて固めたものがいわゆるお餅になる。
米のほか、粟(あわ)、稗(ひえ)、黍(きび)、豆、椚(くぬぎ)の実、
楢(なら)の実などを粉にして水で練って団子状にしたものを、
粢(しとぎ)と呼んでいた説もある。
餅類は「ハレの日」の食べ物、「ハレの日」とは、
神様と同じものを食すことのできる大切な日。