~地名「大阪」とは~
≪1≫ 津国(つのくに)
☆『古事記』
畿内には大和(倭)・河内(川内)山代(山背・山城)の国名がみえる。
かつては、河内・和泉は摂津の国に含まれていた。
☆『日本書紀』
応神紀四一年二月条、『舒明紀』=三年九月条に「津国」と記載有り。
「津の国」→港津(難波津・武庫津)があることから。
「摂津職(せっつしき)」・・・初見は壬申の乱(672年)後の天武朝頃
【和泉国】
霊亀二年(716)
現和泉市(茅渟宮)に河内国大鳥・和泉・日根の三都を割いて
和泉監(いずみげん)と称し、特別の行政地域を置いた。
一時は河内国に復したが、天平宝字元年に分立。
「和泉」 = 「出水」の意
泉井上神社境内に「出水(いずみ)」という清水井を伝承。
【河内国】
『古事記』・・・「凡(おふし)河内」
『日本書紀』・・・「大河内」
「凡」「大」は美称
※「大野」「大内山」「大原」「大丹穂」「大身狭」などの「大」も一種の美称
和銅官命によって地名の二字・好字化
「出水」 → 「泉」 → 「和泉」
「凡河内」「大河内」→広い河内(汭)の意を避けるため「凡」「大」を省略
※「河中」を「高知」、「上河内」を「上高地」なども好字化
【難波】
≪ナニワは国の名ではなく、地方的な郷(くに)の意味≫
「浪速」「浪華」とも書く。
『万葉集』・・・「魚庭(なにわ)」とあることから、
魚が多くとれる海に面しているという説がある。
『日本書紀』・・・「天皇、難波の碕に到るとき、奔潮(はやきなみ)有て
太(はなは)だ急(はや)きに合ひぬ。因りて名づけて
浪速(なみはや)国と為す。また浪華(なみはな)ともいふ。
今、難波(なにわ)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。」
※意:「天皇方の船がこのあたりに来た時、潮流がはなはだ急であった
ので、“なみはや”とか“なみはな”と名づけたのであるが、いま
“なにわ”といっているのは、それが訛ったものである。」
『欽明紀』二三年条の歌
・・・「韓国の城に立たし、大葉子は領巾振(ひれふ)らす見ゆ、
那爾姿(なには)へ向きて…」
『万葉集』・・・「おしてる難波の国…」「難波の院」
『仁徳紀』・・・「難波津」「難波の堀江」
『推古紀』・・・「難波の荒陵」
『孝徳紀』・・・「難波の長柄豊碕宮」
『仁賢紀』・・・「難波小野」
関連obiログ過去記事はこちら→ 『二字化地名』(2011.6.1 記)
『大阪地名の謎と由来』監修: 池田末則 参照