そういえば、先日国立近代美術館に「ゴーギャン展」を見に行った時、目的は二つあったんですよ。
ひとつは、もちろん「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を、
この目でみること。
そしてもう一つは、私が抱いていた「ゴーギャンは暗い」というイメージが、
自分の思いこみだったかどうか、確かめること。
なんせ今まで、ゴーギャンの絵は、○○美術館や○○財団のコレクションの一部として、
チラッ ホラッ としか見たことがなかったのですよ。
そいでもって、その印象が
「ゴーギャンて暗ーい。」
でも、それは、コレクション内の他の作品が明るかったから、そう感じてただけかもしれません。
思いこみって、かなり感覚的、情緒的な要素が強いから、
もし違ってたら、ゴーギャンに申し訳ないから、ここは是非確認せねば、
と勇んで行ったわけです。
で、結論。
「やっぱ、ゴーギャンて暗いわぁ。」
ゴッホと暮らした南フランスなんて目じゃないくらい明るいはずの、南太平洋のタヒチ。
陽光あふれる南の楽園で描かれた作品は、その強い日差し故の、一層暗い木陰、
森の中の暗さを感じるものが、すごく多かったのです。
そして、南フランスの夜にはない、圧倒的な漆黒の闇夜。
陽光あふれる世界にいながら、ゴーギャンは、こちらを描いてしまう。
ゴッホは、狂気の中にありながら、私は画面に「明るさ」とか「命」を感じるのです。
一方ゴーギャンは、あくまでも正気なのですが、「暗さ」「死の影」をものすごく感じてしまう。
これが、彼の画業の永遠のテーマなのでしょうね。
私たちの人生にとっても、影や死は、命や光と同じく大事なテーマなので、
いかに暗い印象を持つとも、ゴーギャンの作品に魅せられるのでしょう。
なんか、同じ物を見て、ゴッホが「光・命」の角度から描き、ゴーギャンが「影・死」の角度から
描いているみたい、って思いました。
やっぱりこの二人には、縁を感じてしまいます・・・。
ひとつは、もちろん「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を、
この目でみること。
そしてもう一つは、私が抱いていた「ゴーギャンは暗い」というイメージが、
自分の思いこみだったかどうか、確かめること。
なんせ今まで、ゴーギャンの絵は、○○美術館や○○財団のコレクションの一部として、
チラッ ホラッ としか見たことがなかったのですよ。
そいでもって、その印象が
「ゴーギャンて暗ーい。」
でも、それは、コレクション内の他の作品が明るかったから、そう感じてただけかもしれません。
思いこみって、かなり感覚的、情緒的な要素が強いから、
もし違ってたら、ゴーギャンに申し訳ないから、ここは是非確認せねば、
と勇んで行ったわけです。
で、結論。
「やっぱ、ゴーギャンて暗いわぁ。」
ゴッホと暮らした南フランスなんて目じゃないくらい明るいはずの、南太平洋のタヒチ。
陽光あふれる南の楽園で描かれた作品は、その強い日差し故の、一層暗い木陰、
森の中の暗さを感じるものが、すごく多かったのです。
そして、南フランスの夜にはない、圧倒的な漆黒の闇夜。
陽光あふれる世界にいながら、ゴーギャンは、こちらを描いてしまう。
ゴッホは、狂気の中にありながら、私は画面に「明るさ」とか「命」を感じるのです。
一方ゴーギャンは、あくまでも正気なのですが、「暗さ」「死の影」をものすごく感じてしまう。
これが、彼の画業の永遠のテーマなのでしょうね。
私たちの人生にとっても、影や死は、命や光と同じく大事なテーマなので、
いかに暗い印象を持つとも、ゴーギャンの作品に魅せられるのでしょう。
なんか、同じ物を見て、ゴッホが「光・命」の角度から描き、ゴーギャンが「影・死」の角度から
描いているみたい、って思いました。
やっぱりこの二人には、縁を感じてしまいます・・・。