滋賀県東近江市にある百済寺の庭園から少し標高のある場所に登ってきました。
本坊庭園は別名「天下遠望の名園」とも称されていて、遠くには比叡山から比良山系、手前には太郎坊や安土山、観音寺山を望むことができました。
かつて、百済寺を訪れた宣教師のルイス・フロイスは、「百済寺には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎一千坊が立ち並び、まさに“地上の天国”」と絶賛したそうです。
百済寺城の遺構
戦国時代、百済寺は鎌倉時代以降の親密な関係がある近江守護の六角氏によって城塞化され、今も石垣遺構が残ってます。永禄11年(1568年)に織田信長は六角氏居城の観音寺城を攻略するも、城主であった六角義賢は脱出。この時、信長は百済寺に「百済寺は信長の祈願寺とする」旨の書状を送りました。
弥勒菩薩半跏思惟像
再び、六角氏が挙兵すると、信長は戦況を見るために自らの祈願寺とした百済寺に軍勢とともに入りますが、百済寺には六角氏の女子供がかくまわれてており、百済寺が六角氏に食糧を支援していたことも発覚。
怒った信長は、「全山ことごとく焼け山にし、石垣は崩して安土に持ち帰れ」と命令し、一千坊と言われた百済寺は全山焼土と化しました。多くの石垣は安土城建設のために持ち去られ、小石を積み上げただけの石垣部分が今も残っています。。
本堂へ向かう参道石段に出ました。
前の大雪の後に来た時は、参道も一面雪に覆われ、人ひとりが通れる分だけ除雪されてました。。
仁王門
門に吊り下げられた一対の大草鞋は、仁王像の大きさに因んで50cm程だったそうですが、江戸時代中期から参拝客が健脚・長寿の願を掛けるようになって、サイズもどんどん大きくなり、今では3mほどあるそうです。
地元の人たちが、およそ10年毎に新調するらしく、前に来た時の草履とは違ってるみたいでした。
『百寺巡礼』の作家・五木寛之氏が35番目としてこの寺を訪れた時にこの大草鞋に触れて満願成就の願を掛けたことでも有名です。
お寺を守る守護神、仁王門の仁王様
五木寛之氏が空中楼閣と評した本堂が見えてきました。
つづく
過去記事<雨上がりの百済寺本坊庭園>
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