「El Matador-闘牛士 マリオ・ケンペス」
マリオ・アルベルト・ケンペス(Mario Alberto Kempes, 1954年7月15日 - )は、アルゼンチン・コルドバ州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。ポジションはフォワード。ペナルティエリア内に陣取るセンターフォワードではなく、運動量の多いフォワードとして知られ、しばしばペナルティエリア外からもゴールを狙った。
*Wikipedia より
「アビセレステスの闘牛士」
果敢な突進とスピードで相手の堅陣を打ち破り、優れた技術と反射神経、強力な左足キックでゴールを量産したストライカー。またヘディングも得意とし、総合能力の高さを誇った。その冷静に相手を仕留める正確なシュート技術で「エル・マタドール(闘牛士)」の異名を持つのが、マリオ・ケンペス( Mario Albert Kempes )だ。
早くから点取り屋としての才能を発揮し、19歳で地元の名門ロサリオ・セントラルへ入団。74年には25ゴールを挙げ、若くしてリーグ得点王に輝く。76年にはスペインのバレンシアへ移籍。研ぎ澄まされた嗅覚とスピード感あふれるドリブル突破でゴールを量産し、リーガ・エスパニョーラの2年連続得点王に輝いた。
アルゼンチン代表として74年のW杯に初出場。この時は1得点も挙げられずに終わったが、78年の自国開催W杯ではエースとして活躍。大会得点王となる6ゴールを決め、アルゼンチンを初の世界王者に導く。その謙虚な人柄とフェアプレー精神で、長髪のマタドールとして国民に愛された。
アルゼンチンの若き点取り屋
マリオ・ケンペスは1954年7月15日、首都ブエノスアイレスの西北600kにあるコルトバ州の小さな町ベルビジュに、ドイツ系の父親とイタリア系の母親の間に生まれた。
父はアマチュアとしてプレーするサッカー選手で、息子のマリオも幼い頃からボールに親しみ、7歳の時に地元のジュニアスクールでサッカーを開始する。
すると早くもCFとしての才能を発揮し始め、14歳の時にプリメーラ・デビシオン(1部リーグ)に所属するタジェレス・デ・コルドバの下部組織に加入。17歳でトップチームデビューを果たす。
すると1年目の73シーズンから13試合で11得点を挙げ、この活躍により名門ロサリオ・セントラルと契約。強豪エスツディアンテス・デ・ラプラタとのデビュー戦でハットトリックを演じた。
そして移籍1年目の74シーズン、36試合29得点の活躍で後期ステージ得点王。翌75シーズンも前後期合わせて49試合で35ゴールと得点を量産。たちまち国内きっての点取り屋として知られるようになった。
20歳でのW杯初出場
クラブでの顕著な活躍により、73年9月に19歳でフル代表初招集。W杯南米予選のボリビア戦で初キャップを刻んだ。
アルゼンチンがW杯南米予選で首位突破を果すと、翌75年4月に行なわれた親善試合のルーマニア戦でケンペスは代表初ゴールを記録。このあと5月のフランス戦、イングランド戦と強豪を相手に立て続けに得点し、たちまちアビセレステス(アルゼンチン代表の愛称)の若きホープとなった。
74年6月、Wカップ・西ドイツ大会が開幕。1次リーグの初戦は、72年ミュンヘン五輪金メダルのポーランドに2-3と競り負け。第2戦は前大会準優勝のイタリア相手に先制するが、痛恨のオウンゴールで1-1の引き分け。それでも最終節で格下ハイチを4-1と退け、グループ2位で2次リーグへの進出を果す。
2次リーグの初戦は、「トータルフットボール」で大会に旋風を巻き起こしたオランダと対戦。今ひとつ勢いに乗れないアルゼンチンにオレンジ軍団を止める力はなく、ヨハン・クライフの2発に沈んで0-4の大敗。続く第2戦もライバルのブラジルに1-2と敗れてしまう。
最終戦でようやく東ドイツに1-1と引き分けるが、2次リーグ最下位で敗退となった。ケンペスは6試合のうち5試合で先発、残り1試合も途中から入って全試合出場を果たすが、大舞台での経験不足を露呈してノーゴールに終わってしまった。
翌75年、4ヶ月間のホーム&アウェー方式で行なわれたコパ・アメリカに出場。ケンペスは4試合3ゴールの活躍を見せたものの、ここでもブラジルの後塵を拝しファーストステージ敗退。アルゼンチンは近年の低迷から抜け出せずにいた。
新天地スペインでの活躍
78年W杯はアルゼンチンでの開催が決まっていたが、大会を2年後に控えた76年に軍事クーデターが勃発。軍の圧政と弾圧による強権体制が敷かれた。そして軍事政府は国際的イメージの回復と経済不況からの脱却を図るべく、W杯の成功と母国初優勝の至上命題を、40歳の青年監督セサル・ルイス・メノッティに託した。
60年代に入ってからのアルゼンチン代表は、相手の中心選手を暴力的なプレーで潰す野蛮なスタイルで世界に悪名を轟かせ、国内の評判も悪かった。そんなダーティーイメージを払拭したい軍事政権にとって、クリーンなプレーと高い個人技を基盤とした攻撃サッカーを志向するメノッティ監督はうってつけの人材だった。
またメノッティ監督も軍事政権の権力を利用。長期の強化合宿で連携の質をあげるため、代表候補選手の国外への移籍を強制的に禁止する。また国内のクラブには代表チームへ協力態勢をとるよう圧力をかけ、チーム作りの綿密なプログラムを組み立てた。
76年シーズンのリーグ戦途中、1試合1ゴールのハイペースで得点を重ねていたケンペスに、スペインのバレンシアからオファーが舞い込む。破格の移籍金を提示されたロサリオは、バレンシアへの譲渡を承諾。ケンペス本人は悩んだが、軍事政権下にあるアルゼンチンを離れてバレンシアと契約を結ぶことを決める。メノッティ監督にとっては、寝耳に水の移籍だった。
バレンシアでの76-77シーズン、スタートこそ不慣れな環境で躓いたケンペスだが、尻上がりに調子を上げ24ゴールを記録。いきなりリーグ得点王に輝く。チームメイトの信頼を得た翌77-78シーズンも、28ゴールの活躍で2年連続の得点王。サポーターは南米からやってきた点取り屋を「エル・マタドール」と呼んだ。
母国開催のワールドカップ
代表強化に努めるメノッティ監督は、ダニエル・パサレラやオズワルド・アルディレスといった若い知性派を抜擢。彼らを中盤の軸に据え、国内組で固めた攻撃的なチーム作りを進めていた。
それでも欧州屈指のストライカーとなったケンペスの得点力は無視できず、メノッティ監督は過去のいきさつを水に流すことにした。こうして欧州からはFWケンペス、MFピアザ(サンテティエンヌ)、DFウォルフ(レアル・マドリード)の3人をW杯メンバーに招集。このうち2人は都合により参加できなくなったため、ケンペスは唯一の国外組として代表へ合流することになる。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。1次リーグ初戦は前半10分にハンガリーの先制を許すも、5分後ケンペスのシュートの跳ね返りをFWルーケが押し込んで同点。終盤の83分にはベルトーニの逆転ゴールが決まり、開催国が2-1と白星スタートを切った。
続く第2戦はプラティニ擁するフランスと対戦。前半ロスタイム、ケンペスの突破からルーケにボールが渡り、相手のファールを誘ってPKを獲得。これを主将のパサレラが沈め、アルゼンチンが先制。後半60分にはプラティニのゴールで追いつかれるも、73分にルーケが勝ち越し弾。
その後あやわPK献上の場面も主審の見逃しに救われ、アルゼンチンが逃げ切って2-1の勝利。2連勝で早々と2次リーグ進出を決める。
第3戦はグループ首位を争うイタリアとの全勝対決。地元アルゼンチンとしては首都ブエノスアイレスに残るためぜひとも勝ちたい試合だったが、アズーリの老獪な守りに抑えられて0-1の敗戦。開催国は地方のロサリオへ移動することとなった。
しかしロサリオはケンペスにとってかつてのホームグラウンド。1次リーグでそれなりの働きをしながら不発に終わったケンペスは、慣れ親しんだピッチでついに本領を発揮する。
エル・マタドールの本領発揮
2次リーグ第1戦の相手はポーランド。開始15分、ベルトーニからのクロスに走り込んだケンペスがヘディングで先制。37分にはポーランドのラトーが決定的なシュート。それをケンペスが手で弾き、ポーランドにPKが与えられる。だがそのPKをポーランド主将のティガが失敗、アルゼンチンは窮地を逃れた。
そして71分、アルディレスのパスからケンペスが中央に切れ込み、豪快な追加点を叩き込む。こうして古巣で目覚めた闘牛士の活躍で、アルゼンチンは2-0と勝利を収める。
続く第2戦の相手は宿敵ブラジル。試合は両チーム合わせて4人の負傷者が出る大荒れの内容となり、結局0-0の引き分けで終わった。
2次リーグの最終節でブラジルはポーランドに3-1と快勝。この時点でアルゼンチンが決勝に進むには、ペルーとの最終戦で大量得点差をつけての勝利が必要となった。ゲームはアルゼンチン選手が過度のプレシャーに襲われる中、21分にパサレラとの壁パスで中央を破ったケンペスが左足を振り抜き、先制弾を叩き出した。
これで勢いに乗ったアルゼンチンは43分に追加点。後半に入った46分にもケンペスが3点目を挙げた。その後ルーケが2ゴールを記録するなどペルーに6-0と圧勝。ブラジルを得失点差でかわし、地元アルゼンチンが決勝進出を果たした。
紙吹雪の中の決勝戦
エスタディオ・モヌメンタル(リーベル・プレートの本拠地)で行なわれた決勝の相手は、前回 “オレンジ旋風” を巻き起こした準優勝国のオランダ。だがそこに世界的スパースター、ヨハン・クライフの姿はなかった。
「アル・ヘン・ティーナ!」の大歓声と白い紙吹雪にグランドが包まれる中、熱狂の試合は開始。その38分、アルディレスの縦パスを受けたルーケがボールを中央へ。するとケンペスがDFの間を縫って突進し、左足を伸ばしてGKの右を抜く先制点を挙げる。
リードされたオランダは後半に反撃。82分には途中投入された長身のナニンハがヘディングでネットを揺らし、ついに終盤で追いつく。ロスタイムにもレンセンブリンクがあわやのシュートを放つが、ポストに阻まれオランダは決勝点を逃してしまう。
決勝は延長戦へ突入。その前半の105分、ベルトーニのパスを受けたケンペスが強引なドリブルから2人のDFを置き去りにしてシュート。1度はキーパーに弾かれたが、素早く反応して勝ち越し弾を押し込んだ。
さらに延長後半の116分、ケンペスのドルブル突破からベルトーニが追加点。4-2と勝利を決定づけた。こうしてアルゼンチンは地元開催でW杯初制覇を果たし、6得点を挙げて優勝の立役者となったケンペスは大会得点王とMVPを獲得。南米年間最優秀選手賞とアルゼンチン最優秀選手賞にも輝く。
闘牛士の引退
78-79シーズン、バレンシアはコパ・デル・レイの決勝に進出。ケンペスはレアル・マドリードとの決勝で全2得点を挙げ、クラブ12季ぶり5度目の優勝に貢献する。翌79-80シーズンの欧州カップウィナーズ・カップでも得点王となる9ゴールの活躍を見せ、大会初優勝の原動力となった。
こうしてバレンシア史上最高のストライカーと呼ばれるようになったケンペスだが、アルゼンチンの強豪リーベル・プレートから高額提示のオファー。81年に母国に戻ってプリメーラ・デビシオンに貢献するも、リーベルが移籍金を支払いきれなかったため、ケンペスは1年でバレンシアに復帰する。
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。ケンペスは若き10番ディエゴ・マラドーナの引き立て役に回って中盤に下がるが、すでに4年前ほどの輝きはなく、5試合に先発してノーゴール。前回王者のアルゼンチンが2次リーグで敗退すると、大会終了後に代表からの引退を表明。実質7年間の代表歴で43試合に出場、20ゴールの記録を残した。
同じ84年にバレンシアを去ると、同じスペインのヘラクレスで2年間プレー。30代を過ぎてからはオーストリアに活躍の舞台を移し、3つのクラブを経て92年に引退する。
その後は古巣バレンシアでアシスタントコーチを務めたのち、95年にチリ2部リーグのフェルナンデス・ビアスで現役復帰。96年にはインドネシアリーグのペリタ・ジャヤで監督兼選手となり、1年間プレーして42歳で現役を退いた。
現役引退後はアルバニア、ベネズエラ、ボリビアなどでクラブ監督を歴任し、13年からはバレンシアのグローバル・アンバサダーとして活動している。
*https://rincyu.hateblo.jp/entry/2023/12/25/185614 より
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