明治維新時の留学生の話の続きです。
「日本が手本になったというのは、〈留学生を先進国に送って、自国を先進国の仲間入りさせる〉という近代化方式が、世界で真似されたという意味である。清朝がアヘン戦争の後ですぐに大量の留学生を欧米へ送っていたら、百年も前にシナの近代化は軌道に乗ったのかもしれない。」
しかし中華思想の中国は、世界で一番優れた国が自国だと誇っていたので、それはできない話です。無理を承知で語っている気もします。
「インドも同じである。こう言った思いが各国にあったらしく、第二次世界大戦後は、世界中で留学生ブームが続いている。優秀な青年を大量に留学させれば、近代化ができるという可能性を示した点で、明治政府の独創性は大いにほめられてよい。」
「しかしこれは、明治政府の独創ではなかった。日本は七世紀初頭から遣隋使、続いて遣唐使という輝かしい伝統があるのである。」
なるほどこういうことでした。話がここでつながりました。
「第一回の遣隋使は、推古天皇の8年 ( 西暦600 )とされるが、その内容は明らかでない。はっきりしているのは、推古天皇の15年 (西暦607 )の小野妹子の遣隋使からである。推古天皇と言っても摂政は聖徳太子であるから、彼のアイディアであったと思われる。」
遣隋使が日本の学問や文化、政治制度などに及ぼした貢献がいかに大きかったか、聖徳太子の名前もこのことと一緒に学校で教わりました。隋が唐に代わると、遣唐使になりましたが、当時の中国はとてつもない大国で日本の先生でした。
「舒明天皇の2年 ( 西暦630 ) から宇多天皇の寛平6年 ( 西暦894 )に、菅原道真の意見によって廃止されるまで、約2世紀半以上の長い期間にわたって、20回の任命があり、その内16回は確実に渡海したことが知られている。」
2世紀半と簡単に言いますが、およそ250年です。行きも帰りも命懸けの航海で、10年に一度の大事業でした。送り出す日本は大変な準備とお金をかけますが、受け入れる中国にしても相応の負担がかかります。真剣な生徒だった日本と寛大な師だった中国との関係を思うと、今でも私は感謝せずにおれません。
社会主義国となり、共産党の独裁政権となった現在の中国が、居丈高な誹謗中傷をするようになったのは、江沢民氏の頃からです。昭和62 (1987 ) 年の天安門事件の時、学生デモを制圧した手腕が鄧小平に認められ、氏は総書記になりました。「正しい歴史認識を持て」と、陛下の主宰される晩餐会で説教したのは氏でした。中国で反日のデモが荒れ狂い、日本の工場や店舗が破壊された時、「愛国無罪」と言って暴徒を肯定したのも氏でした。
あれ以来中国の指導者は不躾な言葉で日本を批判し、無理難題の言いがかりをするようになりました。韓国や北朝鮮を仲間に入れるだけでなく、米国内の反日勢力とも協力し日本攻撃をします。我慢のならない共産党独裁政権の中国に対し、国民の多くが怒りを覚えています。
しかし、共産党独裁政権の中国が日本をターゲットに攻撃を始めたのは、江沢民氏の就任時から計算すると、たかだか36年間です。共産党政権でなかった昔の中国が、250年間も日本を導いてくれたことを思うと帳消しにしたくなる長さです。
捏造の南京事件を、国の休日にし国民の怒りの日としたのは習近平氏です。韓国の捏造の慰安婦像が米国やカナダなどで作られる時、設置に協力したのは現地の在留中国人協会でした。尖閣の領海に武装した公船で侵入し、侵犯を繰り返すのも中国ですから、昔の中国の面影はどこにもありません。
共産党の独裁政権のおそろしさと厄介さに気をゆるすと、チベットやモンゴル、ウイグルのように中国領にされてしまいます。寛大だった古代の中国への感謝と、共産党の独裁政権下にある中国は、峻別して考えなくてなりません。このような比較をするのは私だけで、氏はテーマを外れません。
「鎖国時代に生きた頼山陽が、遣唐使に関心を持ったことは当然であるが、その注目点が面白い。遣唐使として出かけたが、帰国しないで、唐朝に支えた留学生を取り上げたのである。」
氏は二人の留学生について読者に紹介し、続いて詩の解説が始まります。
・藤原清河
・孝謙天皇の天平勝宝2年 ( 西暦750 )、遣唐使の大使に任ぜられた人物
・阿倍仲麻呂
・元正天皇の霊亀2年 ( 西暦716 )に出発した、遣唐使の一行に留学生として加わった人物
・この時の大使は阿倍安麻呂と、大伴山守、阿倍仲麻呂は後に玄宗に仕えて、名を朝衡とした
「詩の最初の二行は、この二人の紹介である。すなわち、」
遣唐使 留学生
臣清河 (きよかわ) 臣朝衡 (ちょうこう)
次の二行の解説です。
使いする所は何の命ぞ 学ぶことは何の道ぞ
顔 (がん) あり 能 (よ)く結ぶ李家の纓 (えい)
「国から遣唐使として派遣される以上、国から命令されたことがあったはずだ。その命令はなんであったのか。また、留学生である以上、その勉強の目的があったはずだ。それはなんの道であったのか。」
「儒学をやるならば、自国を捨てて異朝に仕えるという道は教えないはずだ。」
ところが二人は厚顔にも、唐の宮廷に仕えてしまいました。肝心なところになりますが、スペースの都合で次回にいたします。