ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『日本史の真髄』 - 56 ( 故国への思い )

2023-02-15 19:35:25 | 徒然の記

 この部分は頼山陽の漢詩の解説というより、渡辺氏の解釈の紹介になっています。

 「しかし実際は、藤原清河も阿倍仲麻呂も一緒に帰ろうとしたのであった。二人は高僧鑑真に日本へ来ることを要請し、共に日本へ向かって出港することにしたのである。だたこの時、清河の態度がちょっとおかしかった。自分が鑑真に来日を要請しながら、出港直前になって、鑑真一行を自分の船からおろしてしまうのである。」

 だがそれには、理由がありました。唐の政府が鑑真の渡日に反対しているため、密航が発見されたら大問題になると、清河が心配し始めたからでした。

 「それなら、最初から招待すべきではなかったのである。」

 氏はこのように説明しますが、鑑真を招待するというのは日本政府の決定だったはずですから、清河の権限の範囲でありません。だから次の説明になります。

 「副使の大伴古麻呂は、清河の態度に憤慨し、独断でこっそり自分の船 ( 第二船 ) に乗せてしまった。しかし4隻の船のうち ー (遣唐使の船は必ず4隻) ー 、鑑真の乗った船を含め3隻は日本に帰ってきたが、大使の清河や仲麻呂の乗った第一船だけが、沖縄を出港したあと暴風に遭い、安南 ( ベトナム ) に漂流してしまったのである。」

 清河と仲麻呂は安南で土着民に殺されかかりますが、やっと難を逃れふたたび長安へ戻りました。もともと清河は、玄宗皇帝に好印象を与えていました。最初に謁見した時、態度や礼儀作法が立派だったので、皇帝が次のように言ったとのことです。

 「日本には賢い君主がいると聞いていたが、今その使者を見ると礼儀をよく心得ているから、日本に〈 有儀礼儀君主国 〉という称号を与えよう。」

 「つまり清河は大使として、祖国の面目を立派に保った人物であった。その彼が漂流の苦難の後奇跡的に長安に戻ったのだから、唐の宮廷で厚く待遇したとしても不思議はない。彼は名を河清と改め、秘書監 ( 長官  ) に任ぜられた。」

 「次の遣唐使が行った時、一緒に帰らせようとしたが清河は戻らず、その娘だけが帰ってきた。彼は73才の時に唐で死んだが、唐朝は潞州 ( ろしゅう )大都督の位を贈った。日本の朝廷も後の遣唐使に命じ、清河に従一位を贈らせ哀悼の意を表しているが、これは国際儀礼であろう。 」

 礼を重んじる寛大な中国と、真面目な学徒だった日本との関係が見て取れます。江沢民氏や習近平氏の中国に日本の政治家が仕えるのだとしたら、私も頼山陽に負けず彼らを詰問しますが、250年もの間日本の師だった古代の中国のため清河や仲麻呂が仕えても異論はなく、そのくらいのお返しは当然だろうと考えます。もしかすると氏も私と同じ思いなのか。二人を責めません。

 「一方、阿倍仲麻呂は最初に留学した時から、吉備真備と共に唐の学者文人を驚かすほどの学問と文才を示した。唐の大詩人にも仲間として認められるようになった。」

 いよいよ彼が清河や鑑真と日本へ帰ることとなった時、王維が次のような詩を送りました。大事な詩ですが、解説がないので読んでも分かりませんし、スペースも節約したいので割愛します。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、どんな詩であるのか、氏の説明で推察してもらいたいと思います。

 「この詩の出来具合はともかくとして、唐の大詩人にこれほどの送別の詩を贈られたというのは、大したものである。」

 それよりも、私が胸を突かれたのは次の解説でした。

 「清河や仲麻呂や吉備真備や鑑真が乗った4隻の船が、蘇州の港を出発したのは、孝謙天皇の天平勝宝5年 ( 西暦753 )の陰暦2月15日の夜であった。初冬の空は晴れて、満月が照り渡っていた。」

 「この時阿倍仲麻呂が、在唐36年の思い出と、これから向かおうとする万里の波濤の彼方にある故郷を思って作ったとされる歌が、これである。」

  天の原ふりさけ見れば春日なる

   三笠の山に出でし月かも

 「『古今集』に入れられ、さらに百人一首にも入っているので、最も有名な和歌の一つになった。仲麻呂が留学生として遣唐使の船に乗り、日本を後にしたのは16歳の時だった。だから郷里に帰ろうとしている時には、在唐期間の方が日本にいた期間よりも倍以上に長い。どちらが自分の祖国か、わからなくなったようなところがあったのであろう。」

 この歌は私も百人一首の和歌として覚えていますが、こういう状況で読まれた歌とは知りませんでしたから、二つの意味で驚きました。

 ・阿倍仲麻呂が、百人一首の歌人と同一人物だったこと

 ・祖国である故郷を思い、切ない気持ちで歌われた和歌であったこと

 しかも彼は、帰国の船が遭難し、そのまま唐で生涯を終えました。涙が知らずにこぼれます。

 「頼山陽は仲麻呂が唐の臣になったことを非難したが、この〈 天の原・・〉 の和歌を見ると、仲麻呂もまんざら日本を忘れたわけじゃないな、という気になってくる。それが、この一行である。」

  猶(なお)知る 頭(こうべ)を回(めぐ)らして出月(しゅつげつ)を望むを

 「唐臣になってしまった仲麻呂も、〈 月の出を待ち望む気持ちを失っていないな  〉、という意味である。なぜこんなことを言うかと言えば、」

   月の出(い)づる処は 即ち日の出(い)づる処

 「だからである。〈 月の出る処 〉〈 日の出る処 〉は、日本だ。月の出を望むのも、日の出るを望むのも、どちらも東を望む、つまり日本を望むことだから、仲麻呂もまだ祖国日本を忘れていないなと、頼山陽は言っているのである。そして仲麻呂の和歌の描く風景は、と言えば、」

   月光明明として海光はるかなり

 「であって、満月に照らされた冬の海が銀色に輝き、はるか日本の方まで広がっている、というのである。」

 「この第九闋 ( けつ ) は、前半で唐臣となった二人を批判し、後半は仲麿の歌をふまえてやや弁護的である。和歌の方は〈 三笠の山  〉であるが、山陽の詩の方は〈 海光はるかなり  〉の海である。仲麻呂は記憶の中の山月を和歌にし、山陽は仲麻呂が眼前に見ている海上の月を詩にした。山と海の対比の中に、頼山陽の才気がひらめいている。」

 頼山陽だけでなく氏の解説の起承転結の巧みさにも、頭脳のひらめきを感じさせられ、胸を突かれました。世界万民、誰にとっても、祖国とはこういうものではないでしょうか。

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『日本史の真髄』 - 55 ( 清河、仲麻呂、鑑真和上 )

2023-02-15 12:22:30 | 徒然の記

   使いする所は何の命ぞ 学ぶことは何の道ぞ

   顔 (がん) あり 能 (よ)く結ぶ李家の纓 (えい)

 唐は李淵 (りえん) が建てた王朝ですから、李家 (りけ) と言います。「顔 (がん) あり」は「厚顔にも」とか「厚かましくも」という意味だそうです。纓 (えい) は冠の紐のことですから、「纓を結ぶ」ということはそこの朝廷に仕えることになります。

 「このことについて、頼山陽はこのように表現した。かなり厳しい非難の調子である。ただこの箇所の読み方は、もう一つの可能性もある。〈顔あり〉を〈厚顔にも〉としないで、〈面目をほどこして〉という賞賛の意味に取ることである。唐の朝廷に仕えるようになったことを、日本人の名誉と考えるわけである。」

 いずれの意味もありますが、氏は自分なりの解釈をします。

 「前行で、〈何の命ぞ〉〈何の道ぞ〉と言っているのは詰問の調子である。頼山陽は徳川時代の儒臣の家に育っているから、主家でない別の大名に召し抱えられることを、名誉と考える発想はなかったはずであるし、異朝に仕えるなどとはもってのほか、と感じたはずである。従ってここでは、詰問調に訳しておきたい。」

 氏は先ず、もってのほかの留学生の一人阿部仲麻呂について語ります。

 「仲麻呂は、養老元年 ( 西暦717 ) に出発した遣唐使の一行に、留学生として加わった。この時彼とともに留学生となった人には、吉備真備 (きびのまきび) がある。真備は唐にいて学問研究すること17年、聖武天皇の天平六年 ( 西暦734 ) に、多くの書物や器物を持って帰国した。」

 留学といっても現在のように4~5年の話でなく、10年以上の長期留学で、帰国時には大量の書物や品物を持ち帰っていたことが分かります。氏は何気なく説明していますが、当時の遣唐使や留学生の様子や、その大変な苦労が叙述の中から汲み取れます。

 奈良にある唐招提寺の開基 (そうせつしゃ) が、中国から渡来した高僧鑑真であることや、日本へ来るための苦労が元で盲目になったことなど、私たちは何となく知っています。渡辺氏のおかげで、遣唐使たちと鑑真の労苦を教えられたのは予定外の収穫でした。「温故知新の読書」とは、このようなことを言うのかもしれません。学徒の喜びを息子たちと、「ねこ庭」を訪問される方々とも分け合えたらと思います。

 「しかし真備が帰国する時、阿部仲麻呂は帰って来なかった。このことが、どうも頼山陽の非難の理由であるらしい。帰朝した真備は日本の学問の向上に大きな役割を果たしたのであるが、帰ってこなかった仲麻呂は日本のためにはなにもならなかった、という考え方である。」

 真備は、日本最初の女性皇太子となった阿部内親王 ( 後の孝謙天皇・称徳天皇  ) の教授にあたり、恵美押勝の乱を平定するにも大功があったと言います。

 「吉備真備は日本に帰り、政治にも関与し右大臣にもなり,日本儒学の祖、カタカナの発明者、囲碁の輸入者とみなされて尊敬されている。しかしこの時、大使である藤原清河も前から滞留していた阿部仲麻呂も帰らなかった。」

 「副使の真備が帰っているのに、一緒に大使が帰らず、36年も滞留している仲麻呂も帰らないのは、ちょっとおかしいという印象を与える。特に仲麻呂は、最初に真備とともに渡唐したのだ。その真備が再びやってきたのに、帰らなかったのである。」

 なるほどそれはおかしいと、氏の解説があるから気がつきます。解説がなければ、帰国しなかった遣唐使が二人いたと、それだけの話で終わります。せいぜい、とんでもな留学生がいたと、頼山陽と一緒になって憤慨していたはずです。氏は帰らなかった二人について、頼山陽と違った解釈をし、苦しい思いをした彼らの姿を語ります。もしかすると、氏の説明を読み、涙を浮かべる人があるのかもしれません。

 清河と仲麻呂だけでなく失明した鑑真についての涙ですが、スペースがなくなりましたので、次回といたします。

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