この部分は頼山陽の漢詩の解説というより、渡辺氏の解釈の紹介になっています。
「しかし実際は、藤原清河も阿倍仲麻呂も一緒に帰ろうとしたのであった。二人は高僧鑑真に日本へ来ることを要請し、共に日本へ向かって出港することにしたのである。だたこの時、清河の態度がちょっとおかしかった。自分が鑑真に来日を要請しながら、出港直前になって、鑑真一行を自分の船からおろしてしまうのである。」
だがそれには、理由がありました。唐の政府が鑑真の渡日に反対しているため、密航が発見されたら大問題になると、清河が心配し始めたからでした。
「それなら、最初から招待すべきではなかったのである。」
氏はこのように説明しますが、鑑真を招待するというのは日本政府の決定だったはずですから、清河の権限の範囲でありません。だから次の説明になります。
「副使の大伴古麻呂は、清河の態度に憤慨し、独断でこっそり自分の船 ( 第二船 ) に乗せてしまった。しかし4隻の船のうち ー (遣唐使の船は必ず4隻) ー 、鑑真の乗った船を含め3隻は日本に帰ってきたが、大使の清河や仲麻呂の乗った第一船だけが、沖縄を出港したあと暴風に遭い、安南 ( ベトナム ) に漂流してしまったのである。」
清河と仲麻呂は安南で土着民に殺されかかりますが、やっと難を逃れふたたび長安へ戻りました。もともと清河は、玄宗皇帝に好印象を与えていました。最初に謁見した時、態度や礼儀作法が立派だったので、皇帝が次のように言ったとのことです。
「日本には賢い君主がいると聞いていたが、今その使者を見ると礼儀をよく心得ているから、日本に〈 有儀礼儀君主国 〉という称号を与えよう。」
「つまり清河は大使として、祖国の面目を立派に保った人物であった。その彼が漂流の苦難の後奇跡的に長安に戻ったのだから、唐の宮廷で厚く待遇したとしても不思議はない。彼は名を河清と改め、秘書監 ( 長官 ) に任ぜられた。」
「次の遣唐使が行った時、一緒に帰らせようとしたが清河は戻らず、その娘だけが帰ってきた。彼は73才の時に唐で死んだが、唐朝は潞州 ( ろしゅう )大都督の位を贈った。日本の朝廷も後の遣唐使に命じ、清河に従一位を贈らせ哀悼の意を表しているが、これは国際儀礼であろう。 」
礼を重んじる寛大な中国と、真面目な学徒だった日本との関係が見て取れます。江沢民氏や習近平氏の中国に日本の政治家が仕えるのだとしたら、私も頼山陽に負けず彼らを詰問しますが、250年もの間日本の師だった古代の中国のため清河や仲麻呂が仕えても異論はなく、そのくらいのお返しは当然だろうと考えます。もしかすると氏も私と同じ思いなのか。二人を責めません。
「一方、阿倍仲麻呂は最初に留学した時から、吉備真備と共に唐の学者文人を驚かすほどの学問と文才を示した。唐の大詩人にも仲間として認められるようになった。」
いよいよ彼が清河や鑑真と日本へ帰ることとなった時、王維が次のような詩を送りました。大事な詩ですが、解説がないので読んでも分かりませんし、スペースも節約したいので割愛します。息子たちと「ねこ庭」を訪問される方々には、どんな詩であるのか、氏の説明で推察してもらいたいと思います。
「この詩の出来具合はともかくとして、唐の大詩人にこれほどの送別の詩を贈られたというのは、大したものである。」
それよりも、私が胸を突かれたのは次の解説でした。
「清河や仲麻呂や吉備真備や鑑真が乗った4隻の船が、蘇州の港を出発したのは、孝謙天皇の天平勝宝5年 ( 西暦753 )の陰暦2月15日の夜であった。初冬の空は晴れて、満月が照り渡っていた。」
「この時阿倍仲麻呂が、在唐36年の思い出と、これから向かおうとする万里の波濤の彼方にある故郷を思って作ったとされる歌が、これである。」
天の原ふりさけ見れば春日なる
三笠の山に出でし月かも
「『古今集』に入れられ、さらに百人一首にも入っているので、最も有名な和歌の一つになった。仲麻呂が留学生として遣唐使の船に乗り、日本を後にしたのは16歳の時だった。だから郷里に帰ろうとしている時には、在唐期間の方が日本にいた期間よりも倍以上に長い。どちらが自分の祖国か、わからなくなったようなところがあったのであろう。」
この歌は私も百人一首の和歌として覚えていますが、こういう状況で読まれた歌とは知りませんでしたから、二つの意味で驚きました。
・阿倍仲麻呂が、百人一首の歌人と同一人物だったこと
・祖国である故郷を思い、切ない気持ちで歌われた和歌であったこと
しかも彼は、帰国の船が遭難し、そのまま唐で生涯を終えました。涙が知らずにこぼれます。
「頼山陽は仲麻呂が唐の臣になったことを非難したが、この〈 天の原・・〉 の和歌を見ると、仲麻呂もまんざら日本を忘れたわけじゃないな、という気になってくる。それが、この一行である。」
猶(なお)知る 頭(こうべ)を回(めぐ)らして出月(しゅつげつ)を望むを
「唐臣になってしまった仲麻呂も、〈 月の出を待ち望む気持ちを失っていないな 〉、という意味である。なぜこんなことを言うかと言えば、」
月の出(い)づる処は 即ち日の出(い)づる処
「だからである。〈 月の出る処 〉〈 日の出る処 〉は、日本だ。月の出を望むのも、日の出るを望むのも、どちらも東を望む、つまり日本を望むことだから、仲麻呂もまだ祖国日本を忘れていないなと、頼山陽は言っているのである。そして仲麻呂の和歌の描く風景は、と言えば、」
月光明明として海光はるかなり
「であって、満月に照らされた冬の海が銀色に輝き、はるか日本の方まで広がっている、というのである。」
「この第九闋 ( けつ ) は、前半で唐臣となった二人を批判し、後半は仲麿の歌をふまえてやや弁護的である。和歌の方は〈 三笠の山 〉であるが、山陽の詩の方は〈 海光はるかなり 〉の海である。仲麻呂は記憶の中の山月を和歌にし、山陽は仲麻呂が眼前に見ている海上の月を詩にした。山と海の対比の中に、頼山陽の才気がひらめいている。」
頼山陽だけでなく氏の解説の起承転結の巧みさにも、頭脳のひらめきを感じさせられ、胸を突かれました。世界万民、誰にとっても、祖国とはこういうものではないでしょうか。